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坂本龍一、あるいは20世紀の音楽図鑑(2)(2023)

4 意の音楽
 西洋音楽の行き詰まりの打破の企てとして、他にも、「意」の音楽を挙げることができる。それは楽音以外の音による音楽である。

 音楽は自分を含めた誰かと合わせることを前提にした実用性以上の音の組織化である。実用性はその対象の直接的利活用を指す。この合わせることは場を共有することを意味する。西洋音楽の場合、それはハーモニーである。参加者が思い思いに好きな音を好きな時に奏でたり、歌ったりすることは許されない。その端的な光景がオーケストラのチューニングである。指揮者が登場する前に、オーボエの音を基準に、コンサート・マスターが中心になって全員のピッチを正確に合わせる。この習慣は西洋音楽系以外には見られない。

 この楽音中心主義に対して、ノイズの音楽を提唱したのがイタリア未来派のルイジ・ルッソロである。この画家はノイズを発生する楽器を考案、それが奏でる音楽作品を披露している。この流れは、クセナキスやシュトックハウゼンを始めとするミュジーク・コンクレートやジョン・ケージに代表される実験音楽として第二次世界大戦後に意欲的に試みられる。前者は楽音以外の音をテープに録音、それをコラージュしている。後者はピアノの現に消しゴムを挟んだり、ピアノを前にした椅子に4分33秒の間ただ座ったりしている。

 ただし、これを「音楽」と呼ぶことに躊躇する音楽家も少なくない。こうした作品は、演奏家や声楽家が介在する余地がない、もしくは限定的である。それは創作・鑑賞からは音楽と認知できるかもしれないが、そこには作曲理論の学習や演奏・発声の訓練が不要で、分析・解釈・評価のしようがない。

 しかし、ポピュラー音楽においてはこの方法論が定着している。パンクやメタル、ヒップホップのように、ノイズが重要な効果を持つ音楽ジャンルもある。また、楽音以外の音を作品に挿入するだけでなく、サンプリングによってそれを楽音のように変換することも常態化している。さらに、水準はともかく、AIにより演奏家や声楽家、作曲家を必要としない作品も発表されている。

 坂本龍一は未来派に関心を寄せ、1986年、ソロアルバム『未来派野郎』をリリース、細川周平と共著で『未来派2009』を刊行している。坂本は、この中で、フランスの思想家フェリックス・ガタリと対談、サンプリングを用いれば、原爆の音も音楽になり得ると述べている。電子技術を利用すれば、いかなる音も楽音と同様に扱える。実際、坂本はこのアルバムで自動車の衝突音やベニト・ムッソリーニの演説などさまざまな音を作品内にコラージュしている。彼はノイズの音楽の発想をコンピュータによって拡張してみせる。

 しかし、こうした姿勢は後に変化していく。坂本は楽音に変換することを考えずに、音自体に関心を抱いている。特に、闘病生活に入ってからは日常的に音の録音を行っている。組織化される前の音への興味は音楽が生まれる瞬間を聞き逃すまいとする態度だ。その場の音を聞き入るのではなく、録音して聞き直している。これはジョン・ケージと似て非なる方法である。坂本は日常の音がそれだけで音楽だと主張してはいない。音を感受しようとする時、音楽が生まれる。「意」の音楽の流れを彼は音楽が生まれる瞬間としての音に再検討している。

5 政の音楽
 20世紀の音楽を語る際に、知・情・意の他に見逃してならない観点がもう一つある。それは「政」である。これには1922年から91年まで存在したソ連を抜きに語ることができない。「政」はソ連の全体主義体制による政治的音楽として象徴的に理解できる。

 近代は、政教分離に伴い、価値観の選択が個人に委ねられている。自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成する。人々の共通認識は規範ではなく、社会である。従って、近代における音楽の創作・鑑賞は社会を前提にする。

 しかし、ソ連はマルクス=レーニン主義に基づき、近代の超克を目指す。ソ連人はこのイデオロギーを共有する人民であり、私的領域はその公的抑圧により著しく制限される。音楽の創作・鑑賞もそれを共通認識にしなければならない。

 革命以前のロシアの作曲家と言えば、色鮮やかなカンタービレが思い起こされる。ところが、ソ連の作品はヵンタービレ風の弦の旋律が登場しても、古典主義的に変えられ、しかもギクシャクしている。また、ソナタやフーガ、変奏曲、協奏曲、交響曲といったアカデミックな形式・ジャンルが杓子定規に遵守されている。さらに、資本主義社会で試みられているジャズの導入といった実験は当局の出方を伺うように慎重になされている。ショスタコーヴィチのプロパガンダ交響曲などは金管楽器を始め金属音が轟音と言っていいほどに大音響で響き渡る。ロシア音楽に抱く哀愁や甘美はソ連のそれにはなく、わざとらしい大仰さや型に押しこめたごとくのぎこちなさ、威圧するような騒々しさといった印象がある。

 ここまで理論的に徹底してはいないものの、彼らのイデオロギーに則り、ナチスもワーグナーをドイツ的と称賛する反面、シェーンベルクをユダヤ的として排撃している。また、クメール・ルージュは自身のマオイズム理解に基づき、音楽を禁止している。さらに、全体主義と違いイデオロギーに基づいていないが、国家の名のもとに権威主義体制、場合によっては民主主義体制でも、特定の音楽を抑圧している。音楽を楽しむことは私的行為であるけれども、20世紀においてこの芸術は政治と無縁ではない。

