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あれからもう28年〜当時のことを語り継ごう〜

今日であの阪神淡路大震災から28年が経つ。
正直なところ、
今日がその日であるということに朝のニュースでハタと気づいた。

ニュースの取材で
大切な方を亡くされた方が、
「忘れ去られることがないように語り継がなければいけない。」
とおっしゃっていた。
普段はすっかり復興した神戸に遊びに行きながら、
震災のことを思い出すことが本当に少なくなってしまっていた自分に猛省。
今日は当時のことを少し振り返りたい。

1995年1月16日、
ダンナのお母様が福岡から大阪の我が家を訪れていた。
孫の長男に会うためと、
5月に2人目の出産を控えた私の様子を見に来てくださったと記憶している。
その日は息子が大好きな交通科学館へ遊びに行き、
お母様も久しぶりの孫との再会をとても喜んで、その日の夜の新幹線で福岡へと戻られた。

その晩は疲れていたこともあり、
いつもは寝つきの悪い2歳の息子もすんなり寝てくれた。


夢かうつつか、
枕の下の方から、いや地の底から、
グゥぉーーーっという聞いたことのない重低音のうめき声が近づいてきた。
(後にそれが地鳴りだと知った)
次の瞬間、
家がドンドンと縦に揺れ、
ミシミシギシギシと音を立てて横に揺れた。
当時住んでいた築35年昭和の安普請の木造住宅は盛大に揺れた。
壊れるー!と思った次の瞬間揺れがおさまった。
1995年1月17日5時46分のことだった。

起き出してTVをつける。
速報で阪神地域で地震があった模様とだけ伝えられた。
それから時間が経つに連れ、
被害の状況が明らかになり、
次々と映像が流された。

上空のヘリコプターからは、
神戸の街のあちこちで上がる炎と煙、倒壊した建物、そして横倒しになった阪神高速道路。。。
信じがたい映像が次々に流された。

その間も何度か余震があった。
頑丈そうな鉄筋コンクリート造の建物が倒壊した画を見た後では、
この古い木造住宅が余震でいつ倒壊してもおかしくはないように思えた。

その日は会社から電話があり、
電車も動いていないので自宅待機となり、
息子も保育園を休んだ。
ダンナだけは徒歩で数時間かけて会社に行った。
妊婦と2歳の子を置いても会社に行くのはいかがなものか??
28年後の今でも納得がいかない。

山陽新幹線ももちろん運休していたし、その後80日間も復旧にかかっていたので、
福岡の義母が前日に帰宅できたのが不幸中の幸いだった。

その後、何日も続く余震の度に
大きなおなかが張るようになった。
お腹の子供に悪影響があるかもしれないと、心配になるほどだった。

まだまだライフラインの復旧や仮設住宅も行き渡らない2ヶ月後、
東京で地下鉄サリン事件が起こった。
1995年3月20日のことだ。
次第にニュースや新聞報道は、
阪神淡路大震災から東京で起きた
地下鉄サリン事件へとシフトしてしまったように私には感じられた。


当時は私も地下鉄通勤をしていたので、大阪でも模倣犯が出ないか心配だった。
サリンが妊婦に与える影響は未知数だ。
地震にサリン。
妊婦には耐えがたく、もう早く出てきてほしいと思ったくらいだ。
亥年は荒れるというのは本当らしい。

これからも震災の記憶が風化しないよう、
毎年この日だけでも、
当時の恐怖や不安な気持ちを思い出して、
まずは今年28歳になる娘と31歳になる息子に語り継ごう。

数多くの犠牲者が残してくれた教訓を忘れず、
嫌でも必ずやってくる次の災害へ備えるために。

神戸ルミナリエ
犠牲者への鎮魂と震災の記憶

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