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1-4 未来は誰にもわからない。例え、『失われた時を求めて』を読んで、スマブラをしても

大手日系メーカー、ベンチャー企業、と2社を経て、やりたいことがよくわからなくなってとりあえず仕事を辞めてみた29歳、独身、男。仕事について、人生について、考えたり、サボったりするリアルな様を、自伝エッセイ風小説にしています。最後、現状の自分に追いつけるような予定です。ぜひお付き合い頂ければ幸いです。

こういうわけで、『失われた時を求めて』を僕は読み始めた。

「長い間、私はよく長い眠りについたものだ」

Longtemps, je me suis couché de bonne heure.

無職の日を惰眠から始めた自分ピッタリだと思った。

この一文から始まるこの一大私小説は、僕に「失われた時」を発見させるんだろうか。

それとも最後のページを見送ったとき、読書にかけた時間を「失われた時」としてただ茫漠とした気持ちになるんだろうか。

それは、この時はわからない。

でも分からないから知りたくて、ページをゆっくりとめくっていった。

本当はこの本を読むことに大それた想いなんてなくて、興味本位で始めたようなものだ。

でもその興味本位が、今では人生で一番と言ってもいいほどの読書体験となった。

つまり、「未来は誰にもわからない」という当たり前の結論に行きつく。

「今、自分が惹かれるもの」や「今、自分が気持ちいいと感じること」。

そんな漠然とした「いいもの」に対する感覚が、人間には備わっていると思う。

信用もできないけれど悪いものとは思えないこの感覚に忠実になることは、思ったよりもずっと良いことなのかもしれない。

まあ、この長い小説を読み終えた今はそんなことを思えるけど、当時はそんなこと考えることもなかった。

じゃあ、今までの僕の人生はどうだったんだろう。

どんな選択をしてきたのだろうか。

まあ、今は読書に集中しよう。

早くも70ページ位で、かの有名なマドレーヌのシーンが登場する。

マドレーヌを紅茶(実は紅茶ではなく西洋菩提樹のハーブティー、つまりリンデンティーなのだが)に浸した瞬間、主人公が幼い頃、祖母の家で同じようにマドレーヌを食べた記憶が鮮やかによみがえるというやつだ。

「マドレーヌ効果」などという言葉で有名なのだが、ご存じだろうか。

ググってみてほしい。

やがて記憶の奔流が主人公を襲い、小説は長い長い回想へと入っていく。

この回想が10巻、およそ7000pの小説の大半を占めることになる。

すごい小説だ。

こんなの読んだことがない。

僕はこの小説をこの後、少々のサボり期間を挟みながら2月にようやく通読することになる。

でも、この自分語りの小説もちゃんと終わるかわからない。

だから、一つだけ言っておく。

「主人公と自分をリンクさせているうちに、過去の狂おしい記憶となっていた恋愛に清算がついた」

大きく僕を成長させた作品になったことだけは間違いない。

本を読むことに疲れると、僕は「スマブラ」をした。


3時間集中して読んでも、100ページ読めるか読めないか。

一向に「句点」が出てこない超弩級の文章だ。

さすがに活字の上を目が泳ぎ始める。

今日はこの辺にしておこう。

息をついて「ドカッ」とソファに身体を放り込む。

夕方、まだ同居人たちが帰ってくるまでは時間がある。

「ふぅ」

こたつ机の上にある懐かしい機械が目に留まった。

ニンテンドー64。通称、「ロクヨン」。

この家にはみんなが持ち寄った本やゲームが大量にある。

「ロクヨン」は、はるか20年位前にやめてしまったゲームだ。

ここで再会するとは。

おもむろに緑色のコントローラーを手にすると、「ブン」とスイッチのついていないテレビが明るくなった気がして顔を上げた。

「ウソやん」

画面が明るくなってキャラクターが動き出した。

懐かしいBGM。

ハイラル城。

懐かしいカクカクしたモーション。

あの時、いとこから受けたいじめのような容赦ないコンボに意気消沈して、「なんてつまらないゲームなんだ」と思った一戦が目の前に再現された。

まるで、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間のように。

僕は恍惚とした。

to be continued……


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