北緯35度42分─ヘンリー・ミラーの『北回帰線』(8)(2007)
8 寄生
俺には、昭和30年代を描いた自己完結した映画よりも、DVD全8巻の『「朝日ニュース映画で見る」 昭和』の方がはるかに得るものがある。昭和30年代の東京はちょうど今の北京のように大気汚染がひどい。また、急速な人口増加のために、住宅難と水不足が深刻な問題となっている。特に、水の件は、たんに人口のみならず、以降も電気洗濯機や内風呂の普及による一人当たりの水の使用量がうなぎのぼりとなることから、昭和40年代に入っても続いている。そのほぼ同じ時期、人手が流出した岩手の漁村の小学校では、昼飯時になると、教室から出て校庭のブランコに座っている子どもたちの姿が忘れられない。弁当につめるものがねえんだよ。当時はまだ学校給食も完全実施ではない。また、恣意的に組み合わせて自己意識の優位さを味わうよりも、歴史的・社会的背景を知り、その意味を読みとる方が、自分の固定観念が壊され、つくり変えられていくので、快感だ。
俺の目には暗闇のなかでテーブルの前に坐っている自分の姿がうかぶ。いきなり象皮病にとりつかれたかのように、俺の両手両足は、ぐんぐん太くなっていく。体が重くなればなるほど、部屋の雰囲気は軽くなってゆく。しだいに俺は拡大していって、ついには、ひとつの堅いゼリーの塊で部屋を満たしてしまう。俺のごく小さな一部分だけが、いまは生きている。そして、生気のない屍が拡大するにつれて、この生命の閃光は、しだいしだいに鋭くなり、俺の内部で宝石の冷たい炎のように輝く。
ある晩、アマリロー・ダンスホールから出ようと回転ドアの真鍮のバーに手をかけたとき、それまでの私のいっさいが、いまにも崩れ去ろうとしたのである。俺が生まれた時そのものが、強い流れにさらわれて消え去ってしまったのだ。俺は、成長過程が停止されたままになっている無時間のベクトルのなかに追いかえされてしまったのだ。そこには不安はなく、あるのはただ使命感だけであった。突入の際に骸骨は破裂し、無力な不変のエゴだけが残った。
(『性の世界』)
西鉄ライオンズ時代、豊田泰光は死刑囚を慰問する機会があり、その場では「うろたえた」がこういう経験はしておいた方がいいと回想している。俺もそう思う。でも、それを気の利いた言い回しで表現する必要などない。底の浅さが知れるだけだ。ただ、「うろたえた」ことを、自分が突き放されたことを反芻する。それでいい。
もし実際に書かれるとしたら、都市放浪記による現代文明批判は、今日と20世紀初頭とでは異なっているだろう。コンピューター・ネットワークによる監視・支配、ライフラインへの依存、インフラの脆弱さ、いわゆる裏社会の暗躍などに焦点が当てられると予測されるけれども、それらはいずれも世界の多層性を描いているのであって、都市というものの本質ではない。
先に言及した都市の特徴を突きつめると、都市は寄生の社会だとも言える。東京には、「世界でただひとつの寄生虫の博物館」の目黒寄生虫館がある。都市に寄生虫の博物館というのは素晴らしいコンセプトだ。寄生虫館が配布しているパンフレットには、次のように記されている。
財団法人目黒寄生虫館は、公益法人として、一般の個人・法人のみなさまからのご寄付が貴重な財源となっております。ぜひ、ご協力くださいますようお願いします。なお、当財団への寄付は「特定公益増進法人」への寄付として寄付金控除が認められております。(参照:所得税法第78条第1項および第2項、法人税法第37条第3項第2号)
寄生虫を展示する博物館が独立採算するとしたら言動不一致だ。あるべき姿は世の中に寄生することだ。堂々と寄付をもらえ!俺も中嶋に「ちょーだい!」と頼んで、100円ほど寄付金箱に入れている。
目黒寄生虫館に行ったのは、松岡利勝農林水産大臣が首を吊った次の日だ。テレビ東京でリチャード・バートンとクリント・イーストウッドが主演の『荒鷲の要塞』を見ていると、自殺を図った松岡農水大臣が死亡したとテロップが入ったのを覚えている。寄生虫館の2階にサナダムシの写真とその長さを体感できる8.8mの紐が壁に展示してある。階段の踊り場辺りまで伸ばせるので、せっかくだから、前日のこともあるし、階段でその白い紐を首に巻いて写真を撮ろうとしたら、中嶋にとめられる。見学に来ていた中学生か高校生数人を右肩越しに親指で軽く指しながら、横浜のアクセントで冷ややかにこう言う。「大人(で)しょ?」
まったくだ!死者の冒涜だ!Shit!
