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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(15)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

 〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

__________________________________  本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第十一段(19行目まで) 】
後白河法皇頭風の御悩御大事にわた
らせ給あひたこれを療し奉るに秘密もしる
しなく醫家も術を失きかかる程に御祈精
のために熊野に御参詣ましましけるに證誠
殿の御夢想に我事もることなれとも洛陽
に天竺より最上の醫師わたり給かのゐしに
療治させ給候はは別の事ましまさしと仰せらるるると
御覧して御下向の後公卿合議ありて所々
の薬師の由来を御尋有けるに小納言入道信西
か子息澄憲法印申けるは高辻烏丸因幡堂
の本尊こそ西天より東土の衆生を利益せむ
ために来化し給へる佛と勘申の間永暦二年
二月廿二日始て御幸成て當寺に七ケ日御
参寵有けるに御夢想に御厨子の内より香
染の衣、香の袈裟懸けたる老僧いとたうとけなるか
出て宣けるは汝先生は熊野に蓮花房と云し
者なり其首岩田河にしつむによるか故に此病
ありかれを取上へし先香水を御手つから御
いたたきにぬらせ給と御らむしてうち驚かせ給て

→後白河法皇頭風*の御悩み*御大事にわた
ら*せ給あひだ、これを療し奉るに秘密*もしる
し*なく醫家も術を失ひき。かかる程に御祈精*
のために熊野に御参詣ましましけるに證誠
殿*の御夢想に「我事も※1ることなれども洛陽*
に天竺*より最上の醫師わたり給。かの醫師に
療治させ給候はば別の事ましまさし※2」と仰せらるるる※3と
御覧して御下向の後公卿合議ありて所々
の薬師の由来を御尋有けるに少納言入道信西*
が子息澄憲*法印*申けるは「高辻烏丸因幡堂
の本尊こそ西天より東土の衆生を利益せむ
ために来化し給へる佛」と勘申*の間、永暦*二年
二月廿日、初めて御幸成りて當寺に七ケ日御
参寵※4有けるに御夢想に御厨子の内より香
染の衣・香*の袈裟懸けたる老僧いと尊げなるが
出て宣ひけるは「汝先生*は熊野に蓮花房と云ひし
者なり。其の首岩田河*に沈むによるが故に此の病
あり。かれを取り上ぐべし。先ず香水*を御手づから御
いただきにぬらせ給へ」と御覧じてうち驚かせ給ひて

※1 テキストの本文(翻刻)にはないが、絵巻本体の写真には「さ」があるか。
※2 テキストの本文(翻刻)は「ましまさし」となっているが、それでは意味が通じない。絵巻本体の写真を確認し、「さし」は「す」であり「まします」ではないかと推測した。
※3 テキストの本文(翻刻)は「仰せらるるると」であるが、絵巻本体の写真に「る」はひとつしか見当たらない。
※4 テキストの本文(翻刻)は「寵」となっているが、絵巻本体の写真では「籠」か。

