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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<140>

方位磁針

「定刻より遅れて成田を飛び立って、フランクフルトに向かった。相変わらず機内では眠れない私……近くの席の小さい女の子がずっと咳をしていて、風邪をうつされてしまってベルリンに着いたとたん高熱を出し…….」
「中学の頃から憧れだったベルリンの壁を確かにこの目で見た。思わず心の中で『やってやった!』って叫んだ。あれから10年、本当に色々なことがあって……けれどとうとう、夢を叶えたのだ」
「ベルリンとポツダムを観光した後、また熱がぶり返してホテルで寝込んだ。帰国しようか悩んだけれど幸いなことに寝て起きたら少し楽になっていたので予定通りチェコに向かったけれど、ドレスデンで降りるつもりだったのに体調が万全じゃなかったので素通りした。悔しい。いつか絶対に行く」
「せっかくこの旅のためにコートを新調したのに今日のプラハは16度もある。本当に東欧の冬なの?横浜よりあったかい。寒いよりいいけれど……」
「ウィーンは今回の旅で一番気に入った街だ。旅程を組むミスでレオポルト美術館しか行かれなかったけれど、クリムトやシーレを観れて感無量。彼らが確かに存在していた街に自分もいると思うとたまらない」

帰国してから旧東ドイツからハンガリーまでの4か国の紀行を書きつけている。既に100ページを超したけれどまだまだ終わりそうもない。店で暇な時にはずっとペンを走らせているが、ようやく念願のパソコンを手に入れたので家では次の旅の計画を練るのに寝食も忘れて夢中になっている。

ブダペスト。
共産政権時代、(政治的に)西側に近かった国ほど今もなお東欧の面影が残っているのだと誰かが言っていたけれどブダペストは私が想像していた通りの、東の国という趣だった。滞在中ずっと曇天だったからかも知れないし、そうでないかも知れないけれど、とにかく私はブダペストのあの暗さが気に入った。

「ブダペストに夕刻に到着。ホテルは中心地から少し離れている。荷解きして少し休んでから一番近くにあるというスーパーマーケットまで歩いて行ったーー近い?15分は歩いたと思う。
スーパーマーケットで飲み物とお菓子を買った。辺りはすっかり暗くなっている。東欧の冬の夜の暗さと寒さ、そして静けさ。ホテルに戻ろうとするが、霧が深くて、いや、霧が濃いというべきか?1メートル先ですらよく見えない。少し遠くの風景はボウっと暗がりに浮かんでいるのに、足元の向こうはまるで見えない。数か月前私は『霧の都ロンドン』に行ったけれど……ロンドンのそれは本物じゃなくスモッグなんだってこれまた誰かが言っていたっけ……ああ!参った!文字通り、一寸先は闇だ。このまま夜道を彷徨い続けるしかないのだろうか。私は極度の方向音痴で、おまけにこの霧。ホテルにたどり着けるとは到底思えない。地図をバッグから取り出して広げても見えない、見えない……

『方位磁針を持たない渡り鳥』ーーこれは私が詩を書いていた中学生時代に自分に付けた二つ名だ。生まれながらにして人生の方向音痴。ああ、けれど今は無事にホテルにたどり着いて白いシーツに潜り込んで眠りたい。それだけだ……。
行き交う人たちの表情さえ見えない、それどころかロンドンやベルリンやウィーンの道を知っているブーツのつま先さえ霞んでいる。
『冬のヨーロッパは格別です』というフランクフルト到着前の機内アナウンスをふと思い出す。しんと冴えた空気、寒さ、暗さ。

このままここにいて、歩き回らない方がいいのかも知れない、けれど夜が明けるまでここにいるわけにもいかない、どうしよう、足早に通り過ぎる人に声を掛けてみようかと思っていると聞き覚えのある声を耳にした。先ほどホテルのロビーで少し会話した日本人の夫婦らしき中年の男女。音楽家だと言っていたっけ。
(助かった、九死に一生を得るとはこのことだ)
『ああ、スーパーに行ってらしたの。私たちも今から行くところなのよ。この先真っ直ぐ行って右の角でしたっけ。ふふ、ホテルはすぐそこ、3分も掛からないわ。すごい霧ね、さぞかし心細かったでしょう』
『有難うございます』

霧の向こう、夜のしじまに消えてゆく夫婦。ホテルまで真っ直ぐ歩くーーああ、ここだ。胸をなでおろす。
熱いシャワーを浴びて、スーパーで買ったミネラルウォーターを飲んで一息つく。明日はまずどこに行こう?

眠りにつく前にカーテンを開けてみた。霧に包まれたブダペストの街。綺麗だ。冬のヨーロッパは格別、ああ、本当に」

今日はここまで書けた。続きはまた明日以降。早く家に帰って5月の旅行先を決めたい。またきっと東欧に行くことになるだろうけれど……