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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(25)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

 〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

__________________________________  本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第十九段 】
正元年中に三条万里小里※1に大弼といふ人
ありけり息女十八歳に成けるかなんちの所労
あるによて百日かく夜に参詣すかかれ共人にも
みせす又醫師にもとはすいかなるやまひにて
有やらむとあやしむ程に日数つもりにけれは
ある夜夢ともうつつともなく御ちやうの内より
たふとき僧出給て汝かなけき申病見むとて
かたぬかせてかいかねの下せなかをあはせて御指
にておさせ給て此所を灸せよとて二ところしる
しをさせ給て香水をぬらせ給と思テ※2夢さめ
ぬ御指の跡をみれはくほみてみゆるところを灸
して其後是又もおこらす後によくよく尋ぬれ
は癇癪といふ病にてそ有けるさるあひた弥信
仰深くして毎月十二種の物をおこたらす奉
られけるとかや

※1 テキストの本文(翻刻)は「小里」となっているが、絵巻本体の写真では「小路」で、この部分「万里小路」となるか。
※2 テキストの本文(翻刻)は「テ」となっているが、絵巻本体の写真では「天」をくずしているため「て」でも問題はないか。

→正元*年中に三条万里小路*に大弼*といふ人
ありけり。息女十八歳に成りけるが難治の所労*
あるによて百日各夜に参詣す。かかれども人にも
見せず又醫師にも問はず「いかなるやまひにて
有るやらむ」とあやしむ程に日数つもりにければ
ある夜夢ともうつつともなく御帳の内より
たふとき僧出で給ひて「汝がなげき申す*病見む」とて
かた脱がせてかいがね*の下せなかをあはせて御指
にておさせ給ひて「此所を灸せよ」とて二ところしる
しをさせ給ひて香水*をぬらせ給ふと思ひて夢さめ
ぬ。御指の跡を見ればくぼみて見ゆるところを灸
してその後是又もおこらず。後によくよく尋ぬれ
ば癇癪*といふ病にてぞ有りける。さるあひだ弥々信
仰深くして毎月十二種の物*をおこたらず奉
られけるとかや。

〈注釈(語の意味)〉
・正元(しょうげん)…鎌倉中期、後深草・亀山朝の年号。正嘉3年3月26日(1259年4月20日)改元、正元2年4月13日(1260年5月24日)文応に改元。
・万里小路(までのこうじ)…京都市の柳馬場(やなぎのばんば)の通(南北の通路)の古称。
・大弼(だいひつ)…(1)律令制における役職のひとつに「大弼」があるが、ここでは「大弼といふ人」とあり、特定の人物の名称として用いられてる。
 ※大弼…令制で、弾正台(だんじょうだい)の次官。弘仁一四年(八二三)にそれまでの弼を少弼とし、その上に置かれた。定員一人、従四位下相当官。(2)孝謙天皇の時、紫微中台(しびちゅうだい)および、それを天平宝字二年(七五八)に改称した坤宮官(こんぐうかん)の次官で、少弼の上に位するもの。定員二人、正四位下相当官。〔日本国語大辞典〕
*所労…病気。わずらい。
*申す…動詞の連用形に添え、改まった気持ちで丁寧に言うのに用いているか。
*かいがね〔胛〕…肩甲骨。かいがらぼね。
*香木…よい香りのある木。
*癇癪(かんしゃく)…神経過敏で起こりやすい性質。また、怒り出すこと。癇癖(かんぺき)。
*十二種の物…筆者の力不足により詳細は不明。第十段の「十二大願の御誓願」にちなんだか(第五段には、行平は薬師如来の出現した因幡国の薬師寺に「十二町の田地をよせて末子を一人とめおき」ともある)。

〈現代語訳〉
正元年間、三条万里小路に大弼という人が
いた。ご息女は十八歳になったが治りにくい病が
あるために百日の間毎晩参詣する。病ではあるけれども人にも
見せず、また、医師にもかからず「どんな病で
あろうか」と疑わしく思ううちに日数が経ってしまったところ
ある夜に夢とも現実ともわからず御帳の中から
尊い僧がお出ましになって「お前が嘆いている病を見よう」というと
肩脱ぎさせて肩甲骨の下の背中を合わせて御指
で押しなさり「ここに灸をしろ」というと二か所に印
をお付けになり香水をお塗りになると思って夢から醒め
た。御指(で押されて印が付けられたそ)の部分を見てくぼんで見えるところに灸を
してその後は病が再び起こることはない。後で念のため(人・医師に)尋ねた
ところ癇癪という病であった。そうしたわけでますます信
仰を深めて毎月十二種の供物をとぎれることなく献上
されたとかいうことだ。
                  〔「因幡堂縁起絵巻」(25)おわり〕

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