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『週末シェフ』

 まだ二人が婚約中の話だ。ふいに、料理の話になった。
 「料理、出来るよ。カレーとハンバーグと餃子。任せて!」
 自信満々に胸を張ってそう答える彼女。その瞬間から僕は週末シェフとして彼女の胃袋を支える側にならざるを得ない事を自覚した。幸い、一人暮らしの時期も長く台所に立つのは苦ではなかったし、我が家の家訓は「男子、厨房に入るべし」だった。
 それより、料理ひとつで結婚への障害が減るのなら…と喜んでこの状況を受け入れた。そうして僕は週末シェフ(兼:主夫)にジョブチェンジすることになるのである。

 その話から何年が経っただろうか。
 週末の土曜。15時に差し掛かろうという時に、外行きに着替えながら僕は言った。
 「かおり~、そろそろ出かける準備して」
 呼びかけた妻はテレビの前に座ったまま「へい、でもいまいいとこ」と答える。どうせこのまえ買ってきた新作ゲームに夢中なのだろう。彼女の意向は気にせず、僕は僕で淡々と準備を進める。
 結局かおりが着替えに動き出したのは、それから10分後だった。何だったのかと聞いたらボス戦の最中で、途中で止められなかったらしい。そりゃそうかとうんうんと理解した。

 出かける先は、近所のスーパー。特に献立を考えるでもなく、その日の食材を見て何を作るか決める。その決定権者(文句を言わせないためでもある)として彼女を連れていくのだ。
 相変わらず、ここの鮮魚コーナーは仕入れがいい。
 今日も珍しい魚の丸物がごろっと並べてある。いいサイズの太刀魚もあるし、舌平目もある。ムニエルにもってこいだ。「ムニエルは?」と聞くと、「むにー」と謎の音声が返ってきた。経験上これはGOのサインだ。担当さんに話して、舌平目を袋に詰めてもらっている間に、視界の脇に鮮度の良さそうな小ぶりの鯵が売っていた。
「一緒にアジももらっていいですか?」「大丈夫ですよ」と担当さんの言葉。

 魚が決まれば、次は野菜と肉だ。今日の野菜はこれとこれ、とチョイスしている間、彼女は視界から消える。どうせ先に肉コーナーで物色したり店頭販促の味見をしているに違いない。あまり気にせず、ちょっと珍しくパプリカも仕入れてみた。
 肉コーナーに向かうと、彼女がとことことこちらへやってくる。手ぶらではない。そうして牛タンのスライス8枚ほどが入ったパックを無言でカゴに入れた。

 基本的に彼女のチョイスがあった場合、僕に拒否権はない。ただ笑って「ネギだれで行きましょうか」とだけ聞くと、無言で首を縦に振った。
 「そういやオリーブオイルあったっけ?」と彼女。言われてみれば確かにストックの残りは心もとない。「ナイス指摘。グッジョブ、取ってきて」と頼むと、ぱーっと油コーナーに向かっていい具合のを持ってきてくれる。こういうところは助かる。

 ここのスーパーは酒類の種類(特にワイン)が異常に揃っている。海外産・国内産と大きな棚が2つ別れているくらいだ。たぶん種類でいったら300種はあるのではなかろうか。
 僕は海外産のを見ていくと、シャブリが置いてあるではないか。ちょっと値はするけど、すっきりして心地よい酸味がたまらない白ワインで、魚介にはもってこいだ。彼女の承認を取ろうとしたが、既に別のコーナーでアイスやら菓子を物色中だったので、呼び戻すのはやめて僕は瓶に手を伸ばした。
 こんな感じで、本日の仕入れは終わった。帰り道に少し荷物を持ってくれるのは、やはり彼女を連れてきた甲斐があるというものだ。


 帰宅後、仕入れた食材を手早く冷蔵庫に移すと、僕の本領発揮だ。お気に入りの黒い腰巻エプロンをつけて、何本かある包丁のうち数本を選んで軽く研ぐ。かおりは再びテレビに向かってコントローラーを握り、ぶつぶつと呟き始めた。本当に独り言を言いながらゲームをするのはやめてほしいのだが、その光景が面白すぎてそのまま見ている。
 以前に仕入れて冷やしておいたシェリーのティオペペを開けて、ワイングラスに注ぐ。口にすると独特のクセのある味が口一杯に広がる。
 まずは舌平目をタッパーに移す。キッチンタオルで包んでラップをして冷蔵庫へ。この手間で余計な水分が抜ける。
 次に長ネギを小口面で十字に切り込みを入れると、後は普通の小口切りの要領で刻んでいく。牛タンのネギだれ用と、もう4センチほど切っておく。
 小鉢にネギだれ用の分を移すと、塩・砂糖少々・ごま油をかけ、軽く和えたらラップして冷蔵庫へ。そのまま、鯵の料理に移る。