 坂本龍一は全体主義に対して逆手に取る形で批判している。YMOは、1983年の散開コンサートにおいて、ナチス風の制服を身にまとい、党大会を思わせるようなステージを展開、その模様を収めたドキュメンタリー映画に『プロパガンダ』とタイトルをつけている。また、坂本は、先に述べた通り、ファシズムに接近したイタリア未来派を取り上げ、芸術運動がいかに全体主義に取り込まれていくかを明らかにしている。

 音楽は、言語を伴わない作品も少なくないため、すべてがメッセージ性を表象しているわけではない。チャーリー・パーカーにそれを尋ねても、一笑に付すだけだろう。音楽を通じてメッセージを送り手と受け手の間で相互理解する際、場が利用される。好例がウッドストックにおけるジミ・ヘンドリックスによる『星条旗よ永遠なれ』の演奏である。音楽のメッセージ性はコンテクストに依存する。

 音楽が自由であるには、場の自由が必要であり、そこは社会にある。音楽家は「社会の中の音楽」として行動しなければならない。場が自由であるために、音楽家は社会にコミットする。坂本龍一は、そのため、20世紀の音楽家として社会的行動に積極的に取り組んでいる。場への関心なくして自由な音楽などありえない。20世紀音楽の体系において社会実践はこのように位置づけられ、坂本の行動は音楽図鑑の一環である。

6 ONGAKU
 90年代以降の坂本龍一が行動する音楽家であったことは言うまでもない。80年代、あまり社会的アクションを行っていないが、それは彼が時代を表象する人物だったからである。先に挙げた音楽活動だけではない。彼は若者にとってファッションリーダーの一人であり、何気ない発言さえ影響を与えている。

 坂本龍一が80年代を表象していたことを最もよく物語るのが村上龍との共著『EV.Cafe 超進化論』(1985)である。これは坂本と村上の対談を冒頭と末尾に置き、その間に彼らと論客の鼎談が挟みこまれ、膨大な註が付記された本だ。ゲストは吉本隆明・河合雅雄・浅田彰・柄谷行人・蓮実重彦・山口昌男の6人である。ニューアカデミズムやポストモダンといった80年代の知的シーンを凝縮しており、この時代を語る際には欠かせない一冊だ。ただし、女性がいないところが当時の限界を示している。

 プラトンの対話篇がそうであるように、対話は主知主義的ジャンルである。知的でオシャレでなければならない80年代、インタビューや対談、鼎談、シンポジウムの作品がよく読まれ、坂本は他にも高橋悠治との電話対談『長電話』(1984)など斬新な本を刊行している。この頃の坂本は一つの時代精神であり、強く主張しなくても、行動が社会実践的効果を持っている。坂本が60年代に吉本隆明にかぶれ、学生運動に参加していたことは80年代の若者は知っており、村上春樹のようなノンポリではないと認識している。その上で、彼の音楽や著作に触れているのだから、支持者は認知行動に思想的・社会的影響を受けずにいられない。

 坂本龍一がいかに音楽の吸収に貪欲だったことを物語る好例がNHKのFM番組『サウンドストリート』である。80年代に彼がパーソナリティを務めていた時、「しぶいリクエスト特集」や「デモテープ特集」のコーナーを設けている。前者は、ジャンル不問で、笑ってしまうほどすごい曲があるというリクエストを受け付けるコーナーである。こまどり姉妹の『涙のラーメン』や緑魔子の『最后のダンスステップ』などをはじめユニークな曲を数多くかけている。後者はリスナーが応募した自作曲の中から面白いものを紹介するコーナーである。無名の人たちの音楽を募集して紹介する。これは音楽の草の根を育てることにも寄与している。さらに、この番組で放送禁止やお蔵入りなど貴重な曲も流している。その一つが『俺ら東京さ行くだヒップホップバージョン』である。吉幾三の名曲をヒップホップ風にアレンジしたご機嫌な曲で、レコード番号まで決まっていたのに発売されなかった幻の傑作である。

 このように、坂本龍一は20世紀の音楽図鑑を体現している。彼の認知行動はすべてに音楽である。坂本龍一のいるところすべてがONGAKUになる。21世紀に入っても、知・情・意・政を統合する大きな流れは生まれていない。20世紀の終わりが頻繁に提唱されても、それに代わる新たな問題系が登場せず、結局、「終わらない20世紀」である。その意味で、今日の音楽が前世紀のそれを克服してはいない。依然としてその延長線上にある。この図鑑をこれからどう生かしていくのかが「芸術は長く人生は短し」というものである。
〈了〉
参照文献
岡田暁生、『西洋音楽史』、放送大学教育振興会、2013年
坂本龍一他、『未来派2009』、本本堂、1986年
坂本龍一他、『EV.Cafe 超進化論』、講談社文庫、1989年
渡辺保他、『新訂 表象文化研究―芸術表象の文化学』、放送大学教育振興会、2006年
大貫妙子【Taeko Onuki official】@OnukiTaeko、2023年4月3日投稿
https://twitter.com/OnukiTaeko/status/1642763812758773760?s=20

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