【『逃げ上手の若君』全力応援!】(157)「石津の戦い」で炸裂する「石」と高師直の非情っぷり!? ……そして、雫VS魅摩で明らかになる雫の執事適性度の高さ??
『逃げ上手の若君』第157話は、随所に伏線回収と想定外展開が合わせ技で読者を襲い、置き去りにされそうなスピード感でした(汗)。第156話の最後に「石津の戦い」という名称が示されましたが、「国史大辞典」の説明が北畠顕家と時行との「冒険」の足跡を振り返ることもできる内容でしたので、復習もかねて引用したいと思います。
堺浦の合戦(さかいのうらのかっせん)
暦応元年(延元三、一三三八)五月二十二日、足利方の高師直軍と、後醍醐方の北畠顕家軍とのあいだで、堺南方の海岸から石津に至る広い地域で行われた合戦。堺浜合戦・石津合戦などとも呼ばれる。建武三年(延元元、一三三六)十二月、吉野にのがれた後醍醐天皇は、陸奥多賀国府に拠って勢力の扶植に努めていた北畠顕家に、奥州の軍兵を率い長駆して京都を奪回せよと命令した。しかし、このころ、顕家軍は、足利軍と交戦中であり、足利方の包囲を破って、ただちに、天皇の命令に応ずることは不可能であった。顕家が、六千の兵を率いて霊山城を出発できたのは、ようやく、翌年秋のことであった。顕家は、奥州産の駿馬による騎馬隊を組織していたので、その進撃は破竹の勢いであり、下野小山で足利方を破り、十二月には、鎌倉を攻撃して、斯波家長を自刃させた。暦応元年の正月、箱根を越えた顕家軍は、東海道を京都にむかい、正月二十八日には、美濃青野原で、高師冬の幕府軍を破り敗走させた。しかるに、顕家は、京都にむかわず、軍兵を伊勢に転進させ、二月二十一日には、奈良に入り、般若坂で桃井直常の幕府軍と戦かったが大敗した。長途の疲れが原因であったといわれる。顕家は、いったん河内に逃れて陣容をたてなおし、三月には、天王寺から摂津渡辺へと進出して、幕府首脳を驚愕させ、五月に入るや、堺浦を攻撃して民家などを焼き払った。これに対して、幕府は、細川顕氏と高師直の大軍を派遣し、同月二十二日、両軍の間で激戦が展開したのである。
「この時代の他の戦と同じように 顕家と師直の決戦の詳細はわかっていない」
私は学校の教員でしたが、二十年以上前に教員になったばかりの時には、行事等の記録係というのがありました(現在、現場の多忙さは社会問題になるくらいなのですでになくなったと思います)が、教員も生徒も総力戦の行事や取り組みほど、悠長に記録などしていられません。ましてや南北朝時代の合戦は、戦いを記録して利用すること自体がまた戦争である近現代とは違いますし、当事者も多く死亡してしまったような激戦ほど詳細が不明と言うのは、当然のことと考えられます。
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「馬鹿め 矢は確かに足りないが 北の獣には持って生まれた兵器があるのだ!」
「詳細はわかっていない」という説明でいったん落としておきながら、顕家と奥州武士同様、そんなことで作品のリアリティと面白さを放棄する松井先生ではありませんでした。
前々回、第155話の「石合戦」は、見事にこの戦いの〝予告編〟だったのです。……いやあ、恐れ入りました。
実際に、「石」を武器にした『太平記』の人物についても、このシリーズでかつて取り上げています。
そして、南部師行のキャラクターの伏線(?)大回収だと思いました。南部さんが、船の櫂(かい)をバッドのように使用し、ハリソン・フォードっぽい大リーガーの雰囲気ダダ漏れだったのは、この〝投石〟フォームとワンセットだったのですね(第155話、いや、もっと前に気づけよ……ですね(汗))。
謎だったのは、投石によりヤバイことになった師直方武士の場面で、わざわざ「畠山高国」という人名紹介が入っていたことでした。〝まさか、彼はこの戦いでこの恐るべき兵器により命を落とした一人なのか!?〟と思い調べてみましたが、石津の戦いで亡くなってはいませんでした。
以下は、本当に私の個人的な考えです。師直は「畠山に命だ 合図するまで撃ち返さず耐えて待て」と言っています。突撃後に顕家軍からこのような反撃があることを少しは想定して、足利一門の畠山とその兵を前線においた彼の性格の悪さというか、非情っぷりを描いたのかななどと想像してしまいました。
それにしても、『逃げ上手の若君』の高師直は、話が進むにつれて妙な〝男の色気〟が増している気がします(〝いいのか、少年誌で!?〟ってうろたえる自分がいるのですが、そんな印象を抱くのは、オバチャン読者でも私くらいですか……)。
