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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(137)同じ場所で起きてもマイナー過ぎる「青野原の戦い」、小笠原貞宗の常識人ぶりが際立つ土岐頼遠の独りよがり(……だが、単なる馬鹿武将ではないのが得体が知れない)

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年12月17日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


  「美濃国青野原みののくにあおのがはら 現代の地名は 関ケ原

 『逃げ上手の若君』第137話の冒頭は、歴史ファンでなくとも多くの日本人が知る有名な戦いの地名が示されました。しかしながら、同じ場所で起きた戦いであるのに、「青野原の戦い」のマイナーぶりはその正反対と言っても過言ではないでしょう。

青野ヶ原の戦い(あおのがはらのたたかい)
 暦応元年(延元三、一三三八)、西上を志す北畠顕家の軍と、これを阻止しようとする足利幕府の軍との間で美濃国青野ヶ原で戦われた決戦。青野ヶ原は伊吹山の東麓、不破郡垂井の東北方(岐阜県大垣市赤坂町)にある。建武三年(一三三六)後醍醐天皇は吉野に走り、南北両朝の分裂が始まったが、南軍の戦略は、奥州の北畠顕家の来援を待って、北陸の新田氏、畿南の南朝勢力が反攻に転じ、京都を包囲、攻略しようとするものであった。顕家は、同四年八月陸奥伊達郡霊山城を出発し、再度の西上の途につき、同年十二月二十四日鎌倉を攻略し、翌年正月二日鎌倉を出発し、東海道に配置された足利一門の軍を撃破し美濃に入った。その兵力は不明であるが五十万騎とも三十万騎とも伝える。これに対して、幕府から急派された高師冬は美濃守護土岐頼遠らと青野ヶ原に第一防衛線を引き、増援部隊の高師泰の軍は、近江と美濃の境の黒地川を背に背水の陣を構えた。顕家の軍が美濃垂井・赤坂辺にきたとき、顕家軍を追尾してきた関東の軍が追いつき、師冬の軍と合流して、まず木曾川の洲俣・足近で、ついで正月二十八日青野ヶ原で顕家軍と激戦を展開した。
〔国史大辞典〕

 「青野原」と「関ケ原」とは厳密な一致というわけではなさそうですが、地理が苦手なので、気になって『日本国語大辞典』で調べてみました。

関ケ原
 岐阜県南西端の地名。伊吹山地と鈴鹿山脈との間にある交通の要地で、古くは不破の関が置かれた。安土桃山時代から中山道の宿駅となり、北国街道・伊勢街道の起点ともなる。現在も鉄道・自動車交通の要地であるが、降雪による被害が多い。関ケ原の戦いの古戦場として名高い。

青野原
 岐阜県大垣市西方の野原。古来しばしば戦場となった。

 説明少なっ! しかも、「古来しばしば戦場となった」とありつつ、以下の『太平記』の一例しか載っていないという……。

*太平記〔14C後〕一九・青野原軍事「武蔵、上野の勢一万余騎を率(そっ)して、青野原(アヲノガハラ)に打出たり」

 「関ケ原」は壬申の乱の合戦場でもあり、乱の後に「不破関」が設けられたというのがその地名の由来のようです。また、地図(Wikipediaからお借りしました)で位置関係も見てみましたところ、「大垣市」が二か所あるのに「」でしたが、行政区分が飛び地になっているそうです。知らなかったのでびっくり……。
 また、『新版 角川日本地名大辞典』の「関ケ原」には、「関原とも書く。北を伊吹山系,南を鈴鹿(すずか)山系にはさまれた狭隘な地。藤古川・相川の上流に位置する。」とあるので、もし川の流れが変わっているのであれば、だいたいこのあたりということで認識すればいいのかなと思いました。長い年月で自然に地形が変化していれば、それを再現して厳密に場所を特定することは不可能ですね。

 前振りが長くなってしまいましたが、過去のことを過去のままに知るということは、あらゆる意味で無理な話であることがわかります。私たち自身の記憶ですらあいまいなのを思えば(年を取って、かつては抜群だった自身の記憶力に衰えを感じているせいもあるのですが……)、〝歴史の研究って何なの!?〟と懐疑的になることが最近多いです。しかし、〝無意味〟だとか〝無駄〟だとかいうことではないのですね。
 できる限り当時の状況を突き合わせて〝知る〟ことももちろん重要ですが、時空を超えて私たちの心に響く物語の役割をあらためて考えさせられます。これまで『逃げ上手の若君』で描かれてきた北畠顕家の光と影、第137話の土岐頼遠のわやくちゃぶりなど、松井先生が彼らに見出した数々のエッセンスを〝史実と違う〟などと声高に言うことこそ、〝無意味〟で〝無駄〟なのではないかと思わされます。

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 「なんなのだこいつは!? さっきから自分の世界でしかしゃべっておらぬぞ!?

 さすが小笠原貞宗、常識人のまっとうな見解です(登場したての頃の貞宗はとても常識人には思えませんでしたが、足利方の人間の登場が増えるに従って、彼や市河など、諏訪編で登場していたキャラたち(清原国司までもが、です…)が一様に〝まとも〟に思えてきたのに気づきました)。
 頼遠は信濃での貞宗の敗北の否を申し立てているものの、作品でも言及されているとおり、貞宗の近江での功績は大きかったようです。
 「建武三年七月、山門の戦には近江に出撃して湖上を封鎖して南軍の糧道を断ち、野路・篠原・伊吹大平寺に戦い」〔国史大辞典〕という様子は、「ただ官軍、蚣蝑しょうしょの飢ゑを嗜むのみにあらず、三千の聖供しょうぐの運送の道塞がつて、谷々の講演も絶えはてて、社々やしろやしろの祭礼もなかりけり。」までに比叡山方を苦しめ、それならばと野路・篠原に押し寄せた彼らを「巻かれなば叶ふまじとて、逆寄さかよせに押し寄す」ことで勝利したと、古典『太平記』で語られています。
 ※蚣蝑…いなご(蚣蝑)の害による飢えを味わうだけでなく。
 ※三千の聖供…叡山の全ての衆徒(三千)への(信徒からの)お供えの米。
 ※講演…聖教講説の学問。
 ※巻かれなば…敵に取り巻かれたら。
 ※逆寄せに押し寄す…逆に自分の方から攻め寄せること。
(『太平記』の〝盛り〟はお約束ですが、それにしても延暦寺はその本分を忘れて何をしている!?と思いました……。)

