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長崎異聞 16

 女心を、醍醐は解せぬままだ。
 だがしかし、彼は男になった。
 そう李桃杏は、耳元で云った。
 導いた桃杏は自慢げな笑みだ。
「ちょっとね。女には嬉しいのよ」
 本質は何も変わらぬではないか、と彼は思う。
 淫夢で下衣を濡らすか、手淫で掌に出していたものが、本来の場所に放ったということに過ぎない。
「お侍さんも可愛い顔してた」
 自分の本質は微塵も変わっていない。
 そういうと桃杏は、彼の額を指先でつんと弾いた。
 まだ互いに全裸で湯桶につかっていた時だ。彼は足を投げ出して座っていたが、中腰になった彼女がもう一度、それを励ましている。彼は耐えようともしたが、快楽には勝てぬ。
 むしろ士分として惰弱になったのではないか。
 同田貫を奪われないように、湯桶の左に置いている。舌が別の生き物のように自在に動き、ゆっくりと頭が動いている。
 そうして彼女は誇らしげに跨ってきた。
 水位がいきなり減ってきた。湯桶の栓を抜いたらしい。
「ぬめりがなくなるのよ、湯船じゃね。きしきしって痛いの」
 先ほどは湯桶の傍の寝具で行った。
 左手を伸ばして同田貫を掴み、醍醐は天蓋を仰いだ。

 上楼に座っていた。
 いささか奇妙なことになっている。
 一席が誂えられており、そこに高級な茶と菓子が置かれている。
 李桃杏は最初は同席していなかったが、今度は藍色のぴったりとした旗袍チャイナドレスに着替えて現れた。金糸刺繍がまた一段と見事であり、遥かに錦上の品格に見えた。この扱いは別の意思が働いている。
 酒は出てこない。
 出ても、呑まぬ。
 刃で語ることもあるだろう。
 醍醐が座しているのは背もたれのない床几である。刀をいていても、腰深に居座れる。
「お侍さん、嫌な眼はおよしよ。まるで敵と同舟しているふうだえ」
「拙者には、ここは伏魔殿なのよ。またこの眼は父御由来じゃ、許せ」
 隣の望楼から男が歩いてくる。
 小兵である。
 だが士分だ。
 腰に大小を備えているが、どれも小ぶりだ。
 その小さな肉体に、頭だけが巨漢のそれと同じだ。全身の肉体はその巨大な頭脳を支えるためにあるようだった。
 その異様な肉体の男が、天幕を開けて入ってきた。
「村田、蔵六と申す」
 還暦を超えた声だ。但し貫禄も重厚さもない。
 彼は検分するように、醍醐の顔から足元までを眺めた。
「長崎奉行所付け、橘醍醐と申す」と名乗りを上げて彼は気が付いた。
「其処もと、蔵六と、な」
 額が広い。そして力こぶのように伸びあがって膨れている。額に刻まれた横皺の本数は常人の三倍はありそうだ。
 先ほどの数舜もあれば、その頭脳で己が全てを計量されたような気がした。男は構わずに正面の、床几に陣取って背筋を伸ばした。
「儂はこの蔵六という名乗りが好きでな。平服のときはそれを通すのです。それよりも君と同じく太政官名がよろしいか?」
 穏やかな口調だが、その背丈が見た目以上に伸びている。
 目の前で対峙しているのは、もと長州人で、かつ最も長州人の憎悪と唾棄だきを集めている男だ。醍醐はその正体を確信し、畏まっている。
「太政官、兵部省大臣、大村益次郎」
 桂小五郎が狙うべき男だった。
 
 


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