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広告業10年、そろそろ自分語りをしてみる。その1(新卒〜制作会社編)

新卒から広告関係の仕事を続けてきて早10年、割とユニークなキャリアになっているなと思い記事化してみた。主に就職活動でマーケティング関連職を目指す人、転職活動に迷っている人、人生の迷子になっている人に是非読んでもらいたい。

新卒カード!

高校の頃から漠然とデザインやコピーライティングに興味があった僕は新卒で広告制作を主とするデザイン会社に入社した。代理店を介さない老舗独立系制作会社というところに魅力を感じ、そこに大事な大事な新卒カードを切った。切ってしまった。総勢20人弱のこじんまりした会社で、絵心も創造力も乏しい僕はプロデューサーという肩書の営業職に配属された。当時の新卒採用は僕を含めて4名。僕以外は美大のグラフィックデザイン課卒の、まさにデザイン界の住民という雰囲気のメンバーだった。ちなみになんとなくファーストインプレッションで緊張感をもよおした僕は、彼女たち(皆女性だった)に対して敬語でコンタクト、以来退社まで敬語が継続した。今思えば性の意識が過剰な童貞のような仕草だが、それくらい横浜の端っこの大学を出たばかりの僕には、デザインとかクリエーティブなんてものが東京を象徴する言葉のようにキラキラしていた。

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お金がない!

時は2010年代初頭のアフターリーマンショック、広告関連経費を真っ先に企業が切り詰める中で、主にプリントメディア(新聞、雑誌、カタログなど)のグラフィック制作をやっているわが社はまさに風前の灯、入社時に思い描いていたデザイン業界の華やかさなぞあるわけもなく。それでも日銭を稼ぐためにあまり質の良くない仕事を大量に捌かなければならず、深夜残業を工数に入れ込んだ制作進行が常態化。一方で業界構造的におちんぎんは低く、大卒初任給としては少々どころかかなり心もとない金額だった。
お金がない!上京パンク少年のようなマインドだった当時の僕はどうしても高円寺という街にすみたかったものの、家賃が厳しくて半地下の家に住んでいた。ちなみにその半地下の家は、とある夏の大雨で床上浸水した。酔っぱらって家に帰ったら部屋が水浸しで、というか水没していた。泥水に沈んだMacBookを見て、膝から崩れ落ちそうになったのを覚えている。東京23区で、玄関の周りに土嚢を積んで災害対策をしたことがある人はそう居ないだろう。今思えば韓国映画のパラサイトを見るのをなんとなく避けているのは当時の記憶がフラッシュバックするからだろうか。

追加更新(2020年12月末)
ちなみにこれを書いた半年後にパラサイトをみた。劇中でもやっぱり半地下は水没してて、並々ならぬシンパシーを感じた。パラサイトは傑作。奥さんかわいい。

ただし、いろんな経験はできた。某水周り系のクライントは製品カタログを作るために関東某県の聞いたこともないような田舎町の自社工場で、ユニットバスや洗面台を組み立てて1週間泊まり込みで撮影をしたことがあったし、関東某県の私立大学の学生用パンフの撮影で大学オリジナルキャラクターの着ぐるみに入ることもあった。プロデューサーという曖昧な肩書の僕には請求書の作成義務があり、文字通りコストを削減するために一肌脱いだ。まだ定着していないキャラクターの着ぐるみが校内を歩いている。そんな光景に苦笑している学生たちの表情を覚えている。

そんなこんなで新卒から2年ちょい、時には昭和マインドを引きずった上司に銀座の二流クラブ(失礼)に連れ回されたり、新宿2丁目好きの社長には少し玄人向けの大人の社会勉強をさせてもらったり、朝からは絶対に来ないデザイナーにデザイン修正の鬼電をかけたり、会社の会議室の長机で背中を痛めながら朝を迎えたりと、なかなかにエキサイティングな経験をさせてもらった。思えば当時、月一で風邪をひいていたし、便は緩かった。ストレスですた丼にはまり体重もみるみる増えた。そういえば当時のすた丼高円寺駅前店の店員はみんなパンクロッカーのような風貌だった。金髪のモヒカンが中華鍋を振っているのはなかなかパンクな光景だった。

分岐点

それから仕事を変えようとなったのは、そんな過酷な状況に耐えられなくなったというのもあるが、当時よく遊んでいた友達たちが社会人3年目を迎えて給料も上がり、飲みで選ぶ候補のお店も変わってきたり、仕事で大きなプロジェクトを任されたなんて話が出てくるようになったりして、なんとなく取り残されている気分になったことがきっかけだったと思う。合コンで行く店が金銭的にキツかったのもあるが、このままデザインを売りまくるマンになっても自分に何が残るのか、出世して数名のプロデューサーのお山の大将になっても、やれることと言えば無理して銀座の二流クラブ(失礼)に行くようなことだけだ。そんな漠然とした不安をいつも抱えていた。そんな中、世の中はiPhoneの4Sが発売が話題になっていた。かの有名なビッグウェーブさんもそのタイミングで人気を博していたと記憶している。なんとなく世の中が変わる、そんな気分に満ちていた。その折に、制作にたずさわった電車内広告の掲出視察に行った東京メトロ東西線の車両内、ドア横のありきたりな広告枠に掲げられている、僕がお腹と背中をぶっ壊しながら、同期のデザイナーが音信不通になるまでレイアウトを練り直しながら、作り上げた一枚絵の広告を見る人は誰もいなくて、みんな手元のスマホを見ていた。
その後間も無く、転職エージェントに登録し、インターネット広告代理店へ転職した。26歳になる直前だった。

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先日、ふと調べたらそのデザイン会社は既に倒産していた。あまり好きにはなれなかった会社だけど、少し悲しい。

広告業10年、そろそろ自分語りをしてみる。その2(転職活動編)

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