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ミステリーと金田一耕助(2)(2016)

2 近代都市と探偵
 この経験科学的方法が特に必要になるのは近代都市の事件である。都市も近代化によって様相を変える。中世以来、欧州の都市は、城壁に囲まれていることもあって、比較的、特定の身分や職能によって居住者が限定されている。しかし、近代では職業選択や移動などの自由が認められる。この自由により都市空間の居住秩序は改変される。

 古来より都市は、忖度同様、居住地である。しかし、都市は、村落と比べ、人口量・密度が大きい。また、人口流動も激しい。移民や避難民によって急増することもあれば、衛生環境が悪いので感染症の流行に伴い激減することもある。

 流出入があるから、都市は村落よりも人口の異質性が高い。多い人口を背景にして職種も多様化する。人々の多様なニーズに応えたり、生活問題を解決したりする仕事も発生する。そこに生まれる歓楽性が人口をさらに集める。

 新たな出会いが頻繁に生じ、結合関係を集積させる。反面、対面接触が短期であるため、匿名性が高まる。顔見知りの共同体である村落と違い、都市では、過去を消して生きることも可能である。

 都市は食料を自給できないので、村落に依存している。食料は購入されるものであるから、都市は貨幣経済が発達する。家族生活が営めるだけの収入がなければ、都市では独身のままである。そのため、都市は人口を創出する力が弱い。維持・増加は他からの流入に依存する。もちろん、すべてが豊かになれるはずもない。貧者が集まりスラムを形成し、それが貧困を可視化する。

 村落は農業の維持・運営のために協力が必要である。農作業を手伝い合ったり、農業用水を共同で引いたりする。都市と違い、貧困がよそ者に見えにくい。一方、都市では、村落と異なる共同性が居住者の間に生まれる。飲料水の確保やし尿処理も各世帯ではなく、生活空間を共有する居住地域が共同で対処する。し尿は肥料として村落で利用されることもある。村落と違った都市ならではの共同生活がある。可視化される貧困を共通理解にして貧者は貧者同士で助け合う。

 近代は、すでに述べた通り、資本主義の経済社会である。産業化が貨幣経済を進展させる。工業製品を食べて空腹を満たすことはできない。この条件は都市の特徴である。近代化が進むと、都市が発展し、その特徴が先鋭化する。都市的生活様式が進化・拡充していく。

 近代化によって生まれた新たな都市で、人々は従来と違った思考や嗜好、行動をとるようになる。その環境が新たなタイプの犯罪を生み出す。希薄な人間関係と高い人口密度を背景に発生する無差別的・連続的犯罪はそうした好例である。居住者はそれを不安に感じる。

 シャーロック・ホームズに『赤毛連盟』という物語がある。これは赤い髪の毛の人だけのクラブである。人口密度の大きい近代の大都市でなければ結成することは困難だ。もっとも、探偵という職業自体が近代都市の産物である。依頼数は人口に比例すると考えれば、報酬と経費から大都市でなければ成り立たない。

 普及し始めた新聞が都市で起こる奇怪な犯罪事件を伝える。読者はその謎を解こうと、想像力を働かせる。さらに、自説を周囲に披露したり、他の人の考えを聞いたり、議論したりする。その後、新聞が事件の真相を報道する。読者はその意外な結末に驚く。

 ミステリーにはこの過程が圧縮されている。出発点には怪奇性、終着点には意外性がある。真相解明は最終場面で一まとめにして行われる。

 この原則は文学上の必要性とも合致する。ミステリーは謎解きの楽しみがあるので、読者がその世界に入りこみやすくなる仕組みが要る。作者と読者が意識を共有するためには驚きは効果的である。それはサーカスやマジックがよく示している。結末も意識の共有が要るので、意外性が求められる。それは急激であればあるほど効く。真相解明はクライマックスにおいて、意外性を持って、ドラマティックに行われる。

 近代化という事態に対処するために、犯罪捜査にも革新が必要だ。犯罪はあくまで経験的事件である。これを対象にする実証的方法は経験科学である。経験科学は仮説を立て、それを観測や実験、調査によって妥当性を検証する。その作業が妥当であっても、他の可能性があれば、仮説が真であるとは言えない。見えないものを見るようにするには経験科学の方法が不可欠だ。

 近代都市における犯罪捜査に経験科学が利用される展開を文学作品にしてみようという作家が現われても不思議ではない。ただ、ミステリーは、探偵小説とも呼ばれるように、探偵を主人公としている。当局者ではなく、私立探偵が主人公に選ばれたことには疑問を覚えるだろう。

