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職業的認知と社会性(2012)

職業的認知と社会性
Saven Satow
Mar. 05, 2012

「薬草売りは、詩人、散策者、農夫とは違う目で薬草を見る」。
ジョゼフ・グランヴィル『独善の虚栄』

 『gooランキング』でコラム「つい出てしまう…これぞ悲しき職業病」が2012年3月5日に投稿されている。多くの人から寄せられたついつい職業経験から出てしまう「クセ」が紹介されていて、興味深い。少々長いが、全文を引用しよう。

帰ろうとするお客様にむかって「ありがとうございました!」と元気よく挨拶をして気がついた、自分もお客だってことに……。
建造物の内部構造が気になって無意識にトントンと叩く建築関係者、家計簿が1円でも合わないと原因究明に奔走する元銀行員……職業柄、必要不可欠な行動がすっかり身につき、日常生活のふとした瞬間にぽろりとクセが出てしまうことも多々あるのではないでしょうか。ふとした瞬間に出てしまう職業病エピソードについて探ってみました。

●あぁ恥ずかしい…つい出てしまったクセで笑われました
発言小町「ついつい出ちゃった!職業病~!」では「休日なのに無意識に職業のクセが出る事ってありませんか?」というねんねこさんの呼びかけに、様々なエピソードが寄せられていました。
「肌質をついつい見てしまう人のメイクを見て、もっとこういうメイクをすれば可愛いのにと観察してしまいます」 (元美容部員のカナッペさん)
コンビニでのアルバイト経験があるというあっこさんは、「バスに乗ってて停留所で扉が開くと『いらっしゃいませ~』と言ってしまうことがよくありました」など、サービス業経験者からは同様のコメントが多数寄せられていました。一度身についた作法は、なかなか忘れられないもののようです。
結婚式場でのあるバイト経験があるみのさんは従業員の動きを見ているだけで、新郎新婦の入場やキャンドルサービスがはじまるなど、次に何が起こるかがわかるのだそうです。「しまいには『あー進行遅れているんだな』とか『この後披露宴入っているんじゃ準備おすなあ』とかいらんことまで気づきます。たぶんこれは治りませんね」と披露宴に出席していても従業員の動きにばかり目がいってしまうのだとか。

●救急車のサイレンに即反応!病院関係者
「救急車の音に過剰に反応する、自宅の電話に「○病棟です」と出た事がある、人の腕を見ると血管を探してしまう」(ナースさん)
「話の内容や歩き方、話し方を見て病名を考えたり、対処法を言いそうになる。(言ったことはありませんが…)、救急車の音に反応する」(ぷうさん)
ことりさんからは、自分が患者で治療をうけていた時のエピソードがよせられていました。「カーテン向こうから『看護師さーん』と呼ぶ声がして思わず起き上がりカーテンを開けて『どうされました?』と聞いたことがあります。自分も点滴中で私服で、顔色も悪くどう見ても患者なのに…呼んでた人はキョトンとしてました」と、緊急を要することも多い病院ならではですね。
一方、会社の受付から病院へ転職したみなみさんは「人を見ればお上品度最高調で『いらっしゃいませ』と言っていた前職から病院への転職の際に…何度か無意識に『いらっしゃ…こんにちは』とやってしまいました。最後まで言いきった時は思いっきり寒い風が吹き向けました反省…」とついうっかり出てしまった職業病も、場所によっては大きく仇となるようです。

●「さようでございます」が出てしまう…テレフォンオペレーター
丁寧な対応が求められるテレフォンオペレーター。普段から厳しく言葉遣いを指導されているためか、プライベートといえども電話をとれば瞬時にオペレーターに変身してしまうようです。
「1日に何百回も、『お電話有難うございます。○○会社○○センター 担当の○○と申します。』を繰り返していたので、家でも『お電話ありがとうございます。』と言ったことあります。(ママ2)
「お客様への相槌は 『かしこまりました』『さようでございますね』『申し訳ございません』『ごもっともでございます』とたたきこまれたので ついつい友達の会話の途中でも 『さようでございますね』と答えてしまい 恥ずかしい思いをします」というココさん。丁寧な相槌はすっかり口癖になり、自分の子どもからも「ふつーにしゃべってよ」と指摘されることもあるのだとか。「別にセレブでもなんでもない家庭なのですがどこの奥様かしらと思われてしまいます」日常会話ではほとんどつかわれることのない言葉のせいか、周囲には上品な印象を与えていたそうです。

