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カズオ・イシグロとバイアス(2017)

カズオ・イシグロとバイアス
Saven Satow
Oct. 11, 2017

“I thought it was a hoax in this time of fake news — I didn’t believe it for a long time”.
Kazuo Ishiguro

 2011年7月5日、松本龍復興相が霞が関の庁舎の会見場で辞任の記者会見を行っています。担当大臣として東日本大震災の被災地を訪問した際、彼は暴言や奇行を示し、被災者を戸惑わせたり、怒らせたりしています。同月3日、達増拓也岩手県知事と面会時にサッカーボールを蹴るパフォーマンスを見せています。

 7月5日付『日本経済新聞』は「松本氏『辞任は個人的な都合、一兵卒として復興努力』」において、会見の模様を次のように伝えています。

 会見中は終始淡々とした表情だったが、目を潤ませ言葉に詰まる場面も。今年死去した米シンガー、フィービー・スノーや小説家のカズオ・イシグロの著作の題名を挙げ「ネバー・レット・ミー・ゴー(邦題『わたしを離さないで』)。そういう意志で、私は被災された皆様から離れませんから。一兵卒として努力していきたい」とも話した。

 おそらく、日本の政治家が公共的コミュニケーションの場で「カズオ・イシグロ」の名前に言及したことはこれが初めてでしょう。偏見かもしれませんが、政治家の愛読書と言えば、司馬遼太郎を始めとする歴史小説というイメージがあります。本を読まないように見える先生も少なくありません。そんな中、カズオ・イシグロを原書で読み、記者会見で触れる政治家がいるのは意外です。暴言や奇行以上に驚きです。

 松本大臣は、その後、双極性障害を患っていたことが公表されます。いわゆる躁鬱病です。暴言や奇行はその症状である躁病エピソードで、本人が意図して行っていたわけではありません。政治家は、概して、睡眠不足や躁的防衛のため、双極性障害害患者に見えることがあります。そういう事情もあって、政治家において精神疾患が見逃されがちです。

 その「カズオ・イシグロ」の名前が、2017年10月5日20時過ぎ、日本のメディア上に流れます。ストックホルムにある選考委員会がカズオ・イシグロにノーベル文学賞を授与すると発表したからです。

 委員会は授賞理由を「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、われわれの幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」としています。カズオ・イシグロの小説には、失われたものへの郷愁や栄枯盛衰の哀愁が感情に訴え、想像力をかき立てる描写が見られます。まさに「幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」、「壮大な感情の力を持った小説」です。前回のボブ・ディランと違い、授賞に異論の声はありません。

 ただ、見逃してはならないのは「世界と結びついている」という件です。委員会が選考基準を示しているからです。文学の評価には主観的判断が関わります。しかし、世界的な賞ですから、広く納得を得られる基準を明示する必要があります。それはノーベル文学賞の存在意義にもつながります。

 現在、最も流行している文学研究のテーマの一つが「世界文学」です。この概念は「国民文学」の超克としてゲーテに提案し、現代的文脈では文学のグローカリゼーション、すなわちグローバル化=ローカル化と共通理解されています。「世界と結びついている」はこの「世界文学」を言い表しています。

 カズオ・イシグロの小説には、異国で暮らす外国出身者がしばしば中心的人物として登場します。また、作者自身も日本出身のイギリス人で、非母語の英語で執筆しています。作品も作家も世界文学を体現しています。

 日本文学界を見渡しても、リービ英雄を始めとして海外出身の非母語話者の作家が活動しています。また、ドイツに在住して日独の二つの言語で執筆する多和田洋子や一つの作品を日英語を交えて書く水村美苗のような小説家もいます。「世界文学」は日本も無縁ではありません。

 ただ、カズオ・イシグロの最高傑作『日の名残り』はそうした空間的設定ではありません。主人公の執事スティーブンスの語りによる1956年の現在と1920~30年代の過去と交錯する長編小説です。

 これは「信頼できない語り手(Unreliable Narrator)」を利用した作品です。近代小説では語り手がニュートラルで、読者に情報を与えます。ところが、この信頼できない語り手はバイアスのかかった情報を読者に告げます。語りに、防衛機制を始めとする心理的操作や過記憶などの心理的錯誤、精神疾患、記憶の障害、子どもといった設定が施されています。ミステリーやSF、ホラー、サスペンス、ファンタジー、アドベンチャーなどのメロドラマで用いられる手法です。

