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COLD BREW 13

 水滴が落ちるのをじっと見ている。
 漆黒の芳醇な香りの源を見ている。
 雨の火曜日の午後に入った頃で、客の入りはない。
 僕は水出し珈琲の仕込みをしていた。週末のランチ営業用にドミグラスソースは作ってある。それでハンバーグを出すつもりだ。
 今日のランチには蕎麦粉でガレットを出して、その余りで賄いにして食べたばかりだ。それでこの午後にぽっかりと時間が空いてしまった。
 往来する人影の服の色が春めいてきていて、それが窓に映る。
 ステンドガラスを配しているので、色はさらに極彩色に見えるが、このカウンター内で見慣れてしまっているので、それの本来の色に補正してぼんやりと見ている。
 こうして水滴を眺めていると、あの光景をふと思い出した。

 点滴の滴り落ちる水滴を見ていた。
 いつまでも水面が減る気配がない。
 寒々としていた病室で、向こうで咳をしている病人がいた。
 覚醒してその病室の染みのある天井を眺めていると、左手に痛みまで目を覚ましてしまった。火傷をしたときのような、粘着質な痛みがある。
 薬指は欠損して、ない。
 手の甲の皮膚は剥がれてしまい、骨が露出していたそうだ。
 グラブの皮と入り混じり、ピンセットで除去したと聞いた。
 腹部から剥がした皮膚で移植をしたが、跡は残るそうだ。指の筋肉は残っているので、また使えるようにするためには、移植表皮を薄くしたらしい。長いリハビリがかかりそうで、その痛みも加算してうんざりした。
 入院生活はあと1週間はかかるだろう。
 その費用の負担はない。そればかりかベットの横にある移動家具の引き出しに、封を切っていない包みがあった。そのパックには銀行のロゴがあり、隅に300万円と手書きされていた。
 それは所謂、手切金というものらしい。 
 父親の、代理人という男が持ってきた。
 引き換えに祐華の件を忘れろというが。
 忘却するのにプライスタグがつくのか。
 かえってくらい感情が頭をもたげてくる。
 確かに転倒したのは、僕の技量の未熟さだと思う。
 しかしその瞬間には僕はクラッチから手を離して、タンデムしている祐華を守った。左手を後ろに回して、その身体がアスファルトに擦り潰されないように守った。無我夢中の一瞬だった。肩関節が脱臼しなかったのが奇跡的だ。
 その祐華の安否も知らせることはできないという。
 僕たちのアパートに残る、彼女の所持品は処分してくれという。
 想い出もその所持品の処分を含めた対価が、厚みのある包みだ。
 横浜の馬車道で、その厚みのステーキを奢ってくれた方が、いささかマシな位だと思った。
 そしてあのバイクは廃車だろうな、と思った。
 彼女が贈ってくれた、狼を名乗るモデルだ。アスファルトに軌跡を描いて、大気を切り裂いて疾走するモデルがどこかの車両置き場で、雨晒しになっているだろう。それが痛ましい。僕のように手傷を介抱されては貰えず、ただ傷を舐めながらうずくまって耐えているのではないのだろうか。
 ノックの音がした。
 看護師さんが顔を出して、僕の名前を呼んだ。
「起きていますよ」
「あ。よかった。面会の方が来ています。今から大丈夫ですか」と朗らかに言った。足早に僕のベッドに来て、点滴の液量を見て、何かの操作をした。
 それから声を潜めて、こういった。
「女性の方です。内緒にしてくださいとのことです」
 僕はただ頷いて、了承を伝えた。

 扉の呼び鈴が鳴った。
 僕は回想をやめて立ち上がり、「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「いらっしゃいました」と史華が笑顔を綻ばせた。
「そろそろホワイトデーだよね〜」
「白紙撤回させて頂く」
「あ、それは卑怯な言い方!」
「まあいいか。今日は学校じゃないのか」
「期末試験中だよ。今日は勉強にきた。奥の席を借りるね。あ、お客様でもあるのよ。水出しをラテにして。ケーキをつけてもいいよ」
「それでお返しとしてもいいのか」
「まだマダァ。それは今のお気持ちで」
 奥の席に彼女は移る。ふわりと彼女の髪が匂った。それが尾を引くように奥まで流れている。それをこの店の香りのひとつに、いつの間にか僕は受け取っていることに驚いた。
「ねえ。マスター」と声を掛けられた。
 彼女は集中するためかソファ席には座らずに、木製の飾り椅子に座り、壁に向かっていた。
 水出し珈琲とオマケのシフォンケーキが、テーブルに載っているはずだ。
「お代わり?」
「違うわ。こないだの忘れもの、どうなった。ちゃんと届けることができた?」
 祐華の置いていった時計のことを訊いていた。
「ああ。何とか間に合ったよ」
「本当に?」
「嘘を言ってもしょうがない。馴染みのお客さまの忘れ物だし。ちょっとその人には大事なものだったから。慌てただけだよ」
「そうかぁ」と背中で答えてはいた。
 最後まで振り返ることはなかった。
 頑固な背中が、雄弁に語っていた。
 見抜かれている。
 時計は未だに僕のポーチの、サイドポケットの中にある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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