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音楽の行方─宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』(6)(2014)

アンコール Allegretto tempestoso
 「何をするにせよ、悪趣味は単調よりはまだましだ」(カザルス)。アンコールを求められたゴーシュは『印度の虎狩』を演奏する。これは、三毛猫に『トロイメライ』をリクエストされた際、その代わりに、悪意で、弾いた曲である。自分を笑い者にして喜んでいる金星音楽団を見せしめにして、馬鹿にしている「生意気」な聴衆をコンサート・ホールから追放するために、ゴーシュは樂団長が「あんな曲」と評するこの曲を選んでいる。

 『印度の虎狩』に対する聴衆と楽団員の反応は、好意的とは言え、戸惑いが見られる。文章からはどのような曲かわからない。ただ、タイトルと皆の反応からストラヴィンスキーの『民族の祭典』を彷彿させる曲だと推察できよう。

 19世紀後半、欧州の作曲家は音楽の新たな可能性を求めて非西洋世界に関心を広げる。フランソワ・アドリアン・ボイエルデューの『バグダードの太守』やアルバート・ウィリアム・ケテルビーの『ペルシアの市場にて』、ジョゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』、フリッツ・クライスラーの『中国の太鼓』などがそうした動向から生まれている。もっとも、それらは異国趣味を超えるものではない。異文化への理解も表層的でしかない。

 しかし、世紀末のフランス印象派は非西洋世界の音楽に直接触れ、衝撃を受けている。ドビュッシーやラヴェルらはガムランを始めとするこの外部を意慾的に取り入れ、和声の面で新たな音楽の地平を切り開く。

 これは西洋音楽を外部から転倒しようという試みだ。この流れの中で登場するのがストラヴィンスキーである。彼は西洋音楽を根本から覆す。それはリズムの解放である。

 西洋音楽はキリスト教の禁欲主義に起源の一つを持っている。身体性は忌避され、一旦設定された拍子は変更されないのが原則である。リズムは身体性と結びついているため、クラシックのオーケストラには打楽器はティンパニーくらいしかない。他方、ポール・モールア・グランド・オーケストラにはドラムを始め多くの打楽器が用意されている。そこではリズムが解放されている。ポピュラー音楽はリズムの音楽である。

 80年代にポピュラー音楽でコンピュータ利用が広まった時、真っ先に普及したのがドラム・マシーンである。それは人間では不可能なドラミングも実現できる。ポップスがリズムの音楽であることがこの歴史からもわかるだろう。

 リズムの解放がどれだけ西洋音楽において衝撃的だったのかはストラヴィンスキーのバレー組曲『春の祭典-異教徒ロシアの音楽』の初演が物語っている。1913年5月20日にパリのシャンゼリゼ劇場でお披露目された時、サクラをしこんでいたせいもあって、観客は集団ヒステリー状態と化している。

 拍子が目まぐるしく変わる。客席にいたカール・ヴァン・ヴェクテンはその模様を次のように証言している。「劇場はまるで地震で揺れているみたいだった。観客が罵り、怒号し、口笛を吹くので、音楽はまったく聞こえなかった。ひっぱたく音や、殴り合う音まで聞こえた。(略)ある婦人は隣のボックス席の男の顔をひっぱたき、ある二人の紳士は互いに決闘を申し込んだ」。『春の祭典』は、翌日の新聞で、「春の虐殺」とまで酷評されている。

 第一次世界大戦後、ストラヴィンスキーは西洋音楽史の再構成に挑む。彼はリズムの解放のアプローチからその体系全体を組み直す。『ブルチネルラ』などの新古典主義作品はロマン派が克服しようとしてきた調性にあえて従う。けれども、リズムの解放を導入して、ロマン派以降の西洋音楽を根本から批判する。

 古典は参照される規範である。たんに古いだけで、創作の参考にならないものはそうとは言えない。西洋音楽の場合、中世のグレゴリオ聖歌以前は事実上参照できないので、歴史の再構成もそれ以後に限定される。

 通常の芸術は前の作品が後を拘束するが、音楽は逆である。後の演奏や歌唱が前のそれを規定する。ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスの『星条旗』を聞いた後では、それ以前の合衆国国歌の演奏はその影響下で理解される。

 しかし、クラシックの後継者争いにおいてストラヴィンスキーはシェーンベルクに敗れる。ヘゲモニーを獲得したのは12音技法であり、西洋音楽の正統的軽症者である現代音楽はこの調性の超克の高度化として発展している。その代表がピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンなどのトータル・セリエリズムだろう。

 けれども、20世紀はポピュラー音楽の時代である。ベニー・グウッドマンに曲を提供していたことでも知られるストラヴィンスキーの方法論はそちらに浸透する。西洋音楽の技法を活用してポピュラー音楽を作曲する。これは西洋音楽史を情の観点で現代的課題として再検討することである。

 特に、このアプローチが顕著なのは映画や舞台の音楽である。エーリッヒ・コルンゴㇽドやマックス・スタイナー、レナード・バーンステイン、バート・バカラック、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズ、坂本龍一など枚挙に暇ない。

 例を挙げよう。バーンステインの作った『ウェストサイド物語』の挿入曲──『トゥナイト』や『アメリカ』──で用いられる3度関係の転調はベートーベンが中期以降で多用している。ウィーン古典派の手法を踏襲しつつ、ダンスという身体運動に彩られるミュージカルの音楽を作っている。また、クラシックの非愛好家にとって20世紀後半を代表する交響曲の一つはジョン・ウィリアムズによる『スター・ウォーズ』の主題曲である。ソナタ形式、すなわち複数の主題がぶつかり合う点でもこれほど相応し曲はない。

