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車を運転できるひとが永遠にかっこいいを総なめ

私は、長距離トラックの運転手になりたかった。向いていると思った。
一人でできるし、好きな音楽を聴けるし、毎日いろんなところに行けるし、何よりそこはかとなくロマンを感じられる、トラックの運転手になろう!と24歳の私は思った。
美術大学を中退し、ひとしきりいろんな職を転々としニューヨークぶらぶらしたり好き勝手に歩き散らかした挙句ポンと脳に湧いてきたちゃんとした仕事のアイデアが、トラックの運転手だった。
私は自分で自分のアイデアに興奮し、早速山形の自動車運転免許合宿を予約した。
なると決めたはいいが、まだ普通免許すら持ち合わせていなかったのである。
東北で車の免許をとろうというアイデアも、私の中に疼くロマンがそう告げていたのだった。
沖縄で楽しい仲間たちとワイワイ免許をとるパリピ的なコースなども存在していたが、私は山形のうらぶれた温泉宿でおごそかに運転の勉強をする自分を想像し胸を高鳴らせた。
ひとしきりときめいてから、私は引き出しの奥に眠っていた500円玉を取り出す。
この500円玉は昔、石川県から岩手県までをヒッチハイクをした際に手に入れた私のロマンの原石である。
ひたすら続く日本海沿いの道は、冬で、ずっと雪だった。
なんの意味も前触れもなく坊主頭にし、たいした理由もなくヒッチハイクに出た19歳の娘を拾ってくれたのは、もれなく長距離トラックの運転手だった。
運転手たちは、どうしようもない私にコンビニのハンバーグ弁当を買ってくれ、意味不明な話に付き合ってくれ、そして頑張れよといって私の手のひらに500円玉を握らせてくれた。
私はその500円玉を、お守りにして歩いた。
思えば、ここから私の東北×トラック=ロマンの方程式が始まったのだろうと思われる。
私も長距離トラックを運転し、旅は道連れをやったり、自分の好きなようにデコったトラックの中で眠ったりしたかった。
この大事な500円玉を、私は免許の合宿費にあてた。

待ちに待った合宿である、到着した温泉宿は願っても無いくらいのうらぶれ感だった。
ざっくりと切り取られたような崖の麓に、かつては大変賑わっていたのだろうと思われる、立派な木造旅館の成れの果てのような建物が気に入った。
全ての案内書きや注意書きはもちろん毛筆縦書きであり、いつまでも薄暗い廊下の床は、昼も夜もほの薄くてらてらと光っているのだった。
20畳くらいありそうな大変大きな部屋を一人で使えるとのこと、庭には勿論ししおどし。
寝ながら電気を消せる長いひもが、部屋の真ん中でいつまでもゆらゆらと揺れていた。
離れに穴蔵のような天然温泉場があり、24時間使えるとのこと。
私は大喜びで荷解きをし、それから送迎バスで教習場へ、初回の授業は、講師の大変な山形弁によって半分くらいしか理解できなかった。
同期の生徒たちは、皆ワケありのようだった。
宅配の仕事をしていたが違反の点数が上限に達し免許を取られまた取り直しに来たもの、全く喋らないヤンキー、会社に言われイヤイヤやって来たもの、身分証明証代わりに欲しいというもの、などロマンに胸を膨らませた私はなんとなく場違いの賜物であった。
喫煙所でも皆なんとなく静まり返って、ただ呆然と山などを見ていた。
温泉宿と教習所の往復バスの運転手さんだけが、毎日毎日嬉々として元気だった。

初めて車のハンドルを握り、エンジンをかけた時の高揚感と、それと同時に湧き上がってきた恐怖感を忘れられない。
「はい、車出して」
と横で飄々としている教官の神経を疑った。
こんな恐ろしく速さの出る乗り物に見ず知らずの運転をしたこともない人間とともに乗り込み、そして何故あなたはそんなに平気な顔をしているのか?
私はなるべく教官が安全なように、そして誰も死なないように、ゆっくりゆっくりと走った。
車は動いていた。
私たちも、同時に動いている。
私はこの車が一体どういう原理でどうやって動くことができるのかがわからなかった。
ギアチェンジを行なった。
車がもっと速く走れるようになる。
怖かった。
先生は、そのうち慣れます、と言った。

