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ON AIR

 背中で触れてきた。
 僕ははっと息を飲み、キーボードを叩く指が止まった。背中にかかる重みが微妙に動く。柔らかな律動。触れ合っている部分だけ体温が上がってきていた。彼女の心音までそこから届きそうな温もりが、僕の意識に目隠しをした。
 ふふ、と唇だけの密かな笑い声が届いた。
 世話焼きの結衣さんの気配がした。
「ちょっとは驚いた?」
「滅法、驚いた」
「まだ・・・驚くわよ」
 ベンチソファの上で身体を捩って、今度は胸を当ててきた。体幹のうねりの向こうに羽毛のように柔らかな感触があった。
「ちょっと待ってよ」
「待ってなんて、待って何ができるのよ。処女なの、キミ?」
「原稿を落としてしまう。あと2時間で書き終えないとオンエアに間に合わない」
「へえ。仕事熱心。前回はわたしへのアテ書きだったくせに」
「・・・ごめん。〆切ギリだったので、キャラ借りました」
 アテ書きというのは、演者を想定して仕上げる脚本のことで、先週は原稿が混んでいてついつい人物構成を借りてしまった。
「だからぁ、その続編に協力してあげているのよ」
「もう遅い。再来週につかわせてもらいます。なので気を逸らせないで」
 体温が離れ、手入れのされているロングが僕の耳元をくすぐりながら揺れていくので、彼女がソファから立ち上がっていくのがわかった。
 僕はあえてその後ろ姿を振り返らなかった。

 当時の僕は地方のFM局で放送作家の真似事をやっていた。
 作家とかライターというと聞こえはいいが、生活はバイトとの副業で成り立つ程度。それこそ食レポやイベント、音楽番組の台本からリクエストのお便り、局への視聴者の声なども、全てオーダーのままに濫造していた。
 地方局の、基本の番組はキー局からの購入ではあるが、地元企業のCM獲得にはオリジナル番組が必要になる。ここで僕が提案して恋愛短編ものを書かせてもらっていた。本音を言うとコマ割の原稿ギャラよりも、帯番組を持つことで自分の安定収入が欲しかっただけだ。 
 結衣さんは局契約のアナウンサーで、ニュース原稿からパーソナリティ、ドラマの声優まで兼ね役でこなしていた。声優のボイストレーニングも経験があるらしく、ひとりで量産しているとは見破られなかった。
 年上の彼女はフリーランスで、高校では同時に在籍できないが小学校では同じ学舎に通う程度の年齢差があった。なのに彼女は敬語を使われる事を極端に嫌った。しかし原付で局に来る僕と、ロードスターで来る彼女との圧倒的な収入の格差を感じていた。
 そのFM局で、僕は所謂、缶詰状態になることがままあった。特に師走の時期は年末進行で、番組の収録の2本録音の2セットなどはザラにあり、帯番組を提案したことを後悔してしつつ、キーボードに向かい続けている時期のことだ。
 収録スタジオの隣に待合室があり、薄汚れた長テーブルにベンチソファが置いてあった。なぜベンチなのかというと、深夜や完徹仕事が日常のADや音響スタッフがそこで仮眠をとるためであり、絶賛、缶詰中の僕もその状況だった。 

 何とか原稿を上げて、ヘルメットを取った。
「完了?」と結衣さんは指先でキーを回しながら微笑んできた。
 フード付きの紺色のダッフルコートを着ていた。首周りと手首回りを革ストラップで閉じてあった。細身のジーンズにショートブーツ。寒さ対策は万全だろう。
「やっつけてきた。もうオンエアが心配で堪らない」
「また相手役やる?」
「ご冗談。もう懲り懲りした。自分の声で原稿読むなんて、なんて自虐」
 ハハッと弾けるように笑う。もう数週間前か、原稿の上がりが遅く、相手役の男性声優のスケジュール押えがバラシになったことがあり、責任をとって僕が代役をやらされた。演劇をしていたのは大学生の頃、マイクに語りかけるテクがあるわけがない。
 まして湯気の立ちそうなお手製ホヤホヤの台本の睦言を、自分と結衣さんの声で、リハから本テイクまで繰り返しヘッドホンで聞かされて脂汗が出た。こんな恥辱はなかった。
「何か呑んでいく? お姉さんがねぎらってあげよう」
「今日はとにかく寝たい。シャワーも浴びたい」
「あら。私の部屋ならベッドがあるわ。敷きっぱの布団より快適かもよ」
「からかうのは勘弁してください。なら一杯だけ。しかも珈琲だけ、お世話になります」
 ロードスターは幌を下ろしてあった。もう師走のかかりだというのに。彼女の完全武装が理解できた。
「大丈夫よ。オープンでもヒーターが強力だから」
「助手席側はあんまり効かないって、知ってます?」
 寝不足の眼に、頭上を疾走していく市街の灯が朧に美しかった。
 一段と暗空が高くなった印象がある。クリスマスを控えて、街が甘ったるい色彩に染め上げられている。結衣さんが幌を下げる気分がよくわかった。悪くない。祝福の日には縁のない僕も、気分が高揚する。
 ヒーターが効いてくると快適な足湯のようで、泥沼の睡魔がもたげてくる。「今日はMorrisでいい?」という声が風に中に散っていく。返事をしたつもりはなかった。

