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中村光夫、あるいはわが青春に悔なし(6)(2005)

8 教育勅語と植民地の日本語教育
 この矛盾は校舎に顕著に見られます。意欲的な意図に基づくケースを除けば、通常の校舎には教室に対して北側に廊下があります。文部省は、当初、校舎を洋館風、すなわち廊下を挟んで左右に部屋がある建築にすることにし、長野県松本市の旧開智学校などがその様式で建築されています。ところが、これは、風通しが悪く、日本の蒸し暑い気候には不向きだったため、初等・中等教育の校舎には次第に採用されなくなります。ただし、伝統的な日本家屋では、縁側と呼ばれる廊下は部屋に対して南側にあります。実は、教室に自然光を取り入れ、さらに冬季の人工暖房の補助として太陽光を使う理由から、教室を南側にするように文部省が1901年に通達を出しているのです。それ以前、四国や九州では、台風の進路にあたり、教室を強い風雨から守るため、廊下を南側に造られています。しかも、秋口の照りつける太陽光が午後の授業の邪魔になることも配慮していたのですけれども、そういった地域的な諸事情は東京を基準にした文部省に無視されます。かくして、暗い北側の廊下は、怒り狂った教師から生徒へ与えられる罰の場と化すのです。

 近代化に対する倒錯の最悪例が教育勅語でしょう。1879年頃、近代化を推進する旧下級武士と天皇についてきた宮中派が、教育問題をめぐって、軋轢が顕在化し、互いに発言力を確保しようと激しいイデオロギー闘争をしています。その典型が1890年に下賜された「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語です。政府内のさまざまな権力抗争の後、次第に、保守派が覇権を掌握し、自由民権運動を代表にする民権派は急激な欧化政策によって、文化的混乱をもたらしていると宮中派と共に考えるようになっていきます。民衆に対する不信感がその動機です。

 しかも、教育勅語が明治維新のイデオロギー、それも立憲制の原則に完全に反していることを起草者である法制局長官の井上毅も承知しています。もともと欧化派に属していた井上も首相の山県有朋に説得され、自ら執筆を申し出ているのです。『官報』に教育勅語が掲載されましたが、その際、文部省訓令第八号の付帯資料として2ページ下段から3ページ上段にかけて収められています。重要法案は『官報』の巻頭に載せるべきなのに、「政治上の詔勅ではなく君主の社会的著作として性格を与えたため、当然の措置であった」(佐藤秀夫『教育の歴史』)。

 近代の最も基本的な原理は政教分離で、それは価値観の選択を個人に委ねることを意味します。ところが、君主が臣民に守るべき道徳を説くとすれば、これに完全に反します。教育勅語は近代の否定であり、以降、日本が近代云々を口にする資格などありません。近代が何たるかを理解していないのですから、中村光夫が日本における近代論議を糾弾するのも当然です。

 教育勅語は次のような「著作」です。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ尊ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 教育勅語はこのように定義を欠く曖昧な儒教道徳と通俗道徳、皇国史観が混在しているだけでなく、三ヵ月程度で仕上げたやっつけ仕事だったため、文法上のミスまであります。「一旦緩急アレハ」と記述されていますが、この場合、已然形ではなく、「一旦緩急アラハ」と未然形でなければなりません。「総じて、日本社会の教育理念の根源を『良心』とか『神』とかに求めるのではなく、歴史的存在であると同時に現在の支配構造の要となっている天皇制に求めているところに、この勅語の基本的特徴があったといえる」(『教育の歴史』)。教育勅語は現体制の正当化を理論的な根拠に基づいて訴えるのではなく、まがまがしい神話的な言説を無根拠に並べ立てています。近代的な法治国家建設を目指した明治維新に反した徳治主義的な教育勅語が道徳の基礎付けを行ってしまうのです。

 中村光夫が問題にするのはこうした近代の変質です。彼は近代をめぐる日本の現状に即した改変という言い訳を素朴に受け取りません。西欧的な制度を文化から見ていなかった多くの知識階級には、その意義が真に理解されていないために、恣意的な変更をしている可能性があるからです。中村光夫は、先に触れた通り、最も私小説を批判した批評家ですが、私小説も日本の現状から必然的に誕生したと納得しません。近代リアリズム小説が私小説に変容したのも、文化理解の欠落という同様の理由からです。

 やはり文学における私小説の覇権獲得も、文学的な論争の勝利ではなく、政治的意図に基づいています。日本の帝国主義政策の特徴は支配地域で必ず日本語教育を強制した点です。台湾や朝鮮半島など文化的に負っている中華文化圏を支配することになったものの、近代化はあくまで西洋から導入したものでしかないため、日本の独自性を被支配者に対して示す必要があります。近代以前の日本は、ずっとではありませんけれども、中国皇帝に朝貢貿易を行っています。ただし、海によって守られたせいか、必ずしも柵封国ではありません。

 そこで、植民地支配に関係する教育者の間から、日本語を通せば、いかなるものも日本化するというイデオロギーが考案され、実行に移されます。方言も日本語の一種であり、現場から排除しない方がいいと本土の教育者から提案されましたが、明確な基準がないと植民地では混乱するという理由で却下されています。近代日本における最大のイデオロギーは天皇制ではなく、日本語です。私小説の主流化はこれと無縁ではありません。

