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ナラティブとクリティシズム(1)(2023)

ナラティブとクリティシズム
Saven Satow
Oct. 28, 2023

“To have frequent recourse to narrative betrays great want of imagination”.
Lord Chesterfield

1       ナラティブとは何か
 第二次世界大戦後の国際社会における最大の懸念の一つがパレスチナ問題である。1993年、イスラエルとパレスチナによる「パレスチナ暫定自治宣言」が締結され、「2国家共存」を目指すことがコンセンサスと関係国のみならず国際社会も認知する。しかし、それから30年経つ2023年に至るまで中東和平プロセスは暗礁に乗り上げ、暴力の連鎖が続いている。

 エルサレム特派員経験のある大治朋子毎日新聞記者はパレスチナ問題を「ナラティブ」から考察している。そのきっかけは、2015年12月にパレスチナ自治区に住む大学生ムハンマド・ハラビがユダヤ教指導者の家族らを刃物で襲い、2人を殺害、2人に重軽傷を負わせた事件である。

 ハラビは急行したイスラエル警官にその場で射殺される。彼は、前夜、パレスチナの旗を美しき乙女として讃える自作の詩をフェイスブックに投稿している。その死後、この詩はネット上で拡散、彼を模倣する攻撃が続発する。それは「ローンウルフ・インティファーダ」と呼ばれ、イスラエル全土に波及することになる。

 こうした状況を受けて、大治記者はハラビの母親に取材する。彼女は息子の命がけの行動は神にも誇れると語っている。「それはパレスチナ社会の隅々にまで行き渡る殉教者ナラティブだった」。

 パレスチナの未成年者が小さなナイフを手に重装備のイスラエル治安当局者らを襲撃する。イスラエル政府はこの現象を重視、モサドに調査を命じる。大治記者は担当者に取材、その際にキーワードとなったのが「ナラティブ」である。「人間はナラティブという形式で世界を、そして自分や他者、世界を定義して生きている」。

 大治記者はさらに発展的に取材を重ね、臨床心理学の「ナラティブ・アプローチ」にも関心を広げる。彼女は、2023年6月、そうして得られたナラティブの功罪の知見を『人を動かすナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』にまとめる。また、記者は『毎日新聞』の連載コラム「火論」においても何度かナラティブについて言及している。

 考察のきっかけが「ローンウルフ・インティファーダ」であるとしても、大治記者は必ずしもイスラエル寄りというわけではない。 彼女は2023年7月11日付『毎日新聞』の「集合的で支配的な物語」において、イスラエル軍とパレスチナ戦闘員について次のように述べている。

 イスラエルが占領するヨルダン川西岸パレスチナ自治区の北部にジェニンという地域がある。手つかずの美しい自然の中で、大きな戦闘が繰り返されてきた。
 最近もイスラエルが「テロの温床」として大規模な軍事作戦を展開している。ジェニンにはイスラエルの建国で家を追われたパレスチナ人約1・6万人が住む難民キャンプがあり、ここを拠点に武装組織が「抵抗運動」を続ける。
 多くのユダヤ人にとってイスラエル軍は「聖戦士」でパレスチナの戦闘員は「テロリスト」。一方、パレスチナ人にとってイスラエル軍は「テロリスト」であり、パレスチナの戦闘員は「聖戦士」だ。

 このように、彼女の関心は「ナラティブ」にある。パレスチナ同様に、イスラエルにも特定の認識の枠組みを提供する「ナラティブ」があり、記者はなぜそれが人を支配するのかを知ろうとしている。

 大治記者は、2023年6月27日付『毎日新聞』の「人を動かすナラティブ」において、その「ナラティブ」を次のように紹介している。

 ナラティブという英語の表現がある。物語とか語り、ストーリー、言説などと訳される。
 ナラティブという言葉に関心を抱いたのはエルサレム特派員時代だ。イスラエル、パレスチナ双方の社会には「自分たちこそ被害者」というナラティブが浸透し、個人の血となり肉となり、人々の心にカギをかけていた。
 だが一方で、ナラティブは人の心にやすらぎや希望も与える。
 イスラエルではホロコースト(ユダヤ人大虐殺)によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされながら、時間をかけて今も自伝をつむぐサバイバーたちの姿を目の当たりにした。陰惨な記憶に何らかの「意味」を見いだし、人生物語を再構築する。そうやって生きる力に変えていた。

 大治記者は「ナラティブ」を「物語とか語り、ストーリー、言説などと訳される」と解説しているが、これは不十分である。確かに、そのようにしばしば訳されている。しかし、「ナラティブ(Narrative)」は類義語である「ストーリー(Story)」と比較すると、その日本語としてあまりなじみのない単語のニュアンスを理解しやすくなる。

