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1000本ノックとID野球(2014)

1000本ノックとID野球
Saven Satow
Oct. 17, 2014

「明治時代の大学野球や、戦前から戦後の一時期にかけての高校野球では、じっさいに千本ノックが連続的に行われたこともあるという」。
玉木正之『プロ野球大事典』

 2014年10月16日付『スポニチ』によると、イーグルスの大久保博元監督は1軍でも1000本ノックを実施すると公言している。2軍監督だった今シーズン、彼は選手に約2時間半で1400本のノックを行っている。それを例に「その後に下半身が安定した。医学的に効果がある、と言う大学の先生もいる」と記者たちに説明している。

 この記事だけではその大学の先生が医学的にどのような効果が1000本ノックにあるといったのかはっきりしない。そのようなエビデンスがあるのかも不明である。

 言えることは大久保監督が成功したと自認する個別事例を論理的説明もなく一般化しようとしていることだ。そもそも1000本ノックと下半身の安定の因果関係も曖昧である。目的を持った仮説に基づく練習だったのかさえわからない。

 かつて長嶋茂雄終身名誉監督は1000本ノックについて次のように言っている。「あれは、足腰と膝を柔らかくするから、バッティングの練習にいいんです」。大久保監督は、ミスターより1世代も若いのに、説明に合理性が乏しい。

 練習量など不要だと言っているわけではない。選手は練習を通じて熟達することを目指す。熟達には練習量が要ることは科学的に示されている。

 アンダース・エリクソン(K. Anders Ericsson)フロリダ州立大学教授は熟達に関する認知心理学の研究で知られる。彼は、ベルリンの音楽学校で、バイオリニストについて身体知の研究を行っている。その際、学生を最優秀・優秀・普通の三分類し、さまざまな調査結果との相関性を分析している。 

 このレベルの差を最も明確に説明づけるのは、18歳までの累積練習量である。最優秀グループは8,000時間、優秀グループは5,000時間、普通グループは3,000時間の練習量である。ちなみに、バイオリンを8歳から始めて、10年間で8,000時間練習をするには、1日平均2時間は割く必要がある。

 バイオリンの演奏は身体を使う。具体的で、複雑な行為である。反復練習を通じて身体に知識を記憶させなければならない。練習量が多いほど身体知はより体得される。上達するには練習量が必要だ。

 この研究結果は日本のスポーツ関係者にもよく知られており、彼らはしばしば言及する。ただ、概してその引用は不十分である。彼らは反復練習の大切さを訴えるために、この結果を引用する。考えなくても、身体が反応するくらいになるまで練習しなければならない。練習は嘘をつかないというわけだ。

 身体知はより多く反復練習することによって体得される。コーチの仕事は、だから、それを続けられるようにすることだ。このような発想に体罰が入りこむ余地がある。

 しかし、エリクソンの研究には続きがある。これは高い技術の習得の理由を明らかにしているのであって、創造的な演奏に関する分析結果ではない。創造的な演奏をするためには、ただ技術が高いだけでは足りない。音楽についての深い理解が必須である。それには身体知を検証できるメタ認知を会得しなければならない。考えなくても、身体が反応するレベルはまだまだ一流ではない。

 熟達にはやみくもに練習量を積めばいいというものではない。演奏のみならず、スポーツの熟達のための練習も認知心理学では学習に含まれる。知識は習得の形式の違いから二種類に大別できる。宣言的知識と手続き的知識である。

 前者は言語によって事実が説明可能で、その妥当性が判断できる知識である。一般性・抽象性が高く、「わかる(Knowing What)」ことであり、明示知や形式知とも呼ばれる。

 後者は必ずしも言語によって説明できるとは限らず、一定期間の反復練習することで体得される知識である。個別性・具体性が強く、「できる(Knowing How)」ことであり、暗黙知や身体知とも呼ばれる。掛け算の概念は宣言的知識、九九の暗記は手続き的知識である。

 学習によって知識が増大して構造化され、さらに調整されて動的な体系が形成される。熟達者は宣言的知識が構造化された上、手続き的知識が自動化されているので、意識せずに処理が行われ、状況に応じた適切かつ素早い対応が可能になっている。

 初心者は、熟達者に比べて、いずれの知識も低い。しばしば熟達が「できる」ことだと誤解し、手続き的知識の習得に偏重する。これは表面的な特徴に囚われた熟達理解である。構造化された知識を伴わなければ、体得したものは個別的・具体的であるため、ネットワークの未整備な断片の集まりに構成されてしまう。状況に応じた対応は十分にできない。また、物事を全体ではなく、部分に固執して把握する。その部分を全体に無批判的に拡張し、グロテスクな理解に至ることも少なくない。

 「できる」ことだけを高めようとすると、その対象が「できる」ことにならない。こんなに勉強しているのに、いつまで経っても英語が「できる」ようにならないとすれば、それは「わかる」ことがおろそかだからと考えられる。

 精神主義と揶揄される手続き的知識偏重の日本の野球界に宣言的知識を導入した最大の功労者の一人が野村克也監督である。彼はスワローズの監督に就任した際、「ID野球」を掲げる。経験や勘にのみ頼るのではなく、統計学に基づく定量データを活用してプレーすることを説く。手続き的知識だけでなく、宣言的知識も学習しなければ熟達しない。個人もチームも熟達すれば、超一流がいなくても、日本シリーズ制覇も夢ではない。

 映画『マネーボール』を見た時、それがID野球を描いていると気づいた人も少なくなかっただろう。野村監督ははるか前から実践し、伸び悩む若手や自分を見つけれない中堅、盛りのすぎたベテランを生き返らせ、「野村再生工場」とまで呼ばれている。こうした選手たちに不足しているのは練習量と言うよりも、宣言的知識であり、指導者はデータ等を用いてそれを言語化する必要がある。

 野村監督はイーグルスの指揮を任せられると、最下位が指定席のチームを優勝争いができるまでに育て上げる。後任の星野仙一監督によるイーグルスの日本一も、前任者の遺産があったからだという評価も少なくない。

 星野監督は辛抱強く選手を起用していたけれども、宣言的知識の言語化が必ずしも十分ではない。伸びる選手がいても、これではチームの力は継続的に成長しない。

 野村監督のような指導者を見てきた後に、大久保監督の1000本ノックの自説を聞くと古いと思わざるを得ない。その疑問が強まるのは記事の最後の記述である。大久保監督は選手たちに次のように指示している。「“目標を紙に書いて部屋に張れ”とも言った。3行日記もいい。書くことで課題が明確になる」。

 内観のレポートや日記は川上哲治監督の時代から野球界では採用されている。確かに、書く作業はメタ認知につながる場合もある。ただ、母語話者が用法の理由の説明が不得手なように、暗黙知を内省しても上達に結びつくとは限らない。それは熟達への過程を言語化できる他者が行うべきである。

 言語化が不足しているのに、それを選手自身に任せてしまう。宣言的知識の学習を充実させる取り組みが大久保監督の発想に認められない。ファンの中に激しい拒否反応を彼に示す人たちがいるのもその復古主義的傾向にある。
〈了〉
参照文献
高野陽太郎、『認知心理学』、放送大学教育振興会、2013年
玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、1990年

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