9 政治と文学者
 1907年6月、内閣総理大臣西園寺公望は、読売新聞社の竹腰三叉に相談した上で、自宅に文学者20人を招待します。首相が文学者を招いた史上初の出来事である「雨声会」と呼ばれるこの会合は、以降、主客を交代して数回開かれています。

 出席者は徳田秋声、巌谷小波、内田魯庵、幸田露伴、横井時雄、泉鏡花、国木田独歩、森鴎外、小杉天外、小栗風葉、広津柳浪、後藤宙外、塚原渋柿園、柳川春葉、大町桂月、田山花袋、島崎藤村です。人選に携わった近松秋江は、俗物らしく、「卑しい文士風情が雨声会一夕の宴席に招待されることを無上の栄誉と感佩するのも無理はなかろう」と述懐しています。彼らは近代文学の”青春期”に対する倒錯した意識を持っています。

 夏目漱石や二葉亭四迷、坪内逍遥は出席を断っています。漱石は、痛快にも、「ほととぎす厠なかばに出かねたり」と一句添えて返答しています。さらに、1909年、小松原英太郎文部大臣は文学者を首相官邸に招きます。彼は国家による文学アカデミーである「文学院」を構想し、文学者を権力側に囲い込もうと考えていましたが、この企ては実現しません。言語の芸術である文学は、他の芸術以上に、帝国主義政策を推進する為政者は何としても利用しなければならないと考えているのです。

 出席者の多くは自然主義文学に属する文学者です。現在のタブロイド紙に相当する小新聞の『読売新聞』は、『早稲田文学』や『文章世界』と並んで、自然主義文学運動を推しています。出席を断った夏目漱石や二葉亭四迷は、同じく小新聞の朝日新聞社に所属しています。ただ、坪内逍遥は、幸田露伴同様、読売新聞社社員です。文学博士号を授与するという文部省の申し出を拒否した漱石に対し、1907年(明治40年)12月17日付『読売新聞』は、権威主義的にも、「変人」と評しています。

 今時の作家が無批判的にほいほい喜んで受け取る文学賞や文化勲章など漱石にすれば愚の骨頂でしょう。自然主義文学は党派性を生み、反自然主義文学との間で主導権争いを始めます。この文学闘争はメディアの代理戦争です。新聞業界は二つの戦争報道によって部数を伸ばし、特に、日露戦争が読者市場を大幅に拡大したため、各新聞・雑誌は市場の占有を奪い合っています。文学は新聞の婢というわけです。

 近代日本では、欧米とまったく違い、啓蒙を兼ねつつ、発行部数拡大の目的に基づき、新聞社が文化事業──美術の展覧会やクラッシク・コンサートからスポーツ・イベント、囲碁将棋のタイトル戦に至るまでを──を今でも主催・協賛しています。これは、現在では、文化のマネジメントの自立における最大の弊害の一つです。

 1897年、尾崎紅葉が『金色夜叉』を『読売新聞』に断続的に連載を始めると、小僧や女中まで新聞の発売を心待ちにするようになります。さらに、1907年に、漱石が『虞美人草』を『朝日新聞』に連載すると、大変な話題になっています。日本近代文学は、脱亜入欧の意識に沸く「国民」の中、帝国主義の正当化のために、標準語を目指す極端な国語教育政策を推進する政治家・官僚・軍部・メディアによって成立し、発展してきたのであり、文学者は、メディアの一員として、帝国主義に荷担しているのです。

 自然主義文学の勝利は体制による認知によって決着します。自然主義文学は官製文学となり、国民文学の地位を手にします。タブロイド紙のゴシップ記事程度の風俗小説である私小説が文学的な評価基準にまで高められます。なるほどギュスターヴ・フローベールは新聞の三面記事をモチーフに『ボヴァリー夫人』を書き、近代リアリズムを編み出しましたが、スキャンダル記事はあくまで口実にすぎません。

 自然主義文学は、その露悪主義的傾向から、当時社会面を最も騒がせた事件の一つに由来する「出歯亀文学」と揶揄されているほどです。芸術的価値があるどころか、風俗的な小説と見られています。1908年、東京の大久保で、女湯を覗いた上、入浴帰りの女性に対する強姦致死事件があり、かなり強引な捜査・取調の結果、その容疑者として「出ッ歯の亀太郎」こと植木職人の池田亀太郎が逮捕・起訴されています。小新聞はこの事件に関して連日詳細に報道しています。自白以外の証拠もなく、本人は冤罪を主張し続けていましたが、翌年には無期徒刑の判決が確定しています。オジー・オズボーンが自分の家庭生活を”MTV The Osbournes”として二四時間生中継をしている現代でも、その番組に芸術的価値を見出す人はいません。自然主義文学を通じて形成される日本近代文学史は非主流派を反自然主義文学という範疇に入れてしまうのです。

 私小説がヨーロッパ文学と違うのは当然としても、私小説を書いて、それをヨーロッパ文学と同じだと吹聴していることに中村光夫は憤っています。その無知さを省みることなく、文学者たちは日本の帝国主義に「知的協力」し続けています。「中村氏の著書は、われわれ読者に、自分らを凡人と思いこませずにはいられないような性質を持っている」(寺田透『中村光夫論』)。

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