見出し画像

「汚れた手」としての政治(3)(2022)

第3章 エドレルとユゴー
 この戯曲のタイトル『汚れた手』は、ユゴーとの対話におけるエドレルの次のようなセリフに由来している。

「しかし、なんてまあきみは、そうも純粋さに固執するんだ。
なんだってそう手を汚すことを怖れるんだ。
そんなら純粋でいるがいい。
だがそれがなんの役に立つ?
それなら、きみはなぜわれわれのところにきたんだ?
純粋さとは、行者や修道士の思想だ。
きみたちインテリ、ブルジョワのアナーキストは
純粋さを口実にしてなにもしないのだ。
なにもしない、身動きせず、からだに肘をつけ、手袋をはめている。
わしは、このわしは汚れた手をしている。
肘は汚れている。わしは両手を糞や血の中につっこんだ。
それがどうした? 
きみは精錬潔白に政治をすることができるとでも考えているのか?」

 エドレルは、戦時中、ナチス・ドイツと協力したイリリヤ政府に対して同志とレジスタンス活動を行なっている。その彼が戦後にかつての敵と手を組んで連立政権を樹立しようとしている。それは同志や支持者への裏切りだ。彼の党に忠誠を誓うユゴーにはエドレルの行動が許せない。

 エドレルは、諸勢力が入り乱れる今の状況で、自分達の党への世論の支持は十分ではなく、単独政権は難しい。しかも、インフレが急進、財政は極めて厳しい。誰が統治をしても、不人気政策を実施せざるを得ず、世論の反発は必至だ。それならば、主要ポストをかつての敵に譲る形で連立政権を樹立した方がよい。どうせ経済政策で行き詰まり、右派への世論の支持はなくなり、彼らに代わって、自分たちが権力を掌握する機会が訪れる。

 このまま政治混乱が続けば、ソ連がイリリヤへ軍事侵攻を始めるだろう。そうなれば、圧倒的な軍事力の前に、大勢の死傷者を出し、国土は荒廃した上で、惨敗するに違いない。できればソ連が進駐してきたとしても、穏やかにやり過ごしたい。とにかく何としても戦争は避けなければならない。そのためなら、いかなる妥協や取引も厭わない。日和見主義者や裏切り者と罵られようが、手を汚そうが一向にかまわないとエドレルは度胸が据わっている。

 しかし、ユゴーは同志を殺してきた敵と手を組むことに納得がいかない。亡くなった彼らに顔向けできない。しかし、エドレルは死んだ者のことより生きている者のことを優先すると答え、将来のことも考えなければならないとも付け加える。さらに、彼は、『君主論』のニコロ・マキャベリのごとく、それをあれこれ非難する者たちは騙せばよいとユゴーにうそぶく。「殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ、生命というものがどんなものか、ぜんぜん頭にないので、人殺しを重要なことと思わないのだ」。

 エドレルは「嘘とはわしがつくったものではなく、階級にわかれた社会に生まれたものだ。だからわれわれは生まれながら嘘を相続している」と言う。戦争を回避し人の命を救うためなら、嘘をつくことくらいなんでもない。そもそも階級対立があるから嘘をつかねばならないのであって、理想社会が実現していれば、そんな必要はない。

 エドレルは必要があれば嘘をつくと言い放つが、誰も軽蔑しない。それこそ愚民も愛している。彼は、それにより、卓越主義を批判している。戦争回避という目的のためなら嘘をつくという悪徳もかまわないと考えている。ところが、ユゴーはそれが非倫理的だと批判する。目的と手段はどちらも正しくなければならない。けれども、エドレルの判断は利己的ではなく、公益のための利他的なものである。大勢の人が死に、国土が破壊されることをなんとしても避けたい。動機を重視しているという意味で、カント主義的人道主義者でもある。

 エドレルが「汚れた手」を厭わないのは人民を愛しているからである。彼は人民をあるがまま受け入れる。理想かもしなければ、見下してもいない。そんな人民が日々暮らしているのが祖国だ。エドレルは、ユゴーに「きみは人間を愛していない。ユゴーきみは原則しか愛していない」と指摘する。その上で、「人間を愛さなければ人間のために闘うことはできないではないか?」と諭す。しかし、ユゴーはエドレルに「人間を?人間をなぜ僕が愛するのです?人間は僕を愛しているのですか?」と反論する。エドレルは人間を無条件に愛している。他方、ユゴーは自分を愛してくれない人間にそうすることなどできない。実際、ユゴーは、他の場面で、人間への軽蔑を口にしている。「人間ってやつは、食べているときは無害な様子をしているからな」。「でもやつらには勇気がある。だから、徹底的に軽蔑してやるわけにはいかないんだ」。こう人間について認知しているのだから、ユゴーはそれよりも理想に固執し、エドレルの妥協的姿勢を許せない。。

 エドレルの政治家としての姿はアウグスティヌスの政治論の実践でもある。アリストテレスを代表に従来の政治はポリスを始め共同体に内属する規範を前提に理論・実践が試みられている。けれども、キリスト教の教えは共同体を超えている。従前の倫理が卓越性を求めたのに対し、キリスト教は超越性の視点をもたらし、それを相対化する。キリスト教徒は神の前で平等である。市民や奴隷、外国人、女性などの分け隔てはない。と同時に、人間は欲望に囚われ、原罪を犯している。