 鯵は頭を落とし、三枚に卸してから皮を引く。中骨のラインにそってV字型に包丁を入れ、避けておく。身は1センチ程度に切ってから、包丁2本で軽くたたく。そこに先程の残りのネギと適量の味噌、あと隠し味で生姜を少し加えて、さらにたたく。
 カクテルグラスのような透明感のある形状をした皿に大葉を添え、たたいた身を天盛りにする。これで一品目『鯵のなめろう』の完成だ。一人分では多いので、キッチンに立ったまま味見と称して食べてみる。うん、簡単なのに旨い。思わずシェリーに手が伸びた。
 シェリーとの相性もまた格別で、僕は小さく唸った。皿と箸をダイニングテーブルに並べ、
「一品目出来たでー」とかおりに呼びかける。

 程なくして、かおりがダイニングに座るやいなや「なめー」とまた音声を発した。たぶん、なめろうの”なめ”なのだろう。嬉しそうだ。
 「そういえば哲ちゃん、シャブリ買ってたでしょ? 開けて」と嫁御はテーブルに着席したまま言う。「…よく知ってるな」と問うと、「お会計の時にチェック済みです」とのこと。
 まったく、変なところでよく見ている…。冷凍庫で少し早めに冷やしておいた瓶を取り出すと、僕はワインオープナーで手早く栓を抜くと、薄手のワイングラスに注ぐ。
 「うんうん、これ絶対うまいやつだ」
 かおりが楽しそうにしているのを見るのは、僕としても鼻が高い。「さ、召しませ」と促して、僕はテーブルに背を向けて再びキッチンに立つ。

 次はタン塩のネギだれ。実質軽く塩を振って焼くだけなので、調理らしい調理はない。焼きあがると、黒くて長細い角皿に手早く盛り付け、仕上げにネギだれを全体にかけて出来上がり。こういう時に器にちょっと拘るだけで料理の見栄えが変わるのが、食器の楽しいところだ。ふた切れほどつまみ食いして、味を確かめる。
 テーブルはちょうどなめろうを食べ終えていい具合だ。僕は無言でタン塩をテーブルに差し出し、空いた食器を流しに引き上げる。
 「ワインおかわり~」と言い始めたので、冷蔵庫から瓶を取り出す。「さすがに後は自分のペースでやっとくれ」と苦笑いする。
 流しの食器やまな板を洗いながら、次の舌平目のムニエルにかかる。

 冷蔵庫から出した身に、小麦粉と秘密のハーブを表裏まんべんなくまぶす。そうして、パプリカをくし切りにして準備しておく。フライパンを火にかけ、軽くバターを落とす。
 頃合いを見て舌平目を入れ、ついでにパプリカも入れる。いい具合で火が通ったところで舌平目をひっくり返す。うん、いい香りがしてきた。
 仕上げに買ってきたてのさっきのシャブリで軽くフランベしてから、大型の丸い平皿に盛り付ける。パプリカの赤時が良いアクセントになった。しかし、テーブルに向かうと、いつの間にか彼女はまたゲームに移っていた。
…しまった、時間が空き過ぎたか!?
 自分の失態というわけではないが、テーブルに皿を整えて「ムニエル出来たで」と言う。彼女「あいよ」とは言うものの、視線はテレビ画面から離れない。まぁ、こういう人だ。
…くっそ、時間をかけ過ぎたか。

 先程の牛タンの皿を流しに持っていき、ようやく僕はテーブルについた。僕はムニエルが冷めてしまわないかどうかを心配していた。
 「痛ぇ、何すんだ!!」と叫びながらゲームにしがみつく妻と、その横顔をぼんやりと全てを諦めていつものように眺める僕。そして冷めていく料理。だが、別にいいのだ。
 次は時間差なしでキチンと提供してみせるぞ、と決意を新たにした。無論それすらも”週末シェフ”の日常なのだから。

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