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伏見の鬼 14

 敷闇しきやみが濃くなった。
 数夜を経て月齢は更に進み、最早それは天空にある傷口のような細さで、そこからのか細い月光では足元も覚束ない。
 いずれ新月になり、闇夜が二晩は続くことになる。
 墨を広げた如き空に星あれど、夜目をたすけるには程遠い。
 沖田総司は先駆して、暗がりに身を細めて待っている。
 服は浅黄色の隊服ではなく、漆黒の小袖に袴にも絹糸ひとつ紛れてはおらぬ。そして葉桜になりつつある幹に背を預け、右を立膝にして座している。そうして木影と一体になり、気配を殺している。
 彼方より櫓をかく音がするのを待っている。
 伏見に下る高瀬舟を尾行しては勘付かれる。
 先夜、鬼が彼を襲った瀬で待伏せしている。
 暫しの間があって、聞き覚えのある櫓捌きの音と、呼吸音が耳に届く。総司はそれを聞き流している。
 眼力を注がず、上辺を視る。
 勘の良い男なら肌に察する。
 それが殺気、というものだ。
 櫓の音が迫り、高瀬舟が岸に寄っていく。
 そしてどさりと、柔らかく重い音がする。
 くらい岸辺に黒い影が放り出されたらしい。
 見向きもせずに男は、再び櫓を取って、また何事もなかったかのように過ぎ去っていく。

 高瀬舟は再び漕ぎ去っていった。
 ようやく総司は動き出した。まずは黒い影を検分にゆく。
 やはり侍のようだ。酒臭く更に白粉の匂いがする。きき覚えのある薄雲の、花の香を嗅いだ気がする。
 無頼で不出来な男よの。酒色に溺れたままで斬り合いに行こうてか。
 およそ大刀を持つに相応しからぬ。
 まだ息はある。酩酊しているにも見える。総司はその頭頂部を探るが、掌にざらりとする感触がある。最早、憫笑が抑えきれぬ。
 総司はいそいそと立ち上がった。
 男が袂を掴んできたが、ばさりと手が落ちた。羞恥が総司の顔に差した。
 己の行状は、りが懐を探るかに見えるではないか。
 この有様では侍の矜恃が立たぬ。
 踵を返して、ただ徒然に伏見を歩みだした。
 
 暁月の姿も既に隠れている。
 ばかりか東には早暁の光が潤み始めている刻限となった。
 目線の奥で微かに捉えている。
 遠く。
 さくりさくりと微かな足音がする。
 その歩幅、足捌きの音律、僅かに左に傾いだ背。
 かの鳶職の見習い若衆の後ろ姿に酷似していた。
 彼を認めたのは偶然であった。いや奇遇であったかもしれぬ。伏見の匠楽漬物の評判を、一昨日に秩が語ってくれた。度重なる差入れの御礼に、手土産にでもと思い出した。朝市にそれがあるかは判らぬ。
 かの者の足は軽やかに進む。
 どうも五条大通りに向かっている。
 青紫の光が空を染めてきた。
 愈々いよいよと大詰めであるな、と独白を言いかけると、ばらばらと乱れた足音が沸き起こった。取巻かれたのは、かの若衆である。
 すくんでいるのが、遠目に判る。
 浅黄色の羽織姿が三人もいる。
 何れも大小を佩いた侍である。
 異様であるのはそれが頭巾姿で囲んでいる。
 ぎらりと、曙光を浴びた白刃が揺れている。
 それだけで総司は足を速めた。
 おれは運がいい。
 唇に笑みがある。
 
 
 
 
 

 


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