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新井政談(2)(2022)

2 白石の経済政策
 新井白石の経済政策には、通貨吹き替えと長崎貿易縮小の大きく二つがある。いずれも今日の評価は肯定的なものばかりではない。
 
 白石は『折りたく柴の記』において、金融政策が必要な理由について次の様に述べている。
 
 今、重秀が議り申す所は、「御料すべて四百万石、歳々に納めらるる所の金は凡七十六万両余、此内、長崎の運上というもの六万両、酒運上というもの六千両、これら近江守(荻原重秀)申し行ひし所也。此内、夏冬御給金の料三十万料余を除く外、余る所は四十六七万両余也。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此外に内裏を造りまいらせらるる所の料、凡金七八十万両を用ひらるべし。されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。たとひ大喪の御事なしといふとも、今より後、取用ひらるべき国財はあらず。いはんや、当時の急務御中陰の御法事料、御霊屋作らるべき料、将軍宣下の儀行はるべき料、本城に御わたましの料、此外、内裏造りまゐらせらるべき所の料なり。しかるに、只今、御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。此内、二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くべき役を諸国に課せて、凡そ百石の地より金弐両を徴れしところ凡そ四十万両の内、十六万両をもて其の用に充てられ、其の余分をば城北の御所造らるべき料に残し置かれし所なり。これより外に、国用に充らるるべからず」といふなり。前代の御時、歳ごとに其出るところの入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以てつねにその足らざる所を補ひしに、おなじき十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所々を修治せらるるに至て、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月、かさねて又銀貨を改造られしかど、なほ歳用にたらざれば、去年の春、対馬守重富がはからひにて、当十大銭を鋳出さるる事をも申行ひ給ひき 此大銭に事は近江守もよからぬ事の由申せし也。「今に至て此急を救はるべき事、金銭の製を改造せたるるの外、其他あるべからず』と申す。(略)当時国財の急なる事に至ても、近江守が申す所心得られず。其の故は彼の申す所による時は、今歳の国用に充つべきものわずかに三十七万は、即是去々年の税課なり。されば今年の国用となさるべき所は、たとひ彼の申す所のごとくなりとも、去年納められし所の金七十六万両と、今ある所の金三十万両とをあはせて、総計一百十余万両のあるべし。また当時の急に用ひらるべき物も、各色まづ其の 価を給らざれば、其の事弁ぜずといふにもあらず。其の事の緩急にしたがひ、一百十余万両の金をわかちて、或ひは其の全価をも給り、或ひは其の半価をも給りて、来年に及びて其の価をことごとく償はれんに、其の事弁じ得ずといふ事なかるべし。
 
 背景を説明しよう。第5代将軍徳川綱吉の治世である元禄年間(1688~1704年)には、新たな鉱山の発見はすでに難しく、金銀の産出量が低下する。また、慢性的な貿易赤字により金銀の海外流出も続く。さらに、将軍綱吉等の浪費による財政赤字も深刻化する。その一方で、経済成長に伴い貨幣需要が増大している。市中に十分なマネーが流通しないために経済が停滞する不況が見込まれる。
 
 そこで、勘定奉行荻原重秀は、元禄8年(1695年)、従来の純度の慶長金銀を回収して希少金属の含有率が低い元禄金銀を発行する。これは慶長年間(1596~1615年)の幕府通貨統一以降で初めての金銀貨の改鋳である。重秀は含有率87%の純分率をもつ慶長小判・一分判は57%、80%の慶長丁銀・小玉銀は64%にそれぞれ質を落としている。また、翌々年、同含有率の二朱金を新たに発行する。
 
 改鋳は幕府にその差益(出目)をもたらす。慶長小判の金品位86%を56%に落とし、慶長丁銀の銀品位80%を64%に落としたのだから、その出目は全体で500万両に及ぶ。また、額面は同じながら、純度を低く抑えているので、より多く鋳造できる。貨幣需要の増加に応え、経済成長を維持する。さらに、インフレは貨幣価値を下げるので、財政赤字の圧縮にもつながる。
 
 重秀は将軍が家宣に交代してからも、独断で、金融緩和政策を継続する。彼は元禄よりも含有率の低い宝永金銀を発行、幕府財政の欠損を補おうとする。しかし、貨幣供給量が増えるので、経済はインフレが進む。
 
 江戸時代の貨幣制度は、今日と比べて、複雑である。 大判・ 小判 の 金貨 と 丁銀 ・ 豆板銀 の 銀貨 、穴あき銭の 銭貨という金・銀・銭の三貨制度であり、それぞれに特徴がある。 金貨は 額面 のある計数貨幣で、 銀貨 は 重さを量って 使用 する 秤量 貨幣 である。ただし、後に 銀貨 にも計数貨幣が発行されている。 1837年から鋳造された一分銀がその一例である。これは銀の含有率が従来と比べて著しく低く、幕府が改鋳差益出目を狙った発行である。銭貨は1枚からだけでなく、商取引の際には差し銭の形で使われている。それは穴に銭差しと呼ばれるわらや紐を通してまとめたもので、百文差・三百文差・一貫文(千文)差などがある。
 
