千利休に見るダンディズム 東大寺乱

茶道の始祖とも言うべき利休にとっては、いたる所が茶道の場でした。また利休の茶道は、権力や物欲を超えた利休自身の実存の手段でした。時の権力者に迎合することなく、美の世界に殉じた利休にとって、茶道は自らの全存在を賭けたものであり、自分がよって立つ在り方の象徴でした。この意味で、利休は格別にダンディな人間であったと言えます。つまり利休は、自分の生き方に、茶道を媒介とした美と精神を、常に培養していたのです。権力者としての秀吉に対抗した利休には、力強いダンディズムの真髄さえかいま見えます。そうした意味を持つ茶道が、伝統の名において低俗化し、愚劣化し、安易なショーと化している現実に人々は気づかないようです。伝統は年月と共に自動的に磨かれると考えるのはあまりにもお人好しの発想です。
茶道に限らず、宗教や伝統芸術も安易なショーと化し、ダイジェスト化し、軽薄化しているわけで、これに個々に抵抗するのが個人の存在の重味を持つダンディな在り方なのです。存在を賭けた気迫、そして、存在を賭けるような内容を独創してこそ、人間の存在の美化は達成されるのです。

東大寺乱[2000]『美学大全 表現者の美意識』(沖積舎)

著者の東大寺乱については、『詩人・東大寺乱の物語』をご覧ください!