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誤訳に見る予断(2003)

誤訳に見る予断
Saven Satow
Apr. 10, 2003

「見ようとしない以上の盲人がいるだろうか」。
アンドリュー・ポアード『健康の祈祷書』

 ミスというのは、概して、肝心なところで起きてしまうものです。もっとも、それには、どうでもいいときにしてしまったミスというのは、目立たないからかもしれません。ともかく、誤訳というのも、まさに重要なところで現われてしまうのです。

 映画『地獄の黙示録』の中で、CIAと見られる人物(ジェリー・サイスマー)からベンジャミン・L・ウィラード大尉(マーティン・シーン)へ、「不健全(unsound)」になり、軍律違反の疑いのあるウォルター・E・カーツ大佐(マーロン・ブランド)に対する作戦命令が次のように下されます。

"Terminate with extreme prejudice!"

 これは『地獄の黙示録』の中でも最も有名な台詞の一つです。フレデリック・フォーサイスは、この台詞とジェーン・オースティンの『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』をもじって、"Pride and Extreme Prejudice"という作品を書いています。"Terminate with extreme prejudice!"を直訳すると「抹殺しろ、極端な偏見をもって」になります。しかし、これでは、何のことかわかりません。フランシス・F・コッポラ監督が"Translate with extreme prejudice(翻訳しろ、極端な偏見をもって)"と命令しているのかと勘ぐりたくなるくらいで
す。

 そのため、ある字幕では「抹殺するのだ、私情を捨てて」、別の字幕には「彼を暗殺せよ」、または「憎しみを込めて大佐を抹殺するのだ」、吹替版においては「大佐を完全に抹殺しろ」と訳されています。先のフレーズが意味するのは、確かに、暗殺です。字幕は字数制限がありますから、その苦労に同情します。これは、ベトナム戦争で、極秘裏にスパイや捕虜を始末することを指す軍事用語です。けれども、「暗殺せよ」ではwith以下の持つニュアンスがまったく生きてきません。このフレーズは、実は、作品のテーマにかかわる重大なものなのです。

 まず、"terminate"は「(ある状態などを)終わらせる」という意味の動詞、次に"with"は手段や付帯を表わす前置詞、"extreme"は「極端な」という形容詞、最後の"prejudice"は「偏見」と一般的に訳される名詞です。この場合、問題になるのは、"prejudice"です。

 辞書をひくと、"prejudice"の項目に"without prejudice"という熟語があります。これは法律用語で、「不利益にならないように」とか「予断を持たずに」という意味があります。裁判では、何よりも、公正さが重んじられます。予断をできる限り持たないように臨むのが裁判だとすれば、予断を可能な限り持っていては裁判になりません。つまり、 "with extreme prejudice"は先のフレーズ上では"out of court"、すなわち「法廷の外で」ということなのです。

 軍律を破ったと見られる軍人は軍法裁判にかけられて、処罰が決定されます。軍法裁判を無視して、軍律違反の疑いのある軍人を殺害することはリンチになりますから、当然、軍法裁判の対象になります。しかし、ウィラード大尉が命令された作戦ではそれが問われ
ません。

 再三、ベトナム戦争におけるアメリカの予断と偽善さが描かれている通り、それは『地獄の黙示録』の重要なテーマの一つです。「彼を暗殺せよ」という訳では、このフレーズが表象する命令の持つ偽善性がなくなってしまいます。「私情を捨てて」や「憎しみを込めて」は論外です。一般的な日本人は裁判を身近に感じていませんから、法に関係する言葉に気がつきにくいのかもしれません。

 予断は、ミス同様、意識していないところに現われてしまうのです。"Terminate with extreme prejudice!"は、ですから、「片付けろ、裁判抜きで、だ」と翻訳する方がいいでしょう。

 ところが、村上春樹は、愚かにも、『海辺のカフカ』の登場人物に「圧倒的な偏見をもって断固抹殺する」と言わせているのです。村上春樹は、『地獄の黙示録』を「もう20回くらいは見た」ことがあるほどの「圧倒的なファン」であり、その中で「いちばん好きなシーン」から「引用」したと言っています。「思い出しただけでわくわくしちゃいます」と吐露するシーンであれば、「圧倒的な偏見をもって断固抹殺する」がおかしいことくらい感じてしかるべきでしょう。

 しかも、村上春樹は、驚くべきことに、アメリカの作家の翻訳も手がけています。デビュー以来、村上春樹の作品にはこういった雑な「圧倒的な偏見」に満ち溢れ、自閉的で、読むのに辟易するものでしかありません。

 そもそも「圧倒的なファン」という表現も不細工です。"Estimate with extreme prejudice!(評価しろ、圧倒的な偏見をもって)"と読者に命令しているようです。作家として最低限持つべき言葉に対する感受性が村上春樹にはないと言わざるを得ません。

 けれども、「圧倒的な偏見」に覆われ、自閉的な村上春樹の本は売れています。それも、偏見が増し、自閉化している今の時代にふさわしく、日本のみならず、海外においても、です。でも、これは「不健全」です。私たちは、むしろ、自分自身に対してこうすべきでしょう。

"Terminate extreme prejudice!(始末しろ、極端な偏見を)" 
〈了〉

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