宿に戻ると、ドラム缶を横にしたような犬が玄関のスリッパを枕にして寝ていた。
西日のナナメに入る感じが素晴らしく、私は何度もシャッターを切った。
宿のおばちゃんが出てきて、犬にシャーッというと、犬はドラム缶の身体を翻して、サッサと奥へと消えていった。
私は、スリッパの犬の毛を払ってはき、やたらだだっ広い自分の部屋に戻り、交通ルールを暗記した。

私は筆記試験においては大変に優秀な生徒だったが、実技に関してはまるでダメだった。
正確にいうと、教習所内での運転は可能なのだが、公道に出ると目もあてられなかった。
エンストを繰り返し、右折のたびにパニックに陥り、道を歩く人の横を通り過ぎるたびにスピードを落としてしまい、道路脇のコンビニの駐車場から今まさに私が走っている道に合流しようとしている車など見ようものならあああああああの車が急に飛び出して来たらどうしよう、どうしよう先生と汗が止まらなくなり、私はとにかくハンドルを握った瞬間に大変気が弱くなってしまうようだった。
私の普段の性格について、おおらか/度胸がある/動物に例えればゾウなどという有難き言葉を頂戴したことがあるのだけど、ハンドルを握った瞬間にそれらの性質は全く影も形もなくなってしまう。
もしかしたら、本当の私はずっとこわくてビクビクしているチワワ的なものなのだろうか。
そんな可愛いものではないとしたら、なんだろうか、ゾウムシだろうか。
私の正体は本当は、ゾウのふりをしているゾウムシなのかもしれない。
そんなことを考えていたら、車は山道に入った。
追い越しができないとあって、のろのろとしか走ることのできない私の後ろには、ずらずらと後続車が連なっているようだった。
まっとスピード出して、迷惑かかってっからーと教官はイライラするとでる山形弁で私に言った。
はあいいぁぁ、となんとか少しスピードを出してみる、と私の目に「タヌキ注意」の看板が飛び込んできた。
ギアチェンジをする。もっとスピードを出す。
冷や汗が全身のどこからでも湧き上がってくる。
後ろからクラクションが聞こえる。もっともっとスピードを出す。
私は聞いた、このままスピード出して、たぬきが飛び出してきたら、どうするんですか、と聞いた。
すると教官は、そのままいぐんです、といった。
その瞬間、私はトラックの運転手になる夢を諦めた。

全ての授業を終え先生は、中村さんは運転向いてねえけど、まあ頑張ってけろな、安全第一だからなと言った。
私は、はいと言い、卒業し、学科試験も無事に合格、念願の運転免許を取得した。
いまやすっかり無傷でゴールドになってしまったその運転免許は、私のあたらしいお守りになった。

いまでも、私は車を運転するひとを尊敬する。
特にトレーラーなんかを見た日には、あんな巨大なものをスイスイ運転できる人のことを、ただひたすらすげえとしか言えない。語彙力が消える。
ロンドンに住んでいた時、私はどんなに時間がかかってもあのかの有名なダブルデッカーバスに乗って移動していた。
からなず二階の先頭に乗り、スマホも本も見ずにひたすらにバスそのものを楽しんでいた。
一年365日ほぼ毎日、仕事にも遊びにも乗っていたのだが、飽きなかった。
自転車とか地下鉄の方が早いよ、と友人たちは口々に言っていたが、私にとってあの巨大なバスに乗るということそれ自体が移動以外の意味を持つのだよということは、なかなか理解されなかった。
自分がどう頑張ってもハンドルを握ることのできないおおきな乗り物に抱かれて、私の中に巣喰うあこがれをしっかりとあたためていたいのだ。

運転ができない。
というただそのことによって、私の中のあこがれは永遠に消えることはない。

手に入らないあこがれがある人生は、これはこれでロマンだよなぁと思いながら、私の目は今日もキラキラで走る車たちを見つめている。




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