 「原罪(peccatum originale )」は人間が堕落しているとするキリスト教の教義である。人間は初めから堕落した罪深き存在であり、キリストの十字架による死とその復活を通じて償い、回復されなければならない。 アウグスティヌスは、ペラギウス派との論争の中でこの原罪の理論を確立する。ローマの修道士ペラギウスに由来し、弟子のケレスティウスが展開したペラギウス主義は、人間が善なるものとして創造されたとし、功徳を積むことで救われると説く。ペラギウス派は、罪を犯さない人間にとってキリストの救済は不要で、堕罪後でも自然本性によって義に達し得ると主張している。それに対して、アウグスティヌスは、『自然と恩恵』において、こう反論する。「人間の自然本性は確かに最初は罪も汚れもなく創られたのである。……しかし、この自然の善き能力を暗くし弱めている罪悪は、そのため照明と治癒とが必要なのであるが―罪のない製作者に由来しているのではなく、自由な意志決定によって犯した原罪から生じている」。こうした論争の後、431年、ペラギウス主義はエフェソス公会議において異端とされている。

 すべての人間に原罪があるのだから、有徳者が統治すれば理想の政治が実現することにはならない。その人間には従来の政治が目指す卓越性の行動などあり得ない。政治はこの罪深い人間の間になんとか秩序を立てる行為である。キリスト教における理想は「神の国」だが、それは人間には不可能だ。人間の政治にできることはその二次的なものである。「神の国」の理想を参照しつつ、セカンドべストとして「地上の国」を実現することが政治というものだ。アウグスティヌスは『神の国』においてそう説く。

 エドレルにとって理想は共産主義社会である。しかし、それに問うた綴ることは現時点で不可能だ。その理想を眺めつつ、愛すべき不完全な人民と共に、セカンド・べストの政治をやるほかない。

 エドレルとゆふぉーの対話が示すように、政治的判断には理想と現実のジレンマがしばしば伴う。しかし、それは理想か現実かの二者択一ではない。フリードリヒ・ニーチェは、『反時代的考察』において、「ルソーの人間」・「ゲーテの人間」・「ショーペンハウアーの人間」という比喩を用いて、理想と現実の弁証法を提示している。

 まず、「ルソーの人間」は、「最大の火」を持ち、「最も通俗的な影響を及ぼす」。彼は「自然だけが善だ、自然人だけが人間だ」と叫ぶ。だが、そうしたことはただたんに現にある自分自身を否定しているだけである。「ルソーの人間」は熱狂的な革命への行動的な希求を持つと同時に、強い現実否認と本来性への憧憬をも持っている。それは青年期的な急進的で素朴なロマン主義的精神と言ってもいいだろう。

 次に、「ゲーテの人間」は、「ルソーの人間」が浸った熱狂的な状態への「鎮静剤」である。それは『ファウスト』において象徴的に描かれている。ファウストは、一見したところでは、ルソー的なロマン主義的精神を体現しているようである。しかし、実は、決定的な行動を避けており、「ルソーの人間」と異なっている。「ゲーテの人間」は「諦念」に基づいた「高次の様式における静観的人間」で、「保守的調和的な力」を持っている。と同時に彼にはたんなる俗物に成り下がってしまう危険性がある。それは「ルソーの人間」によって体現されるロマン主義的精神が世俗的な現実社会によって挫折し、その通俗的内面化による調停した結果の姿だ。

 最後に、「ショーペンハウアーの人間」は、「ゲーテの人間」に欠けているメフィストフェレース的な「悪」を保持している。そのため、「ショーペンハウアー的人間像がわれわれを鼓舞してくれる」。「ショーペンハウアーの人間」は「ゲーテの人間」の「単に観想すること」に、さらに、人間の自己自身に対する「誠実」の能力を加えて持っている。「自己自身を認識された真理にいつでもその第一の犠牲として捧げ、どういう苦悩が自己の誠実から湧き出て来ざるをえないか」を見据え、それに従うことに生きる本質的な意味を認める人間が「ショーペンハウアーの人間」である。しかし、人間の諸矛盾を顕在化させてしまうために、悪意ある皮肉屋として疎んじられてしまうことも少なくない。だが、彼の態度はたんなる弱者の悪意ではない。「ショーペンハウアーの人間」の持つ「否定や破壊」、さらにそこから派生してくる「苦悩」を自らわが身にひきうけることを忘れない。それにより、「ショーペンハウアーの人間」は、言葉や思想をたんなる観想や調和の視座に貶めることなく、真に現実的かつ活動的なものにする。

 「ショーペンハウアーの人間」への移行はたんに「ルソーの人間」が表わしているロマン主義への回帰ではなく、「ゲーテの人間」がもたらす鎮静化という通俗化に陥ることなく、その先にある精神の成熟する可能性の希求である。「ショーペンハウアーの人間」は「ルソーの人間」が抱く理想と憧れをそれが現実の中で容易には生き延びられないことを十分踏まえた上で、にもかかわらず、生の目標を「個々の生存をいかに肯定するか」に定めることによって、生き延びさせる可能性を求めている。

 この比喩を援用するなら、ユゴーは「ルソーの人間」である。その彼にエドレルは「ゲーテの人間」に映っている。現実に屈服し、理想を捨てた俗物であり、死に値する裏切り者だ。けれども、実際には、エドレルは「ショーペンハウアーの人間」である。複雑で緊急を要する現実の中でいかに理想を生き延びさせるかに取り組んでいる。ユゴーとエドレルの対話は「ルソーの人間」と「ショーペンハウアーの人間」の議論である。

 有能な政治家にはしばしばこうした捉えどころの難しさがある。金権政治と揶揄され、高潔さを求める国民から軽蔑されながらも、高度な調整力や大胆な実行力、弱者への包容力を持った政治指導者が戦後日本にも登場している。残念ながら、そんな政治家は、死後に評価されることが少なくない。それに気づいた時、非難していた国民さえも喪失を惜しむ。エドレルにはそんな「ショーペンハウアーの人間」としての政治家の姿と重なって見える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?