それに比して、魅摩ちゃんの〝私怨〟が純情すぎて泣けます。雫はその点とても強かです。魅摩が「動揺」に弱いのは、京都の双六勝負ですでに見抜いていますからね。「動揺」しがちというのは、イキがっている純情娘にありそうなことで、魅摩は雫よりも人間味あります……って、雫は人間ではありませんでした。そして、執事適性という点で雫には、どことなく高師直感があります(雫ファンの方ごめんなさい! 雫は魅摩と同じくらい私も好きですのでどうかお許しを!! ……いや、そうではなくて、師直の有能っぷりがサイボーグの域!?)。
ちなみに、私の実力では、異常気象に関する「当時の人の手紙」が探し出せなかったのですが、南北朝時代を楽しむ会会長とともに〝次はここだろう〟と立てた予想を裏切っての魅摩登場に、松井先生の情報収集力とその解釈に驚くばかりです。
最後に、キャラクターといえば、最後のページで高師冬らしき影が描かれています。「天狗」の上のコマのこめかみ十字傷は誰だろう? そして、結城宗広さんが血まみれで〝開戦早々ヤバめ!?〟と心配したのもつかの間〝拷問しているだけか……〟と気づき、別の意味でヤバめそうでした。
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第157話は、冒頭に顕家の深い思い、作品の持つ大きなテーマのひとつが五平との会話に秘されていると思いました。
「国民すべてが賢くなった時 公家も武家もいらない世になるのだろうな」
まさに、私たちの時代は顕家が思い描いた理想の世に近いのかもしれません。戦乱の世は、殺生をすることとされることが当たり前で、自然災害による死傷や飢えの苦しみもまた、現代の比ではないと言えます。
最先端のテクノロジー機器の登場により、人類の生活と知的レベルは大きく変化を遂げ、多くの人が必要とする知識や教養も南北朝時代のそれとはまったく異なります。古典文学を学ぶ授業が年々縮小され、「新古今」を学ぶも学ばないも自由な世になったと言えます。
私はたまたま、古典文学等を読解する力に恵まれました。現代社会においてはあまり役に立たない能力かもしれません。しかしながら、苦労と工夫を重ね、言葉によって意思伝達と記録を行った人たちのその叡知は、書物となって残っています。図書館に収められた本は、読む人がなければただの〝モノ〟に過ぎません。しかし、読める人がいる限りは、すでに亡くなった古(いにしえ)の人たちを考えや思いを呼び覚まし、引き継ぐことができるのです。ーーそうであれば、私の能力も否定すべきものでないと、最近は前向きにとらえています(これまで多くの子どもたちに、受験や実生活には役に立たないと文句を言われながらも、古典を教えてきたことについてもです)。
天皇をいただき、誰もがその個性を生かして平和に生きる世を望んだ北畠顕家の思いが、現代によみがえり、我々がそれに心打たれるのは、意味のないことであるとは、私にはとても思えないのです。
〔日本古典文学全集『古事記』(小学館)を参照しています。〕
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【おまけ】
五平が「憶えた」という「俊成女と式子様」について、簡単に紹介しておきます。
藤原俊成女(ふぢはらのしゅんぜいのむすめ)
鎌倉初期の女流歌人。祖父である俊成の養女。歌人源通具(みなもとのみちとも)の妻となったが、のち出家。『新古今和歌集』に二十九首入っており、新古今調を代表する妖麗(ようれい)な歌風で知られる。家集に『俊成卿女集』がある。〔小学館 全文全訳古語辞典〕
*新古今和歌集〔1205〕夏・一七九「をりふしも移ればかへつ世の中の人の心の花染のそで〈俊成女〉」
式子内親王(しきしないしんわう )
平安末期・鎌倉初期の女流歌人。後白河天皇の第三皇女で、賀茂斎院(かものさいいん)となるが病気のため退き、やがて出家する。『新古今和歌集』に女流最多の四十九首を選せられたように、当時の女流歌人の第一人者である。繊細で清澄な歌はその右に出るものがなく、情熱を内に秘めた秀歌も多い。家集『式子内親王集』がある。「しょくしないしんわう」とも。〔小学館 全文全訳古語辞典〕
*新古今和歌集〔1205〕恋一・一〇三四「玉のをよ絶なばたえねながらへば忍ぶる事のよわりもぞする〈式子内親王〉」
※『うた恋い。』という漫画で、ハチャメチャな藤原定家が恋焦がれた高貴な女性として登場しますので、興味のある方はぜひ手に取ってみてください。
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