体得したものはなかなか忘れられないもの。自分でも気がつかないうちにクセになっている習慣もまだまだありそうですね。みなさんがやってしまった職業柄クセになってしまっていることはどんなことですか?(幸)

 研修を受け、現場で経験を積むと、その職業特有の「クセ」がいつの間にか身につく。なかなか抜けず、ひょんなときに、ついついそれが出てしまう。チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』を思い起こすエピソードばかりだ。

 このコラムを含めてインターネット上では、こうした「クセ」を「職業病」と言い表している。しかし、これでは職業によって引き起こされる心身の疾患と混同しかねない。そこで、ここではその職業に固有の認知傾向や身体知から「職業的認知」と呼ぶことにする。なお、この名称はあくまで便宜的なもので、一般的に流通しているわけではない。

 文学を始めとする表現の世界では、この職業的認知がしばしば無視される。その不備を指摘すると、フィクションだからとか、些末なことだとかと反論される。しかし、それはていのいい言い訳にすぎない。実在の事件や出来事、組織、人物をモデルにした表現作品でも職業的認知が考慮されていないものはざらである。もちろん、何もすべて取り入れる必要はない。個人差もある。けれども、エピソードとして紹介されているように、職業的認知はそれの持つ固有なコンテクストから派生している。成人すれば、社会とのかかわりが大きくなる。人には個人的特性のみならず、社会で経験してきた職業履歴から体得する特有の認知傾向がある。職業的認知を無視するのは現実に対する作家の自意識の優位性を示したいだけだろう。

 山崎豊子の『華麗なる一族』が最初にテレビ・ドラマ化される際、スポンサーに配慮しようとして設定を銀行以外に変更できないかと局が作者に打診している。山崎豊子は、銀行だからこそあり得る話で、他の業種では頓珍漢になると拒否している。作者は職業的認知の重要性を認識しているのに、局は無頓着だったというわけだ。

 こうした職業的認知に関する理解を持った表現者もいるが、自分の思いを先立たせてそれを無視するものも少なくない。村上春樹などはこの点で読むに耐えない。『ノルウェイの森』の冒頭に、客の許可も取らず、隣の座席に腰掛けるルフトハンザの客室乗務員を登場させている。ろくに調べもせず、思いつきと思いこみで恣意的に書いているとしか言いようがない。

 職業的認知を表現者は、むしろ、深く認識し、それを作品に取り入れるべきである。と言うのも、職業的認知は近代社会のありようと密接な関係があるからだ。

 職業的認知を作品に描き入れるには、作者に社会性が要求される。それができていないのは、表現者に社会性が乏しいことの裏返しである。社会性は、実は、近代の課題の一つである。前近代では、生活と労働の場が一体であるため、身分・職能で居住地も定められ、内部の認知はほぼ共有されている。こうしたコンテクストが一つの場合、社会性は経験を積めば習得できる。村には必ず長老がいて、困ったことがあると、人々は知恵を借りに行く。一方、近代において、多くの人々にとって生活と労働の場は分離している。コンテクストが複数ある場合、職場でいくら経験を積んでも、外の常識には疎い専門バカも生まれる。功成り名を遂げた人であるのに、唖然とするような暴言を吐くことが少なからず起きる理由も納得できるだろう。

 職業的認知を取り入れない表現者も一種の専門バカである。近代社会に生きていることが見えていないことを告げている。

 職業的認知がコラムでユーモラスなエピソードとして紹介されること自体、人々がお互いの職業の見方についてよく知らないことの証でもある。職業的認知は分断された近代社会の産物だ。社会性は前近代では体得されてきたが、近代において意識的に学習しなければならないものになっている。社会性は相手のコンテクストを理解して、コミュニケーションできることである。自分自身の職業的認知を自覚し、他の人のそれを知ることが現代の社会性の習得につながる。職業的認知はその職業特有のコンテクストの表象である。それを明示化することで、コンテクストの理解へと導かれる。表現の世界は多くの人々に現代の社会性を伝えることができる。職業的認知の作品への導入は表現世界の重要な課題の一つである。

 冒頭のコラムを読んで、ついついこんな批評を書いてしまう。これも批評家の職業的認知の一つである。
〈了〉
参照文献
佐高信、『経済小説の読み方』、現代教養文庫、1996年
村上春樹、『ノルウェイの森』上、講談社文庫、2004年
「[注目ワードコラム]つい出てしまう…これぞ悲しき職業病」、gooランキング、2012年3月5日
http://ranking.goo.ne.jp/column/article/chumoku/1581/


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