 「両」はもともと重さの単位で、1両は37.799gである。日本では金1両はその砂金の質量がそれということを示している。ただし、大陸から7世紀頃に伝わったものの、大両と小両の2系統が生じ、前者は約42g、後者は約14gである。701年の大宝律令では、金を小両、銀を大両で量るとされ、金1両はこの小両に相当する。その後、貨幣としての1両は金の質量から離れていく。変遷を経て、江戸時代を迎える頃には1両が金4匁、すなわち約15gが基準となっている。荻原重秀の改鋳は、額面が同じながら、貴金属の含有率を下げた貨幣を新たに発行したということである。
 
 江戸時代の貨幣単位は4進法が中心である。1両のクオーター、すなわち4分の1が1分《ぶ》である。その1部のクオーターが1朱《しゅ》である。1両は4分・16朱に相当する。この両・分・朱は主に金貨の単位である。他方、銭貨は文が単位として用いられている。250文が1朱に当たる。1分が1000文で、1両が4000文である。
 
 ただし、当時は財・サービスによって決済に使われる貨幣が異なっている。また、高額の取引では、「江戸の金遣い、大阪の銀遣い」と言われ、江戸は金貨、大阪は銀貨という商慣習がある。さらに、改鋳が実施されたため、同額貨幣であっても価値が異なるものが流通している。貴金属の含有率の高い良貨は低い悪貨よりも価値がある。このように、貨幣間の相場が固定されていない事情により、両替商が発達する。鴻池や三井、住友などが特に有名な両替商である。引用と別の個所で白石は荻原重秀の両替商との癒着を指摘しているが、そこにはこうした背景がある。
 
 白石は、インフレ抑制の目的で、正徳4年(1714年)、元禄金銀および宝永金銀を回収し、徳川家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」を論拠に慶長金銀の品位に復帰するため、正徳金銀を発行する。通貨供給量を減少させる金融政策は効果覿面だったが、白石の想定よりも引き締めのスピードが速すぎて、経済はデフレに陥ってしまう。白石も急激な実施の際の弊害を自覚しており、このあたりの経緯を『折りたく柴の記』に定量データを上げて記している。
 
 デフレ不況を根拠として、白石のこの政策は今日の評価が著しく低い。重秀への私怨の説は論外としても、経済成長に伴う自然な通貨需要増を考慮せず、家康時代に回帰しようとする教条主義的政策と批判する意見が圧倒的である。
 
 次に長崎貿易の縮小であるが、これに対しても否定的見方がある。江戸時代、日本は長崎を通じてオランダや清国と貿易を行っている。ところが、開幕以来の長崎貿易は日本側の大幅赤字で、大量の金銀が海外に流出し続ける。すでに述べた通り、金銀の産出量の画期的増加は見込めない。
 
 戦国時代以降、日本では金銀の生産・流通が増加する。特に、銀の生産が増え、天正年間(1573~92)は金銀比価が1対10、慶長年間(1596~1615年)では1対12程度で、他国と比べて銀安の状態である。このレートにより、日本から中国やヨーロッパに銀が流出、逆に、金が流入している。こうした流れが続いた結果、17世紀前半には、東アジア地域の金銀比価が1対13程度に安定する。ただし、一旦落ち着いても、貿易量・収支によって比価相場は変動している。他国に対して金安なら金、銀安なら銀がそれぞれ流出しやすい。
 
 開幕後、南蛮貿易の主要輸入品は生糸で、その支払いのため金銀が大量に国外へ流出、ポルトガル商人は莫大な利益を得る。幕府は、慶長9年(1604年)、対策として糸割符制度により生糸の価格統制を始める。しかし、明暦元年(1655年)、中国商人の抵抗に遭い、糸割符制度が廃止される。すでに採用されていたほかの商品同様、生糸も相対売買仕方となり、長崎の交易は自由貿易に移行する。
 
 相対売買仕方であっても、自由貿易により貿易量が増加、それに伴い、金銀流出が増大する。幕府は、その抑制のため、寛文12年(1672年)、貨物市法を制定する。これは市法会所が入札により輸入品の値段を決定して一括購入する制度である。この取引で仕入れた品物を国内の他都市の商人に売却する際、差額の6割が長崎に還元されている。
 