 ポーが『モルグ街の殺人事件』においてパリを舞台に探偵デュパンを登場させことには理由がある。史上初の探偵がパリのフランソワ・ヴィドックとされているからだ。彼は元犯罪者だった経歴を生かしてパリの警察のスパイとして活躍する。その際、犯罪者と手口による分類を考案している。これは経験科学的方法である。独立してキャリアを元に事務所を開設、探偵業務を始める。これが探偵の誕生である。1827年、『『ヴィドック回想録 (Mémoires de Vidocq)』を発表し、探偵の存在をポーを含め欧米の人たちに知らしめる。

 なお、元犯罪者が公権力の捜査協力者になることは珍しくはない。江戸時代、捜査の末端で情報収集を担当していた目明しには元犯罪者もいる。

 警察の協力者が探偵家業を始め、その回想録が天才作家の想像力を刺激する。警察と並んで犯罪捜査をする推理小説の探偵像がこうして生まれる。

 実際の探偵業は刑事警察が扱えない領域で発達する。警察は公権力であるから、私人同士の紛争である民事に原則的に介入しない。もちろん、そこで刑事事件が発生したり、その危険性が高かったりする場合には出動する。また、事件性の認められない場合も取り扱わない。近代人は移動の自由が保障されている。行方不明になったとしても、自由意思に基づいて失踪したなら、警察は動こうとしない。こうした領域を担当するのは探偵である。探し人や身元確認などが彼らの主な仕事だ。

 制度は資源利用に対する公式・非公式のアクセス権の有無である。権利であるから利用は自由意思に任せられる。あれば関係できるが、なければ排除される。警察から排除される件を探偵が扱う。

 しかし、実際の探偵業務がそうであるなら、ポーの場合はともかく、以後の作家がこの慣習を踏襲する必要もないだろう。ミステリーの醍醐味は犯罪の動機とトリックの解明にある。それを担当するのが探偵である必要はないはずだ。けれども、探偵を主人公にする事情がミステリーにはある。

 ミステリーの推理は経験科学の方法である。その科学には反証可能性が必要だ。探偵は警察の判断に対する反証として機能している。

 カール・ポパーは科学的の条件として「反証可能性」を挙げている。真偽を検証できない曖昧な命題は科学的ではない。血液型性格判断が好例である。「A型は几帳面」と言われても、性格の基準が曖昧で、反証の可能性を持っていない。

 探偵は、警察の捜査・判断、もしくは関係者の共通認識に対して、価値中立性を問いただしたり、他の可能性もあるのではないか疑問をさしはさんだりと反証を提示する。この異議に反論できなければ、その仮説は再検討を余儀なくされる。探偵も謎を解き明かす際に、逆に警察や関係者から疑問を次々と問いかけられる。一つ一つに反論し、動機とトリックを明らかにして、劇的にかつ鮮やかに、犯人を特定する。この過程がミステリーを科学的にする。

 言うまでもなく、他にも事情がある。探偵は公務員ではなく、民間人である。その活動は私的なので、強制権限を持っていない。探偵は信頼によって事件に関わる。探偵には容疑者を逮捕・勾留する権限がないのだから、誰も話さなくてかまわない。ただ、強制力を持っていない分、人々は協力しやすい。また、情報を入手するために、買収したり、取引したり、脅したりしても公務員のように法的に問われる可能性も低い。

 警察にも探偵に寛容に接する利得がある。探偵は人々の協力が得やすいから、警察以上に情報を収集できる。また、捜査には法的根拠や予算、セクト主義などの制約がある。しかし、探偵はそれに縛られない。

 現代ミステリーには凡人も登場するが、伝統的には探偵は天才的である。探偵は注意深い観察力や巧みな話術、機転の利いいた着眼によってさまざまな情報を収集し、証拠を見つけ、自説を固めていく。彼らはしばしば直観を働かせるが、それはあくまで仮説で、調査によって修正される。既知の情報を元に仮説を立て、調査を行い、その妥当性を検証する。誤りが見つかった場合、仮説、もしくは調査を修正する。この作業を繰り返し、事件の真相に迫っていく。

 近年のミステリーには探偵があまり登場しない。犯罪の謎を解き明かすのは警部を始めとする公務員や神父のような民間人と幅広い、捜査に関わる科学技術が専門化・高度化し、実際にそのテクノロジーを扱う人が謎解きを担当する場合も少なくない。ただ、反証を提示する役割は探偵と同様である。

 今日、自然科学のみならず、社会科学や人文科学でも経験科学の方法が常識とされている。これだけ社会に経験科学が浸透し、なおかつ専門化した時代ではミステリーに探偵を登場させる必要性が弱まったと言えるだろう。ただ、ミステリーを論じる際には、実際の比喩的用法を加味して、謎解きの主人公は「探偵」と総称してかまわない。

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