横浜はいい。ヘンリー・ミラーがブルックリンを思い起こすためにパリを愛したように、ベイルートが好きなのは、横浜に似ているからだ。もし俺が横浜で生まれ育っていたなら、そこで一生を終えたいと思っただろう。地方のラーメンは東京にも店を出したがるが、横浜は違う。サンマ―メンは横浜でしか食べれない。探せば他でもメニューに入れているかもしれないが、少なくとも、俺は見たことがない。
中嶋は、黒い癖っ毛とのショートという点を別にすれば、アオザイが似合いそうな感じだ。あのときの格好は…まったく覚えていない。スカート…いや、パンツ・ルック…わからん。まあ、どうせZARAあたりでも着てたんだろう。でも、その後に、恵比寿ガーデンプレイスでエビス・ザ・ブラックの中ジョッキをおごってもらったことは忘れちゃいない。
同じ階に、ショップがあり、魅力的な各種寄生虫グッズが売られている。サナダムシ柄のランチバッグがあるところなど泣かせるではないか!これを見たら、ジョン・ウォーターズは狂喜乱舞するに違いない。ミュージカル『ヘアスプレー』において、主役のトレイシー・ターンブラッドにゴキブリ柄のシャツを着せているが、さっそく、立体サナダムシ柄のTシャツにして撮り直すだろう。
俺は、俺自身の体や、自分の欲望を知る契機をつかむために、失明することを望んだ。見たこと聞いたことをふりかえってみるために――そして、それを忘れ去るために、何万年もひとりでいたかった。自然の謎の生産力を、子宮の深い井戸を、静寂か、さもなければ暗冥の死の潮騒を、ひたすら求めた。じつに不可解であると同時に、きわめて能弁でもある暗闇になりたいと思った。もはや、話すことも、聞くことも、考えることも、いっさいしたくなかった。草木や虫や小川の流れのように、ただ地上のものとしての人間でありたかった。
(『南回帰線』)
寄生は非常に複雑で興味深いが、それを含めた生物間の相互作用、すなわち共生をめぐる諸概念は次のようにまとめられる。
生物B
+
-
0
生物A
+
相利Mutualism
-
捕食Predation
寄生Parasitism
競争Competition
0
偏利Commensalism
偏害Amensalism
中立Neutralism
寄生者と宿主の関係をめぐっても、寄生は以下の通りさまざまに分類できる。
1相互関係の種類による分類
寄生…寄生者が利益を得て,宿主が損失を被る
偏利…宿主がほとんど影響を受けない
中立…寄生者にも宿主にも利益・損失共にない
相利…寄生者も宿主も相互に利益を受ける
2寄生者の状態による分類
絶対寄生…寄生状態が必須
条件寄生…自由状態であっても生きていけるため、寄生状態が任意
3寄生部位による分類
外部寄生…宿主の体の外部に寄生する
内部寄生…宿主の体の内部に寄生する
消化管内寄生…消化管内部
体腔内寄生…臓器やリンパ管,血管など
細胞内寄生…細胞内部
4利用する資源の種類による分類
栄養寄生…多度主から栄養を吸収する
捕食寄生…宿主を体内から食い殺す
すみこみ寄生…他の生物がつくった巣などを利用する
労働寄生…他の生物の労働力を搾取する
社会寄生…巣など他の生物のコミュニティごと乗っ取る
4宿主間の伝達様式による分類
水平感染…異なる個体間での感染
垂直感染…親から子へなど世代間の直接感染
これは、実は、共生の分類と重なり合う部分が少なくない。一般的な「共生」はほぼ相利関係を指している。しかし、共進化の問題などもあり、両者の区別はそんなに単純ではない。共生や寄生を利益という観点から捉えるのは一元的思考である。サナダムシが消化管内に寄生しているために、体躯は細いものの、アレルギーが抑制されているとしたら、この場合の利害を決めることは困難である。身体に人格的な比喩を当てはめて一元的に捉えるのではなく、多元的な見方が必要である。それは、農林水産省と経済産業省がWTOの場で利害が必ずしも一致しないのと同じことだ。ロバート・コヘイン=ジョセフ・ナイは、1977年、国際関係において伝統的な一元主義的リアリズムに対し、「複合的相互依存(Complex Interdependence)」を提唱したが、生物間の相互作用にもこうした認識を導入する必要がある。藤田紘一郎は、『共生の意味論』において、規制と共生を安易に分けるべきではなく、「必須か任意かを含めて『共生』という言葉から利益に関する意味あいをすべてとり除きたい。つまり、『共に棲むこと』の意味で『共生』を使いたい」と言っている。この意見に従えば、寄生も共生にほかならない。
このように、ヘンリー・ミラーの寄生虫のような生き方がまさに都市を体現したものだということは明らかだろう。『北回帰線』はたんなる都市放浪記などではなく、都市そのものを具現化した作品である。いや、それどころか、新たな相互依存論の手引きとなるかもしれない。
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