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家・職・協(2012)

家・職・協
Saven Satow
Sep, 29. 2012

「衆力功あり」。

 金曜の夜の官邸デモが始まってから、2012年9月28日で半年を迎える。日本において、「世界価値観調査(World Values Survey)」の上でも、政治参加は投票が主で、他の先進国と比較して他はあまり高くないのが従来の姿である。それとは明らかに違う光景が継続的に現われたことになる。次回の結果が楽しみだ。

 これまでは、デモが行われても、組織動員が大半である。しかも、後発国であるため、市民社会の組織も利益団体がほとんどだ。経済団体や産業協同組合、労働組合など産業と結びついている組織が多く、その政治参加も営利目的である。

 しかし、フクシマが起きて以降、市民は請願の署名や脱原発デモを自発的にお展開している。それは家と職に加えて協という第三の世界を持ち始めたことを表わしている。

 日本の前近代社会では、全般的に仕事が家業であるため、家庭と職場がほぼ一致している。人にとって社会は一つである。身分や職能が親族間で伝承されるので、相続社会と呼ぶことができよう。また、共同体内のつながりが強く、幅広い年齢層間のコミュニケーションが基調で、若者は年寄から知恵を学ぶ。極端な思考は、この過程でバランスが整えられるため、消失する。反面、しばしば規範への従属が強いられる。

 近代社会に突入すると、賃労働が浸透してくる。生活と労働の場が分離し、人にとっての世界は二つになる。これが産業社会の特徴である。また、生活と生産の場が別であるから、交友関係を選べる。年齢や嗜好、思想信条、相性など似通った人間が集まり、同質的な関係でコミュニケーションをする機会が増え、年齢に関係なく、偏った考えが増幅される傾向がある。極右思想は伝統を根拠にするが、相続社会では極論が修正されるのであって、実際には産業社会の産物である。

 世界が二つに増えると、両者の調整が要る。職場は個々人の都合を配慮して融通するのが難しいので、家庭が専らそれを負う。家族はさまざまな調整を続けることで、初めて維持可能である。性別役割分業はそうした事情から正当化される。世界の増加につれその調整がさらに難しくなるので、家族の機能が高度化する。時代と共に家族内のつながりが希薄化したというのは見当違いである。

 また、政府の調整の役割も大きくなる。相続社会は貨幣経済と切り離された部分も少なくなく、自給自足傾向がある。事実上失業問題が存在せず、政府の機能は小さい。しかし、前近代が必要としなかったように、近代工業製品は人間にとって生活必需品ではない。産業社会においては供給過剰に伴う景気変動が発生し、失業が生じる。政府のマクロ政策が求められるようになる。

 こうした世界観が変わったのは1995年の阪神・淡路大震災からである。これを契機に、ボランティア活動が色眼鏡で見られることがなくなり、市民の社会参加・貢献への意識が高まる。請願の署名や非相乗り候補の選挙キャンペーンへの参加など地方政治の関与から始まり、国政選挙にも関心が広まる。ワイドショーも政治が視聴率の稼げるコンテンツとして取り上げる。そうした積極的な取り組みはインターネットの定着によって増幅し、各種のSNSの浸透がそれを爆発的に促進させる。このような状況下で、3・11が発生する。

 現代社会では、人にとって世界は三つである。家・職に協の場が加わる。それは社会参加や社会貢献であり、新たな公共性・公益性の形成の力が働いている。この協はイデオロギーから生まれたわけではない。むしろ、生命をめぐる不安からである。自然災害や原発事故は生命を脅かす。こういう問題に対処するには家や職だけでは不十分で、それを超えたネットワークが必要である。協は切実な希求から市民の元に現われている。

 三つに増えたことにより、調整を協の世界も担うことになる。家庭だけが負う必要はない。また、政府だけに押しつけるのではなく、公共財に関して市民も協力する。企業などの経済活動、すなわち私的活動では進化には競争が欠かせない。一方、公共財においては、協力によってそれが可能になる。公共財は産業社会では難しい問題と考えられてきたが、協働社会においては解消される。

 ただ、世界の増加は思考の偏りを助長する場合もある。極論は多様なコミュニケーションによって修正される。これを生かしたのが熟議の民主主義である。協にもこの可能性がある。しかし、ネットは、選択の自由が大幅に認められているので、より自分の歪んだ信念を強化する出会いを可能にする。極論に凝り固まり、閉鎖的なグループが無数に点在し、相互に不干渉、あるいは誹謗中傷を繰り返すようになる。バランスよく修正される機会が乏しいので、非常に流動的で不安定な状態である。これが「サイバー・カスケード」と呼ばれる現象である。

 従前の社会でも余暇や趣味、娯楽を楽しみ、それを通じて家庭とも職場とも違うコミュニティを形成する場合がある。けれども、公共性・公益性への寄与を目的にしているわけではない。

 市民が三つの世界を持っているのに、政治は対応する気がないように見える。それはこれからの公共性・公益性をどうするのかまったくヴィジョンを駆逐していないことを露わにしている。あまりに機動性と戦略性に乏しい。おそらく協が生命活動の求めた世界だということがわかっていない。

 2009年の政権交代の際、新政権は新しい公共性の構築を政治課題の一つに掲げている。三つの世界論を政治に組み入れようとしている。しかし、松下政経塾内閣が発足すると、この姿勢は後退する。ところが、自民党に至っては、総裁選がよく示していたように、市民の新しい動向に無関心で、産業社会の認識にとどまっている。信じがたいアナクロニズムだ。彼らの生きている時代はいまだに昭和である。

 また、利益団体の姿勢も相変わらずだ。原発ゼロ社会への反論が業界団体や経済団体等から寄せられているが、それは産業社会の認識に基づいている。原発を推進しなければ、家と職が苦しくなるという主張だ。その妥当性以前に、生命への不安が脱原発運動の動機なのにもかかわらず、協がすっぽりと抜け落ちている。

 協の重要性は社会に認知されつつある。企業もCSRを謳い、大学も社会貢献を口にしている。けれども、実践はおろか、それが何であるか把握しきれていないのが実情だろう。官も報もどうかと問われて、自信を持って答えられるかは疑問だ。この点に関しては、市民の方がはるかに先進的である。政官財学報は市民に協力し、そこから学べる。
〈了〉
参照文献
World Values Survey
http://www.worldvaluessurvey.org/

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