 しかし、中国商人が薄利多売の商いをしたため、金銀流出は期待したほど減ってはいない。幕府は、貞享2年(1685年)、その対策として、「定高《さだめだか》貿易法」を施行する。これは金銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限、すなわち「定高」を設定するというものである。年間の制限枠は清国船が銀6000貫目、オランダ船が銀3000貫目で、金換算50000両に相当する。また、生糸取引は糸割符、その他の商品に関しては相対取引を原則としている。特に、遷界令の解除後に出入りが急増した清国船に対して、船の積荷高・来航季節・出帆地・乗員数などを勘案して1艘ごとの定高を定め、それ以上の積荷は本国に持ち帰らせている。さらに、元禄元年(1688年)には年間貿易許可船数を70隻にまで制限している。
 
 定高貿易法による貿易制限は比較的成果を上げる。長年に亘る課題だった金銀流出も期待通り減少している。ところが、白石はこれに手を加える。そのことで彼の政策判断が批判されている。
 
 白石は国外に流出した金銀の量を算出、宝永6年(1709年)に将軍徳川家宣に建白している。それによると、60年間で金239万7600両・銀37万4200貫が国外に流出、その量は100年の間に日本で産出された金の4分の1、銀の4分の3に相当する。また、銅についても45年間で11億1449万8700斤に及ぶ。白石は、これを放置していれば、100年も経たないうちに日本の金銀が底をつくと予想、厳しい貿易制限を提案する。
 
 白石は長崎貿易縮小に際して、「宝永新例」と呼ばれる試案を記している。彼は、そこで、清国船を年間10隻、取引額を銀3000貫・オランダ船を年間1隻、取引額を清船の半分とするとし、来航数に応じて次回の来航の公験を交付して、5年の期間で来航船数・取引額を定額に抑制するなどを提言する。彼は、その際、貿易について「外国の無用な物と我が国の有用な物を交換するのみ」と定義して「我が国の政道を害するもので、本来は外国人の日本来航を一切禁じるべきである」ところを「将軍家の恩恵で貿易を許している」と述べている。
 
 しかし、実際の金銀の流出量は白石の報告よりも少なかったと指摘されている。長期的に見れば、白石の言う通りであるが、定高貿易法のおかげで近年は改善傾向にある。また、この政策では金銀比価の国内外格差も問題にならない。統計データの解釈に偏りがあり、白石の分析には誇張が含まれている。金銀流出の実態は政策変更の必要性を裏付けていないというわけだ。
 
 こういった根拠から白石には、金銀流出抑制と別の意図があったのではないかとの憶測を呼んでいる。白石はできる限り貿易を制限しようとする教条主義者であるとか、商業のもたらす奢侈を憎む農本主義者であるとか、金銀に代わり貨幣制度を銅貨中心にしようとしたといった具合である。
 
 しかし、これは難しく考える必要もないだろう。政策担当者が貿易赤字を放置するなどありえない。貿易黒字が恒常的で、一時的に赤字に転落したのならまだしも、近年は減少傾向であるけれども、慢性的に継続しているのであれば、それをより改善したいと策を講じることに違和感はない。また、金銀銅は鉱山を新たに発見しなければ生産量の劇的増加は望めない。それに期待するのは不確実である。責任感のある政策担当者であるなら、楽観的に構えていることなどできない。いずれ底をつく云々といった主張はそうした危機感を将軍に共有してもらうためのレトリックと理解できる。
 
 長崎から反対論が寄せられるなどさまざまな事情を経て、正徳5年(1715年)、海舶互市新例(長崎新令)が制定される。定高を超える積荷に関して代物替のみでの決済を認めているため、国産の生糸や陶磁器など日本からの製品輸出が増加する。また、中国船には信牌、すなわち許可証)を発行し、来航数は年30隻まで制限している。輸入代替や輸出指向の推奨も認められるこの長崎新令は従来の政策の強化の色合いが強い。政策の方向性が金銀銅の流出の抑制であることは確かだろう。

 その後、銅の減産に伴い、幕府は定高そのものの制限を強化する。白石が危惧した通り、金銀のみならず、銅も流出抑制が必要になる。幕府は、寛保2年(1742年)と寛政2年(1790年)の2度に亘り定高の半減令を出す。ただし、宝暦13年(1763年)以後、外国船が金銀を介して銅以外の俵物諸色《しょしき》を交易する場合は、外売《ほかうり》・別段売の名目で定高の枠外と幕府はしている。俵物は乾物の海産品を指し、煎海鼠《いりなまこ》・乾鮑《ほしあわび》・鱶鰭《ふかひれ》である。金銀銅の流出を伴わない取引について許容していたため、長崎貿易全体の交易額は大きく減少していない。ちなみに、天保10年(1839年)当時の取引総額は、清国船が8艘6900貫目、オランダ船が1艘970貫目で、外売・別段売が長崎貿易の大半を占めている。
 
 このように、白石の主な経済政策についての評価は必ずしも芳しくない。特に、吹き替えに関しては、デフレ不況を招いたことは事実であり、擁護論は少ない。しかし、この二つの政策は体系性を有しており、理論的には見るべきものがある。それは高度経済成長期の日本政府の金融政策を振り返れば、明らかになることである。
 

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