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福田恆存、あるいは臨界感覚(3)(2005)

五 臨界的批評
 柄谷行人は、一九九四年に福田恆存が亡くなった際、『平衡感覚――福田恆存を悼んで』において、一九一二年東京生まれの批評家の意義を次のように要約しております。

 平野謙がどこかで、小林秀雄が「文學界」を始めたとき人民戦線を考えていたのでないかと述べていた。人民戦線と呼ぶべきかどうかは別として、小林秀雄が左翼崩壊後に左翼擁護の立場にまわったことは確実である。そのことは彼が「文學界」同人に中野重治や林達夫を強く誘ったことからも、また彼の「私小説論」や「芸術と実生活」といった評論からも明らかである。また、「戸坂潤氏へ」というエッセイには、そのことが端的に書かれている。彼は戸坂潤らが作った「唯物論研究会」に入っていたのである。小林を「伝統主義者、復古主義者、日本主義者」と断罪する戸坂の批評に対して、彼はこう述べる。《屁理屈は抜きにして、それより僕は唯物論研究会のメンバーであるから、さつさと除名したがよかろう》。

 僕は自ら進んで唯物論研究会に入会したのではない、再三勧誘を受けて加入を承諾したのである。その時僕の名前でも利用の価値があるならどういふ風にでも利用して欲しいと岡邦雄氏に明言した。それを、小林秀雄が現代文化を毒する危険人物である位の事はとうの昔から承知してゐたなぞといふような事をいはれては馬鹿々々しくつて腹も立たぬ。(「報知新聞」一九三七年一月二八日・『小林秀雄全集』第四巻所収)

 戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、小林が彼に好意的だったからである。孤立した者が最も理解してくれる者に八つ当たりするという感じがある。小林は「腹も立たぬ」と言うが、こうしたことが続くたびに熱意を失ったことは疑いがない。以後、小林が「無常といふ事」のような地点に向かうのは、たんに情勢のせいではない。私は、戸坂潤は優秀な哲学者だったが、同時に愚かな実践家だったと思わざるをえない。ところが、こうした事柄はほとんど忘れられている。左翼は小林を否定するし、保守派は小林がそのようにふるまったことを見たくもないからである。
 今更に思うのは、小林秀雄がもっていた「平衡感覚」である。むろん、それはいわゆるバランス感覚というようなものではない。「僕の名前でも利用の価値があるならどういふ風にでも利用して欲しい」と言うのは、この時点では相当な覚悟を要したはずなのだ。私がここで「平衡感覚」という言葉を使いたくなったのは、福田恆存の『平衡感覚』(一九四七年刊)という本を読んだためである。
 たとえば、「批評精神」と題するエッセイで、福田はクリティカルという語には、批評的=批判的というほかに、臨界的という意味があることを強調する。たとえば、臨界角度とは、それ以上傾斜すれば物がすべり落ちてしまうような角度のことである。そして、彼はこう言っている。

 批評精神とは――もつともすぐれた批評精神とは――おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神のことであること、いふまでもない。それは公約数的な臨界角度を持たずに、水平面との一度、一分、一秒の斜角をも鋭敏にかぎつける精神でなければならぬ。のみならず、それは文字どほり平地に波乱をさへおこしかねない。もちろん、かれもまた安定と平穏とを愛するであらう。いや、なんぴとにもましてもつとも安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒否するのだ。(一九四九年・『福田恆存全集』第二巻所収)

 「平衡感覚」とは、平衡を保とうとすることであるよりも先ず、平衡が壊れる危機的=臨界点を察知する感覚のことである。しかし、このような言い方だけでは、福田恆存の臨界的=批評性がどのようなものかはわからない。実際、戦後の福田に批評が「平地に波乱をおこす」ものであったことは確かであるが、それすらも福田恆存の「平衡感覚」の本領を示すものではない。

  私は今年の一〇月に久野収にインタビューしたとき、戦争期の福田恆存について尋ねた(第二期『批評空間』四号参照)。それは、数学者の森毅が戦争中の福田恆存はすばらしかったという回想をどこかで書いていたことがずっと気になっていたからだ。久野収によれば、福田恆存は自由主義者というよりも、むしろニュー・ディール系左派であったようである。戦後の福田はそのことを一切語らなかった。『全集』の「覚書」でも、それに触れていない。ただ、平野謙に情報局の後任として勧められたとき断わったことや、戦後に彼の最初の本『作家の態度』が林達夫の称揚によって出版されたことが書かれているのを見れば、戦争中の福田恆存の姿勢をある程度推測することができる。
 戦後に戦争責任を追及する左翼に対して、彼はつぎのように書いている。