〈注釈(語の意味)〉
*頭風…神経性頭痛のこと。〔漢字源〕
*悩み…やまい。病気。わずらい。
*わたる…「あり」「をり」の尊敬語。おありになる。「給ふ」「せ給ふ」を添えて用いることが多い。〔日本国語大辞典〕
*秘密…「真言陀羅尼」のことか。
 ※真言陀羅尼…真言(しんごん)と陀羅尼(だらに)の併称。短いものを真言、長いものを陀羅尼と呼んで、使い分けることがあるが、本質的な差異はない。密教呪法の根幹となるもの。(例 「先づ真言陀羅尼を受持すべし。只何なる謂と知らずとも、不思議の教薬なる故に、重垢の病自ら消滅す」〔真言内証義〕)〔角川古語大辞典〕
*しるし…(「徴」「験」と書く)霊験。ごりやく。ききめ。効能。
*祈精…「祈請」か。
 ※祈請(きせい・きしょう)…神仏に祈り請うこと。願かけ。祈願。
*證誠殿(しょうじょうでん)…熊野本宮の本殿。祭神の家都御子大神は、本地(ほんぢ)が阿弥陀如来(あみだによらい)であることより証誠大菩薩(しようじやうだいぼさつ)と称し、その社殿を証誠殿という。念仏者の往生を証明する神として、中世浄土教の聖地として、熊野詣(くまのまうで)が盛んに行われたが、その三山信仰の中心で、熊野御幸も、この霊前にぬかずき奉幣し、経供養を遂げるのが目的であった。証誠殿に通夜して託宣を受けたことが『玉葉集』などに見え、一遍(いつぺん)上人も、念仏について抱いた疑問を証誠殿の託宣で解決し、時宗を開いた。〔角川古語大辞典〕
*洛陽…京都の異称。
*天竺(てんじく)…日本および中国で、インドの古称。
*信西…藤原道憲(ふじわらのみちのり)。平安時代後期の貴族・学者。官は少納言にとどまったが、博学で著名。剃髪して信西(しんぜい)と称し、後白河天皇の近臣として活躍。「本朝世紀」「法曹類林」「日本紀注」など著書が多い。平治の乱で殺害された。(1106~1159)
*澄憲(ちょうけん)…平安末期~鎌倉前期の僧。藤原道憲(信西)の子。法印・大僧都。晩年、今日と一条の里坊安居院(あぐい)に住し、子の聖覚と共に安居院流唱導による布教に尽力。編著「釈門秘鑰」など。(1126~1203)
*法印…僧侶 (そうりょ) の位階(僧位)の最上位で、僧綱 (そうごう) 位(僧階)の僧正 (そうじょう) にあたり、法印大和尚 (だいわじょう) 位僧正という。その下が法眼 (ほうげん) 和尚位僧都 (そうず) 、法橋上人 (ほっきょうしょうにん) 位律師 (りっし) である。したがって本来は僧侶の取締りにあたる役人的僧侶の敬称で、定まった定員があったが、時代とともにその数を増し、のちに仏師や絵師の敬称にまで用いられるようになった。とくにこの僧位を乱用したのは修験道 (しゅげんどう) であって、先達 (せんだつ) であれば法印権大僧都 (ごんだいそうず) を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕
*来化(らいけ)…姿をかえて現れること。または、姿を現して人々を教化すること。〔例文 仏教語大辞典〕
*勘申(かんじん)…朝廷で諸事の先例や典故、日時や吉凶などを調べて上申すること。
*永暦(えいりゃく・ようりゃく)平安後期、二条天皇朝の年号。平治2年1月10日(1160年2月18日)改元、永暦2年9月4日(1161年9月24日)応保に改元。
*香染(こうぞめ)…丁子(ちょうじ)の煮汁で染めた薄紅に黄を帯びた色。袈裟(けさ)などの染色に用いる。丁子染。
*香…織色(おりいろ)の名。経(たて)は香色、緯(よこ)は白色。老人の着用。 ※「香色」は「香染」に同じ。
*先生(さきしょう)…《仏教語》三世の一つ。現世に生まれ出る前の世。前世(ぜんせ)。過去世。前の世。先の世。
*岩田河(いわたがわ・いわだがわ)…和歌山県南西部を流れる富田(とんだ)川の、上富田町あたりを流れる中流の呼称。中世には熊野権現のみそぎの川だったといわれている。〔日本国語大辞典〕
*香水(こうずい)…《仏教語》仏前に供える水。閼伽(あか)。
 ※特に記載がない場合は『広辞苑』による。

〈現代語訳〉
後白河法皇は頭痛の状態が思わしくなくて
おいでなので、これを治療し申し上げるのに真言陀羅尼もご利益
なく医者も打つ手がなくなった。こうしているうちに御祈願
のために熊野に御参詣においでになったところ熊野本宮の本殿である證誠
殿の御夢想に「私が受けるのはもちろんであるが京
に天竺から最上の医師がおいでになっている。その医師に
療治させなさりますのであれば別の理由がおありになります」とおっしゃると
ご覧になって都へお帰りの後に公卿らの合議があってあちこち
の薬師如来の由来をお尋ねしたところ少納言入道信西
の子息・澄憲法印が申したことには「高辻烏丸因幡堂
の本尊が西の空より東の地の衆生を利益する
ためにお姿を現された仏」と由来を上申したことで、永暦二年
二月二十日、初めて(後白河法皇の)御幸が執り行われて当寺に七日間御
参籠があったところ御夢想で御厨子の中から香
染の衣・香色の袈裟を懸けたとても尊い雰囲気の老僧が
現れ出ておっしゃっるには「お前の前世は熊野で蓮花房と言った
者である。その首が岩田河に沈んでいるためにこの病が
起きている。それを(川から)取り上げるがよい。(それから)まず香水をご自身の手で
(その)頭頂にお塗りなさい」とご覧になってお目覚めなさって
                  〔「因幡堂縁起絵巻」(15)おわり〕

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