世界はゆがんでいる
※長いよ
6月17日のにちようび。朝5:30におきたわたしは、3時間後には名古屋駅にいた。このイベントに参加するためだ。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)というのは、脳の電気信号を筋肉につたえる運動ニューロンがうまくはたらかなくなる難病だ。意識はハッキリしたまま、どんどん体がうごかなくなってしまう。いまのところ、原因や治療法はみつかっておらず、日本には1万人弱の患者さんがいるとされる。
で、このイベントでは、ALSの理解をふかめるために、愛・地球博の会場跡地でさまざまなもよおしが実施された。メインのもよおしは、5分間みんなで地面にねころがり、いっさい体をうごかせない状況を体験する「みんなでゴロン」。ちなみにグッズの売上などはせりか基金におくられる。
〆は、27歳のときにALSを宣告され、現在はコミュニケーションクリエイター・ラジオパーソナリティをしている武藤 将胤さんのEYE VDJ(目のうごきだけでミキサーや映像を操作する)パフォーマンスがあった。武藤さんはつい最近、単著『KEEP MOVING 限界を作らない生き方』を上梓したのでそちらも読んでみてほしい。
「指談」というコミュニケーション
このイベントでわたしが印象深く感じたことは2つある。
ひとつは「指談」というテクニック。これはALSにかぎらず、自分ひとりで言葉を発することができない人に対し、介助者が指のわずかなうごきから相手が発したい言葉を察知して、かわりに伝えるコミュニケーションの技法だ。
最初こそ「ほんまかいな」とおもっていたが、壇上で指談をしている様子をみていると、たしかに本人の言葉を代弁しているようにおもわれてきた。
ただし、ネットで指談を調べると、このテクニックについて否定的な意見を持つ人もいる。たしかに、この方法は科学的に立証されていないので、ほんとうに本人の意思を正確に伝えられているのかを確認する方法がない。
この文章はどう読まれているのか
私がここで考えたのは、「そもそも自分の意思を相手に正確に伝える方法とはなにか?」ということだった。たとえば、私はいま「文章」というツールを使って自分の思考をnoteに書いて表現しているが、いまあなたが読んでいるこの文章が、わたしの思考をほんとうに正確に伝えているのかをわたしは確認できない。
また、もしこの文章自体がわたしの思考をメチャクチャ正確に表現できていたとしても、すべての読み手がわたしの意図するとおりによんでくれているのかということは確認のしようがない。
これは文章に限らず、言葉でもあまり変わらない。たしかに目の前の相手に口頭で話をすれば相手の反応がわかる。たとえば相手が「うんうん」とうなずいていれば、自分の話を理解している“ように感じられる”。
けれど、本当にその人が、私のいいたいことを正確に理解しているのかどうかは、けっきょくのところ確認できない。翌日になって「○○さんがこう言ってたよ」というのを耳にして、ぜんぜん自分の意図しない内容に話が変質してしまっているのも経験したことがある人は多いとおもう。
コミュニケーションはそもそも歪んでいる
指談の実用性を疑問視するひとの気持ちもわかる。べつに悪意があるわけじゃなくて、「本人の意思が、他者の手で歪んで発信されるのはよくないことだ」という正義感をもっているのだろう。
しかし、正確性を追求しすぎると、そもそも使えるツールが少なくなってしまうんじゃないか、ともおもう。老若男女ができるだけ読み違えない文章を書こうとすると、使える言葉がおのずと限られてくる。
それまでまったく意思疎通できなかった人たち同士が、いろいろ間違いも多いかもしれないけど、コミュニケーションできる方法があるのなら、その手法のひとつに指談があってもわるくはない。
コミュニケーションの本質は、そもそも「歪められる」というところにあるんじゃないか。すべてを自分が意図したとおりに伝えようとすること自体にちょっと無理がある。個人的には、コミュニケーションが苦手な人には、その意味でどこか完ぺき主義な側面があるんじゃないかなともおもう。
機械で自分の腕が勝手に動く
もうひとつおもしろかったのは、IVES(アイビス)という低周波治療器を体験できたことだ。
http://www.f.waseda.jp/y.muraoka/IVES.pdf
人間は脳からおくられた電気信号で筋肉を収縮させたりして体をうごかしている。この装置は、その電気信号を増幅させたりして、筋肉をうまくうごかせない人をサポートできるわけだ。
本邦初公開わたしのうで
両腕につけるとさらにおもしろい。機械を設定してもらうと、右腕を動かしただけで、左手も同じように動いてしまうのだ。
このフシギさは実際に体験してみないとわからないと思う。とにかく、自分の腕が、まったく自分の意思どおりにコントロールできなくなる。これをつけたままだと、確実に自分ひとりで食事ができなくなってしまう。
自分の体は本当に思うように動かせているのか問題
これはさきほど書いた、コミュニケーションの不正確性にも通じるものだとおもう。
ふだん、わたしたちは自分の体を自分の意のままに動かせていると錯覚しているけど、たぶん脳内のイメージと実際の体の動きには齟齬(ゆがみ)がある。ただ、わたしたちは24時間、おなじからだであり続けているから、その齟齬に慣れてしまっているだけなんじゃないだろうか。
機械のちょっとした電気信号が加えられることにより、いともたやすくその歪みは増幅され、たちまちわたしは自分のからだをおもうように動かせなくなってしまう。
歪み=屈折
この歪みは「屈折」とも表現できるかもしれない。空気中をすすんでいた光が水中に入るとまがってしまうように、自分の意識が電気信号から筋肉のうごきに変換されるとき、そこに屈折がはいる。指の筋肉からさらにお箸とかボールペンの先端の動きに変換されると、その屈折率はさらにたかくなる。
この工程がたくさん入れば入るほど、屈折率は高くなる。その意味で考えると、言葉なり文章なりを介して相手になにかを伝えるというのが、もともとの意識からかなり屈折してしまうのは避けられないのだろう。
これを仕事の話に置き換えると、わたしが着想した企画から1冊の本ができあがるまでにはさまざまな屈折がはいる。さらにそれを読んだ読者は、それを屈折させてうけとる。屈折しまくりだ。
屈折しているのを考えて生きる
そこで大事なのは、「屈折するんだからしゃーない」と投げやりになるんじゃなくて、屈折してしまうことを理解したうえで、「じゃあどうするか」を考えることだ(たぶん)。そのときに、「できるだけ屈折をなくす」というのも方法論のひとつだけど、「どう屈折させるか」をかんがえて、屈折を予想するのが大事なんだろうなと思った。
だんだん自分でもなにを言っているのかよくわからなくなってきたからこのあたりで終わるけれど、とにかく世界は屈折している。名古屋への小旅行は非常にみのりあるものだったし、やっぱり味噌カツはおいしかった。
(余談)
そういえば、イベントでは大事MANブラザーズの立川俊之さんが名曲『それが大事』を歌った。しみじみ聴いて、歌詞のこの部分がいいなあとしみじみ思った。
ここにあなたがいないのが淋しいのじゃなくて
ここにあなたがいないと思うことが淋しい
(了)
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