 戦争中、時流に乗じて国民を戦争にかりたてた作家たちのゐたことは事実であり、かれらに対してぼくたちは憎悪と軽蔑をもつて酬いた。が、すくなくともぼくに関するかぎり、この憎悪と軽蔑とをたゞちに戦争責任といふやうなことばにすりかへようとはおもはぬ。その狂態がいかに常規を逸してゐようとも、またじゞつ、敗戦の責任を負ふべきものであつたにせよ、ぼくがかれらを軽蔑するのは、かれらが戦争、ないしは敗戦に責任があつたからではなく、文学者として無資格だつたからにほかならない。
 こゝに節操といふことが問題になる。もし今度の戦争において節操といはれるものが存在しえたとするならば、それはいつたいどのやうな面に見られるのであらうか――ぼくはそこのところをあへて問ひたゞしたいのである。文学者の戦争責任を糾弾するものが多かれ少なかれこの節操を保持してきたひとたちであり、その実績を背景としてものをいつてゐる。が、ぼくはそれら一切を信じない。かれらの表明する節操にうしろぐらいものがあるといふのではない。すでにいつたやうに、ぼくはうしろぐらさを余儀なかつたものとして認めてゐる。たゞ不愉快なのはかれらの論理である。かれらも自分たちの卑劣と無力をみとめ、それを厳しい自己批判の方向に好転せしめ、さうすることによつて民主主義革命に参与する資格をかちえるものとしてゐる。かれらといはゆる戦犯作家との差異はその自己批判の有無によつて決せられるといふのであらうか。ぼくはさうした論理に、なによりも反撥を感じる。(「文学と戦争責任」)

 いうまでもなく、福田恆存は自らの抵抗や節操について語りえたはずである。だが、そうはしなかった。というよりもむしろ、彼のなかに「うしろぐらさ」がなかったがゆえに、他人を攻撃することができなかったというべきであろう。逆に、彼は根っからの保守反動という非難を浴び、しかもそれに対して一切弁明しなかったのである。しかし、この福田恆存のエッセイによって、自己弁護する保守派がいたとしたら、それほど滑稽なこともない。
 戦後左翼(戦後急に左翼になった者)や戦後民主主義者(戦後急に民主主義者になった者)の出現において、福田は別の臨界=危機点を見いだした。それは戦争中に支配的であったものと本質的にちがわない。事実、「自己批判」しただけで、根は同じ人たちなのである。しかし、福田恆存はべつに「反共」として語ったのではない。
たとえば、今読んでみると、どきっとするような表現がある。

 ぼくはコムミュニズムを信ずるが、その文化活動を信じない。といふよりは、その文化主義的傾向を断ちきったコムミュニズムしか信じられないのである。日本共産党は民主主義文学理論家と手を切るにしくはない。さういつたからとて、プロレタリア革命の陣営を画策するなどと、まさか被害妄想もそこまでひどくはなからう。(「白く塗りたる墓」一九四八年・『全集』第二巻所収))

 一九六〇年代に共産党が文学者の多くを除名したとき、福田恆存は「日本共産党礼讃」という論文を書いた。その時、私はこのレトリックにあまり冴えがないと感じた覚えがある。というのも、党の最高指導者が文芸批評家だったからだ。しかし、今思えば、彼はそれより二〇年前から同じことを言っていたわけである。
 私が福田恆存を最初に読んだのは一九六〇年の秋であったが、自分と政治的立場が違うにもかかわらず、何の違和感も覚えなかった。たとえば、私はひとが福田の「平和論への疑問」になぜ反撥しているのかわからなかった。それは平和運動に対する反対論ではないし、福田の言うことに完全に同意しながらでも平和運動は可能なのである。福田恆存が死んで悼むのはたぶん保守派ばかりであろう。しかし、彼がもっていたような臨界的=批評的精神はそこにはないということができる。

 この柄谷行人の批評は、保守派と違い、最も示唆に富む福田恆存論の一つであります。彼は、戦争中、石橋湛山や坂口安吾といった作家同様に、「すばらしかった」のであります。けれども、「ニュー・ディール系左派」だった過去に基づいて、文学者の「戦争責任」を追及することを彼は決してしません。そこには「演戯」がないからです。劇化しなければ、「自我」もありません。「自我」は「演戯」によって事後的に見出されるものです。と言うよりも、いかなる「演戯」をするか自身が「自我」なのであります。が、福田恆存は自己劇化する「うしろぐらさ」を持っておりません。彼はそれを求めて保守化していったと言えますまいか。軍国主義者だった経歴を清算し、劇的に、民主主義者に生まれ変わる必要など彼にはありません。自尊心を回復するために自己劇化しているわけではないのです。自己劇化は精神の「危機」に対処するときに行われるのであります。

 坂口安吾は、小林秀雄との対談『伝統と反逆』において、戦後になって知った福田恆存を次のように評価しております。

安吾 福田恆存に会った? 小林秀雄の跡取りは福田恆存という奴だ。これは偉いよ。
小林 福田恆存という人は一ぺん何かの用で家へ來たことがある。あんたという人は実に邪魔になる人だと言っていた。
安吾 あいつは立派だな。小林秀雄から脱出するのを、もっぱら心掛けたようだ。
小林 福田という人は痩せた、鳥みたいな人でね。いい人相をしている。良心を持った鳥のような感じだ。
安吾 あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は。

 安吾は、花田清輝同様、福田恆存も高く認めています。彼は、『花田清輝論』の中で、福田恆存が自分を「無茶苦茶にヤッツケている文章」を読んだ際に、「生き方に筋が通っているのだから」、「腹が立たなかった」と言い、「傑れた評論家」と呼んでおります。安吾はまるで五〇年代を予言していたようであります。


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