 僕が頼んだのはエスプレッソだが、彼女が選んだのはソルティドッグだった。
 しかもMorrisからは彼女のベッドまで歩いていける。ああ、今日はそういう日なんだなと思った。僕の原付は局でお留守番だな。
「ちゃんと書いてるの、新人賞の原稿。何だかなぁ、仕事選んでないように見えるんだよね。リクエスト原稿も次のコメントもキミの仕込みじゃない。それ読んでる私って、何だかなぁ、ひとり芝居の自虐みたいじゃない。ちょっと心配になるのよ」
「僕にも生活があるんで、仕事は受けなくちゃ」
「やりたいのは、ちゃんと作者名のある原稿でしょ。ゴーストばっかりやってたらなあ。選んで受けないと、腕が濁ってくるよ。そうそう、Jazzを演ったピアニストはClassicにはもう指が戻れないんだって」
「うん、だからドラマ原稿だけは頑張ってる。でも色々書いてきたおかげで、視野が広がった気がするんだよね」
「約束してくれる?」
 彼女の瞳が覗き込んでくる。髪からの芳香が僕の頑なな心を貫いた。
 ダッフルコートを脱ぐと、橙色のネックセーターで身体のラインが透けて見えた。睡眠不足は血流を昂進させて股間を敏感にする。背中に、あの感触が後味として蘇った。
「諦めてはダメ。飛び続けたら、もっと高みに上れるから」
「諦めてるように見えます?往生際は悪いほうですが」
「私もさぁ、今では諦めて今の現場に沈滞しているのよ。上にはもう飛ばない、いいえ飛べないってね。まだキミは夢見てもいい歳だと思うよ」
「歳なんて、大して変わらないでしょ」
「業界としては賞味期限ギリよ。女としては消費期限がまだあるから、せいぜい使うわ」
「お代わりはもういいんで。もう部屋に行きませんか?シャワーを浴びたいので、それから・・・」
 声音に脂ぎった牡の空気が混じらないように、慎重に言葉を選んだ。お察しなんだろうとは思ったけど。彼女とは初めてだった。
 僕の次の言葉を遮るように、彼女の携帯が鳴った。
 当時は会社で携帯持ちは少なく、世間がどれほど結衣さんを認めているか判ってた。まだアナログ通信の時代だったので、通話にノイズが入るので、彼女は店外に出て通話していた。
 再びドアを開けて、つかつかと歩いてきた。
 そして自然に、極めて自然に彼女はキスしてきた。
 首に回してきた腕は、柔らかくそして抗えない靭さがあった。
 しかもそれは、しっかりと舌を絡めてくる手合いのキス。
「言いにくいんだけど。今日はここまでね」
 僕は呆気に取られた。
「消費期限の方を、使う夜になったわ。私のベッドにはシード権があるのよ。気分だったんだけどなぁ、キミ。これで勘弁してね」
 そうして背を向けて、ドアの向こうに消えていった。
 キスの間に、タクシー代らしい折り畳まれた千円札が手の中に押し込まれていた。
 ふうん、どっかのPか、Dか、VIPか。ともかく彼女の現在の立ち位置を守るためには必要なことなんだろうな。
 会計も済ませてあったし、そそくさと僕はMorrisから冷気の中に逃げ出した。なんて日だ。持ち上げられて、勝手に盛り上がっていたのは僕だった。
 タクシー代だなんて馬鹿にして、と心頭を冷却しながら局に向かった。そこまでいけば原付がある。苛立ちが収まらず、歩道の舗石を蹴りつける勢いで歩いた。
 しかし感情が昂ると不思議に、様々な表現が湧いてくる。それを記憶に刻みながらどのホンの、どの台詞にアテようかと思案していた。するりと書きかけの、それこそ新人賞用に温めていたものの、フロッピーにしまって冷え切った作品を思い出した。
 そうだ。あれに使おう。今の気分ならもう少し書き出せるかも知れない。シャワーだけ浴びて、完徹二晩目の奇跡を起こせるかもしれない。
 僕たちは、五感で得た不定形な感情というものを、語感に変換して生きる生命体なんだ、と。
 ちょっとでも、何かお腹に入れておきたい。
 当時は深夜でも自販機でビールを売っていた。先刻の千円札を広げて、紙幣挿入口に入れようとして、指が止まった。そして苦笑して、大事にポケットに入れた。
 そこには鮮やかなキスマークが残っていた。
 結衣さんがドアの向こうで付けたものだろう。
 御守りだよね。
 翼は折れてしまったけれど、天使はやはり天使だ。

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