 英語において“narrative”の類義語として、”story”や”tale”、”fable”がある。それぞれ説明しよう。最初の“story”はフィクション・ノンフィクション問わず、組織化された文章、すなわち話全般を意味する。第二の”tale”は作り話のことで、”Story”が長編を含むのに対して、しばしば短編を指す。第三の”fable”は動物が登場人物の教訓的な寓話である。

 一方、“narrative”はある出来事をめぐる特定の視点・価値観に基づく理解・認識を伝える話である。ジャン=フランソワ・リオタールが『ポスト・モダンの条件』(1979)の中でポストモダン事情として「大きな物語の終焉」を唱えている。この「大きな物語(Grand Narrative)」は科学が自ら依拠する諸規則を正当化するイデオロギーを指す。イデオロギーは世界観を持っているので、それを共有すると、そこに居場所が見つかる。このように、”narrative”はたんに何かを物語ることではなく、ある対象に関する価値観の反映した理解を世界観として伝達・共有することである。

 「ナラティブ」は価値観に依拠するため、人を支配しやすい。価値観は抽象的・一般的である。ナラティブはそれを具体的・個別的に解釈してドラマ化し、共有する者たちにその登場人物としての居場所を与える。登場人物はプロットに従って役割を果たさなければならない。このようにしてナラティブは人を動かす。

 True terror is a language and a vision. There is a deep narrative structure to terrorist acts, and they infiltrate and alter consciousness in ways that writers used to aspire to.
(Don DeLillo)

2 ナラティブと近代
 「プロット」を「ストーリー」と「ナラティブ」の間に入れて比較すると、両者の違いがより明瞭になる。「プロット(Plot)」は「ストーリー」の類義語であるが、「ナラティブ」のそれではない。「ストーリー」が作品展開の順序に沿ったあらすじであるのに対し、「プロット」は出来事の因果関係に着目した要約である。前者は登場人物の心理に触れるなど内容に踏みこむが、後者はフローチャートで示すことができる。「ナラティブ」は「物語」と訳されるけれども、こういった出来事の流れや展開の集合を指すものではない。

 また、「ナラティブ」は英語の”narrate”と同じく、「語る」や「説明する」を意味するラテン語の”narrare”を語源としている。そのため、「語り」と訳すのは間違いではない。けれども、ドラマにおけるナレーションはダイアローグに対して鳥瞰的な視点からの説明である。世界の内部の視点のみによる作品を抒情詩、外部を持つものを叙事詩とアリストテレスの『詩学』は区別する。「ナラティブ」の「語り」は前者ではなく、後者である。叙事詩は、ホメーロスを代表に共同体における規範を説くものとしてしばしば語り継がれている。

 「ナラティブ」の「語り」は、従来、叙事詩的なものである。叙事詩には登場人物がいる。その声は共同体で共有される規範の下にある。演劇は抒情詩に含まれる。こうした抒情詩が人を動かす場合、それを支配する規範のナラティブに内属している登場人物への共感が働いている。例えば、ギリシア悲劇は当時のポリスの道徳に基づいている。その登場人物はそれを具現している。だから、抒情詩的なものは叙事詩的なものを前提にしている。前近代において主客が分裂していないと哲学史が語るのはこのことだ。ナラティブは共同体の認めるよい生き方を示しているのだから、それを参考にして行動することは望ましい。

 ところが、近代に入ると、詩は抒情詩、叙事詩は散文に吸収される。今日のナラティブの功罪は近代の基本原理と関連している。

 前近代は共同体主義の時代である。神話を根拠として共同体が先に存在し、個人がそれに属する。この人々は共同体の認める規範を共有している。規範に従う義務の対価として共同体は個人に権利を与える。現実の状態から規範の教える美徳の実践を通じて理想へと近づく、もしくは至る。政治の目的はこの徳の実践であり、個人の幸福は道徳の教えるよい生き方をすることだ。

 規範は人為的に作られた倫理や法ではない。超越者から与えられたり、共同体内の慣習として形成されたりしたものである。しばしば神話を始めとする叙事詩的なものによって語られる。規範は一般的・抽象的なものであるが、叙事詩はそれを個別的・具体的に語る。一般的・抽象的な文言であれば、それを解釈して個別的・具体的な事例に適用できる。しかし、叙事詩にはドラマ性があるので、登場人物の行動の模倣が美徳の実践と共同体において称賛される。

 文芸を含めた芸術の目的は絆を広げたり、強めたりすることである。その創作・鑑賞・評価は規範を共通認識としている。規範は一般的・抽象的であり、文芸はそれを個別的・具体的にする。その際、作者は叙事詩的なものから引用することもしばしばである。

 前近代における代表的な散文フィクションのジャンルが「ロマンス(Romance)」である。これはもう一つの世界を舞台とする。ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、神々の物語である神話とは異なり、後に述べる近代小説と神話の中間に位置する。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、その意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かを象徴している。性格よりも個性に関心が向けられ、近代小説がこの点で因習的であるのに対し、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。子の願望は規範に裏付けられている。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。顕在的・潜在的であれ、始まりに終わりが提示され、その目的に向かって話が展開される円環構造をしている。すべての要素はそれを実現するために従属している。作者にとって、曖昧なものや無駄なもの、意に沿わないものは除外され、ただ因果関係が叙述される。ロマンスの短編形式は「お話(Tale)」である。