 ただ、ジョン・ウィリアムズは20世紀の四つの音楽の内の最後の政からの影響が認められる。それはソ連の全体主義体制が生み出した政治的イデオロギーに基づく音楽だ。体制賛美のプロパガンダ音楽である。

 革命以前のロシアの作曲家と言えば、色鮮やかなカンタービレが思い起こされる。ピョートル・チャイコフスキーの『弦楽四重奏曲第1番』にレフ・トルストイが涙したことはあまりに有名である。ところが、ソ連の作品はヵンタービレ風の弦の旋律が登場しても、古典主義的に変えられ、しかもギクシャクしている。泣けるカンタービレなどない。

 この他にもいくつかの特徴がある。ソナタやフーガ、変奏曲、協奏曲、交響曲といったアカデミックな形式・ジャンルが杓子定規に遵守されている。また、資本主義社会で試みられているジャズの導入といった実験は当局の出方を伺うように慎重になされている。さらに、金管楽器を始め金属音が轟音と言っていいほどに大音響で響き渡る。ロシア音楽に抱く哀愁や甘美はソ連のそれにはなく、わざとらしい大仰さや型に押しこめたごとくのぎこちなさ、威圧するような騒々しさといった印象がある。

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第5番『革命』や交響曲第12番『1917年』が政の音楽の代表である。ジョン・ウィリアムズの『スター・ウォーズ』の挿入曲には政の音楽からの影響が認められる。宇宙戦争を描く商業主義のアメリカ映画に全体主義のソ連音楽が用いられる。このレトリックが交響曲を傑作と評させている。

 金星楽団は映画館に属している。20年代後半はまだ映画の中心はサイレントで、オーケストラはその状況で必要とされている。サイレントからトーキーに移行すると、楽団の生演奏が不要になったため、この制度は消滅する。映画の革命に際して、声に関しては観客からも抵抗感が示されていたが、音楽は歓迎されている。日本にいながらに、海外の高水準の演奏を体験できたからである。トーキー映画の普及に伴い、活動弁士同様、映画館付きの楽団も過去の存在となっていく。

 映画産業がクラシック音楽の普及に果たした役割は小さくない。東京交響楽団は1946年に創設された東宝交響楽団を前身にしている。ただ、この東宝交響楽団も1933年頃から活動していた東宝映画のための楽団を起源にしている。

 だが、賢治の着眼点は先見的である。音楽はそれだけを聞くのではなく、映像との相互作用を楽しみにしている。30年代にナチズムが台頭し、欧州からユダヤ人が米国に移住する。ストラヴィンスキーの方法論が普及するのは、この亡命者が生活の糧を得るためにエンターテインメント産業に進出する過程においてである。33年に亡くなった賢治はそんな事情を知らない。

 ポピュラーのヒット曲を分析してみると、歌詞の内容を生かす目的からクラシック理論を踏まえた形式が用いられているものも少なくない。一例を挙げよう。ポール・サイモンは古いタイプの女性を描くために『スカボロー・フェア』では和声以前の旋法、人生の困難さを示そうと『明日に架ける橋』において三の和音をそれぞれ使っている。ポピュラーの音楽家にもクラシックの理論の知識が不可欠である。音楽の批評家も同様だ。リテラシーを参照して内容と形式を批評するリテラシー・スタディーズでなければならぬ。

 ポピュラーの音楽家がクラシックの名曲を自らの修辞法で読みかえることも珍しくない。ジャズ・ミュージシャンがバッハをしばしば取り上げることはよく知られている。ロックでもELPの『展覧会の絵』が名盤の誉れが高い。最もユニークなのは1981年にザ・ヴィーナスがリリースした『キッスは目にして』だろう。これはベートーベンの『エリーゼのために』をオールデイズ風にアレンジした曲であるが、当時、意外と気づかれていない。今やダンスやラップでもクラシックがよく引用され、挙げればきりがない。

 「あゝくゎくこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんぢゃなかったんだ」とゴーシュが窓を開けて最後につぶやく。賢治が『セロ弾きのゴーシュ』をいかなる意図で書いたかはわからないが、モダニズムによる西洋音楽史の再検討を体現している。これは20世紀の音楽の行方を聞ける作品である。それを敷衍するなら、今後の音楽もそこから聞こえてくるだろう。
〈了〉
参照文献
浅田彰、『ヘルメスの音楽』、ちくま学芸文庫、1992年
梅津詩比古、『セロ弾きのゴーシュの音楽論』、東京書籍、2003年
岡田暁生、『西洋音楽史』、放送大学教育振興会、2013年
笠原潔他、『音楽理論の基礎』、放送大学教育振興会、2007年
坂本龍一他編、『未来派2009』、扶桑社、1986年
佐藤泰平、『宮沢賢治の音楽』、筑摩書房、1995年
高野陽太郎、『認知心理学』、放送大学教育振興会、2013年
月渓谷恒子他、『現代日本社会における音楽』、放送大学教育振興会、2008年
横田庄一郎、『チェロと宮沢賢治』、音楽之友社、1998年
宮沢賢治、『宮沢賢治全集』7、ちくま文庫、1985年
吉田和明、『宮沢賢治』、現代書館、1992年
渡辺裕、『歌う国民』、中公新書、2010年
ジュリアン・ロイド・ウェッバー、『パブロ・カザルス 鳥の歌』、池田香代子訳、ちくま文庫、1996年
ブルース・ポリング、『だからスキャンダルは面白い』、仙名紀訳、文春文庫、1997年

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