 現代小説はメロドラマを取り入れつつ、新たな方法に挑戦します。『日の名残り』も現代小説に属します。

 信頼できないナレーターは読者をミスリードする機能を果たしますから、謎解きの効果が増します。『日の名残り』の語りにはバイアスがかかっています。執事として元主人に不利になるような証言はしません。ですから、読者はその語りを鵜呑みにせず、実際はどうなのかと慎重に吟味して読まねばなりません。読者はこのバイアスにより作品世界に惹きこまれていきます。『日の名残り』はこれを利用した現代小説の代表例です。

 バイアスは認知心理学の応用において最も関心が高いものの一つです。災害に遭遇しても、人は逃げるよりも大丈夫だと留まる正常化バイアスが働くと知られています。信頼できない語り手は文学的効果のみならず、人間の認知行動についての最も現代的な研究テーマです。文学は暗黙の裡にある人間の精神活動を言語化してきた伝統があります。このバイアスも一例です。

 実は、今回の受賞はともかく、ノーベル文学賞をめぐる文学事情にもバイアスが認められます。ノーベル文学賞にノミネートされるには、英語やフランス語といった主要な西洋の言語以外の作品の場合、それらに翻訳されている必要があります。日本文学も同様です。そこにバイアスが入りこんでしまいます。純文学系の小説に関してそのいくつかの例を説明しましょう。なお、名称や分類はこの作品内での便宜的なものです。

 講談社インターナショナルなど日本の出版社が日本文学の外国語訳を出版しています。 また、かつてアメリカの大学における日本文学の博士論文には翻訳がつきものです。そのため、英訳された作品は刊行物以上にあります。今回の議論はそれらを除き、欧米の商業出版を中心にします。

 まず、翻訳者のバイアスです。翻訳者が嫌な作品は、一般的に言って、訳されません。もっとも、これは人情というものです。ただ、好みで選択されますから、日本文学史における位置づけは十分に考慮されない場合があります。

 また、文化のバイアスもあります。外国人がそれを読むためには、社会や歴史といった文化に関する予備知識が要求される作品は避けられます。日本でいくら人気があっても、司馬遼太郎を外国人が読むには、幕末維新の日本史の知識が不可欠です。それは読者にとってあまりに負担が大きいものです。

 ちなみに、日本の読者は註や解説で補足すると、比較的、予備知識が必要な作品でも苦にしません。理由は定かではありません。ただ、近代を取り入れる際、文学や思想の輸入に関して西洋の文脈も検討した経緯があるからかもしれません。

 さらに、出版のバイアスもあります。欧米の出版社や読書人の持つ「文学とはこういうもの」のバイスに適う作品でなければ、翻訳されません。文学は出版をめぐる産業の事情にも影響されます。内容や主題、形式も環境に適応して発達していますので、文学のあり方は相対的です。「文学はこういうもの」という認知が環境に規定されています。ところが、自分が慣れ親しんだものが文学と絶対視するバイアスが形成されているのです。

 最近の欧米では、概して、長編が小説とされています。短編や中編は人気がありません。長編小説と呼ばれるには、400字詰原稿用紙換算400枚程度は必要です。

 一方、日本の純文学は短編や中編が中心です。それは文芸誌の新人賞の分量規定からもわかります。原稿用紙換算100~200枚程度で、50枚でも可です。

 出来以前に分量が理由で日本の純文学は翻訳されにくいことになります。日本の文豪も例外ではありません。奇特な研究者が訳したとしても、欧米の読書人がなかなか手を伸ばしてくれません。反面、谷崎潤一郎や三島由紀夫、井上靖、大江健三郎、村上春樹など長編の多い作家は翻訳されやすいのです。その小説に関する認識から読書人もページを開いてくれます。欧米以外で文学活動をする作家は、翻訳の際に、こうしたバイアスにぶつかるのです。

 西洋中心主義の批判や文化相対主義の提案など近代的な偏見の是正を文学は主張しています。作家のみならず、出版関係者や読書人も同様の姿勢を示しています。けれども、文学のあり方は必ずしもそうなっていません。バイアスの克服はこのように困難です。これも今日の一つの「世界文学」なのです。
〈了〉

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