 しかし、16世紀の欧州で、宗教改革をきっかけに宗教戦争が勃発する。自身の道徳の正しさを根拠にした破壊と殺戮が繰り広げられる。そこで、17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは政治の目的を徳の実践から平和の実現に転換する。平和でなければ、よい生き方をするのもままならない。

 ホッブズはこのような殺し合いが正当化された原因を政治と宗教が一致しているからとして、政教分離を提唱する。政治は公、信仰は私の領域にそれぞれ属し、相互に干渉してはならない。これにより価値観の選択が個人に委ねられる。こうして個人主義としての近代が始まる。

 価値観の選択が委ねられているのだから、個人は自由で平等、自立している。これが近代人である。17世紀英国の思想家ジョン・ロックはホッブズの理論を踏まえ、その個人が集まって社会を形成すると述べる。それが公正で効率よく機能する目的で、個々人人は権利の一部を信託して国家を構築する。政府は権利を信託されているので、社会のために活動する義務がある。近代において義務を課されているのは個人ではなく、政府である。

 近代では政教分離により公私は相互に干渉することが許されない。ただ、それでは何が社会のための活動か政府には見当がつかない。そこで、社会は「共(Common)」の空間として「公(Public)」と「私(Private)」を媒介する。近代は社会の時代であり、新しい学として社会科学が登場してくる。個々人は社会におけるコミュニケーションを通じて政治に参加する。また、政府はそれを踏まえて統治を実行する。近代における公共性は、ユルゲン・ハーバーマスが『公共性の構造転換』で述べた通り、時として相異なる価値観の個々人間の社会的コミュニケーションによって形成される。

 価値観の選択が個人に委ねられているので、個々人によって向かうべき理想も異なる。近代における倫理思想は従来の卓越主義や超越主義に代わり、動機を重視する義務論と結果から判断する功利主義を二本柱とする。いずれも決定的ではないので、その都度、倫理的指針は社会におけるコミュニケーションによる合意形成が必要になる。前近代の道徳が静学的だったとすれば、近代は動学的である。

 倫理は行動によって評価される。有閑が美徳だとしよう。行動が勇敢であるかどうかによって倫理的に評価される。そのため、道徳に基づくナラティブは行動を促す。一方、近代の価値観も行動が評価対象であることに違いがないが、動機や結果によって是非が問われる。近代の価値観に基づくナラティブも行動を促すけれども、その際の動機や結果が強調される。愛国心に駆られた勇敢な行動や国家の危機を救った勇敢な行動のように、美徳の実践として行動が倫理的に評価されるわけではない。

 文学の創作・鑑賞・評価の共通基盤を規範に求めることなどできない。それは社会に基づくことになる。近代の文学は社会の中の文学と位置づけられる。価値観の多様性が前提であるので、作品はそれを個別的・具体的に扱う。だが、価値観を共有していない人にとってその同時代的社会における意義を認識しやすいわけではない。そのため、作品は社会的コミュニケーションを通じて理解される。それを一般化・抽象化して体系に位置付けその社会的儀を論じる批評家の存在が不可欠である。

 近代社会を扱うために生まれた文学ジャンルが「近代小説(Modern Novel)」である。この文学の真の主役は近代社会だ。代表的な作家としてダニエル・デフォーやヘンリー・フィールディング、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンなどが挙げられる。登場人物は等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいはほんとうの人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。また、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度でとり扱うことが要求される。エミール・ゾラは、それを実現しようと、自然科学や社会科学を援用している。語りは、ロマンスが規範に偏っているのに対し、価値中立性を指向する。この短編形式は「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。

 前近代において文芸は規範に従わなければならない。それは「義務としての物語《ナラティブ》」である。「人間はナラティブという形式で世界を、そして自分や他者、世界を定義して生きている」ことは自明であり、何ら問題はない。

 一方、近代は価値観の選択が個人に委ねられ、内面の自由が保障されている。それを表現する自由も認められているのだから、文学活動は「権利としての物語」である。誰もが自分の物語を語る権利を持つ。それは物語の多様性のみならず、氾濫も用意する。また、自分の価値観と同じ、もしくは近い人との交流も自由である。従来は移動の自由をはじめ諸々の自由が制限されていたため、人付き合いは主に共同体内に限定される。若者が極論を口にしても、大人がそれを諭す。けれども、近代は人間関係を選べる。同質的な集団を形成し、その中では批判が弱いので、極論が増幅しやすい。こうして育った極論の物語が暴走することになる。

Stories are different every time you tell them - they allow so many possible narratives.
(David Antin)

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