 さて、頼遠自身が「公正にこれで決める」としながら「…… 五番が欲しいが見えん」と言って常人には考え及ばない方法で五番を引き当てますが、確かに『太平記』には、「八万余騎を五手いつてに分けて、前後をくじに取りたりければ」とあります。布陣と戦況も詳しく記してありますが、これは『逃げ上手の若君』の展開に沿って、次回以降紹介できればと思います。
 ちなみに、なぜ「くじ引き」なのでしょうか。足利将軍も後に「くじ引き」で決められた人もいますが(六代・義教)、この時代の「くじ引き」は基本的に聖なるものであったので、無敵の強さを誇る顕家が大軍を率いて戦うことに対して、もはや戦略や戦術は捨てて勝負に挑んだということなのかななどと考えました。
 『逃げ上手の若君』では、貞宗の「くじにも福があるものよ」という流れになっていますが、「意味がわからん」頼遠に大将の座を奪われ、くじにならないくじで布陣も決まってしまった貞宗がいじらしく見えます(頼遠とまっとうな話ができるとは思えませんからね……)。
 実は貞宗、佐々木道誉から近江の地を追っ払われたという歴史的な事実があるとのことです(佐々木氏の代々の拠点は近江です)。
 林屋辰三郎氏の『佐々木道誉』によれば、「建武三年(延元元=一三三六)の比叡山攻撃を前にした近江国の警備を信濃国の小笠原貞宗と抱き合わせで命ぜられたことは、気性の上からもカチンときたらしい」道誉は、「天皇と義貞を信用させ」て近江国の「守護職ならびに便宜の闕所けっしょ数十ヵ所を与えられ」、「宮方を偽って江州に入ると、この守護職を将軍より賜ったと触れたから、これを聞いた小笠原氏は国を捨てて上洛してしまった。道誉はたちまち単独で国を管理した。」とあります。
 ※闕所…(領主の欠けた土地の意)鎌倉・室町時代、領主の罪科などによって幕府に没収され、新領主の定まらない領地。闕所地。

 先ほども私は、貞宗のことを「常識人」と記しましたが、林屋氏が道誉を「権謀術数」の人とらえるのとは対極にある、武人として優れた剛の人の印象を受けます。頼遠や道誉と同じ土俵に立つ人ではなく、立ってはいけないこともよくよく分かっているのが、小笠原貞宗という人物なのでしょう(なんたって「小笠原流」の大成者ですから!)。
 余談ですが、先に『逃げ上手の若君』のファンの人たちとお話しする「逃げ若を撫でる会」で、〝楠木正成の髪型が奇抜〟という意見が出ました。その方は、正成の変形ツーブロックのような髪型が意外に思えたようなのですが、『逃げ上手の若君』では、東国武士に比して西国武士は全体的に「婆娑羅」感のあるビジュアルイメージを持っていると私は考えました。貞宗の目が大きいのは生来の特殊能力に伴うものであって、決して「婆娑羅」ではないのであれば、そのような点でも松井先生のキャラクター設定の緻密さを感じないわけにはいきません。

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 最後に、土岐頼遠について触れておきたいと思います。

 「古の中華の阿豺あさいという武将が言った 大事なのは結束だと」「一本の人間は容易く折れるが」「このように束にすれば つまり我々が結束すれば決して…」「折れん」(ボキッ
 
 この人の部下にはなりたくありません……。

単なれば則ち折れ易く、衆なれば則ち摧(くだ)け難し
 一本であれば折れ易いが、たくさんであれば丈夫である。兄弟力を合わせることがたいせつであるというたとえ。阿豺(あさい)という人が、一本の矢は折れやすいが、一九本の矢は折れにくいことをたとえにして、子弟に力をあわせるよう訓戒したという「北史‐吐谷渾伝」にみえる故事中のことば。〔故事俗信ことわざ大辞典〕

 小笠原貞宗や上杉憲顕を差し置いて自分が大将になるという大前提について土岐頼遠はしっかり筋を通しています。また、漢籍を踏まえて話をしてもいますし、単なるパワー系の馬鹿武将ではないのですね(ご存じの方も多いと思いますが、彼の胴の家紋は本能寺の変のドラマや漫画の場面ではおなじみ明智光秀のもので、頼遠は光秀の先祖にあたる人です)。
 しかしながら、独りよがりが過ぎて解釈の逸脱が激しすぎます。本人に自覚があるのかは不明ですが、彼の行動が即他者に危害を加えているのも嫌な感じです(だから「バグ」っているのでしょうが……)。
 キラキラでストレートな顕家が、この得体のしれない頼遠にはどのような評価を下すのか、逆に、頼遠が顕家にはどのように対峙するのかに強い興味を覚えます。

〔『太平記』(岩波文庫)、林屋辰三郎『佐々木道誉』(平凡社文庫)、歴史魂編集部編『ビジュアル日本の名将100傑』(アスキー・メディアワークス)を参照しています。〕


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