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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<132>

ひまわり

夜中に目覚め、お菓子を食べながら大英博物館で買った図録を眺めた。今日はどこへ行こう。行く前にはあれも観たい、ここも行きたいと思っていたけれど、計画的な旅は私には出来ないらしい。思うがままに散策しよう。私は自由だ、自由なのだ。

とはいっても、やはり美術館巡りはしたかった。夜が明けるとまた例の商店でサンドウィッチとジュースを買って部屋で食べながら今日はナショナルギャラリーに行くと決めた。

美術館か……久しぶりだ。最後に行ったのはいつだったか。ああ、メトロポリタン美術館。あの頃の私にはもう二度と海外には行かれないかも知れないからなんでも見てやろうという気持ちと、数年後には絶対に外国で仕事をするんだという意気込みが同時に存在していたっけ。まさか夜の商売をしてその稼ぎで旅行をするだなんて考えてもいなかった。どうしてこうなってしまったのだろう。なんて波乱万丈な我が人生!普通になりたい。夜寝て朝起きたら普通の人になっていますようにと願い続けて24年。あといくつ寝れば私は普通になれるのだろう。そもそも普通ってことがなんだかよく分からない。けれど自分が普通じゃないと分かるくらいには、そして私の周りのおかしな人間をおかしいと思えるくらいには私はまともだ。普通になりたい?いや、私は普通になりたいのでもまともになりたいのでもなく、幸せになりたいのだ……幸せならば普通じゃなくてもまともじゃなくてもいいし普通でもまともでもいい。だがロンドンくんだりまで来てこんなことを考えている私はやはりあまりまともじゃないに違いない。

ナショナルギャラリーまで歩いて行こう。時間だけはたっぷりある。絆創膏も貼り直したし、新しいブーツにロンドンの道を覚えさせよう。

ダヴィンチ、フェルメール、レンブラント、モネ、ゴッホ……大英博物館もそうだが、超一級の人類の遺産が無料で鑑賞出来てしまうことが驚きだ。いつか私が大金持ちに、それこそ好きな絵画を集めることが出来るくらいの億万長者になったならば独り占めして部屋で眺めるような悪趣味なことはせず、小さくてもいいからギャラリーを作って来客を紅茶でもてなしたいーーいや、それも違う。絵画にはそれに相応しい場所にあるべきだし、私が億万長者になったら美術品など買わずに一生旅をしながら暮らしたい。好きなホテルに泊まって、ふらっと入ったブティックの素敵な服を着て、街の商店でサンドウィッチや総菜を買って公園のベンチで食べるんだ……。
そんなことを考えながらギャラリーの2、3の同じ部屋をぐるぐるしていると警備員のおじさんと目が合って、苦笑いされてしまった。私は方向音痴、人生を行ったり来たり。地図を持っていてもそれ通りに歩めない。人生はなにが起きるか分からないからこそ楽しいんだと誰かが言っていた。けれどもう辛いだけの普通じゃない経験はなどしたくはない。誰かに片思いをしてフラれたり、受験や就職に失敗するといった普通の挫折を自分は経験していないことに気づく。そんな風に自分で選んだことで苦労してみたい。否、したくはないけれども苦労しがいのない苦労ほど人生において無意味で虚しく苦しいことなんてないじゃないか。たかが24年しか生きていないが、それを私はよく知っている……

ミュージアムショップでゴッホの絵本を買った。ゴッホは好きだけれどもすごく好きなわけでもない。表紙のイラストになんとなく惹かれて気が付けば手に取っていた。

最近私の指名客になった人に、ロンドンへ旅行すると話した。絵画が好きだってことも。
「僕も絵が好きなんですよ」
「観る方ですか、それとも描く方ですか」
「集める方」
上品な身なりをして、俳優のサム・ウォーターストンに似た顔をしているその客はいつも高級なお菓子や本をお土産に持って来る。なんでも鎌倉の一軒家に住んでいて、どうやら金融関係の仕事をしているらしいということが話から分かった。つまりはお金持ちだ。
「この間、知り合いがやってる画廊に行ったんですよ。本当はシャガールが欲しかったのだけどさすがに手が出せなくてね。だからムンクの版画を買って、グランドピアノの上に飾っているんですよ」
「ムンクのどの作品ですか」
「タイトルはなんだったっけな。橋の上で女の人が三人並んでる……」
この人は果たしてムンクが好きなのだろうか。
「私はムンクが大好きなんです。いつかオスロに行ってムンクが描いた風景を観てみたいんです」と言おうと思ってやめた。この人は絵画の愛好家ではなくコレクターなのだろう。それも投資目的かなにかの。でもそんなことはどうでもよかった。あの人はただの客だ。尤も、あの店にやって来る客の中ではかなりの上客なのは疑いなく、乱暴なこともしなければ時間内のほとんどをこうしたお喋りで過ごせる楽な客だけれども。

質素な私のロンドンの部屋。ナショナルギャラリーからの途中で買ったフィッシュアンドチップスをつまみながらゴッホの絵本を読んだーー油で汚れないように気を付けながら。

咲き乱れるひまわりがまるで太陽のように黄色く輝いている村に住むカミーユ少年。ある日、風変わりな男が村にやって来た。その男は文無しで友達もいない。けれどカミーユと郵便配達夫の父親は画家と名乗るその男を気に入り家に招き入れ、男は家族全員の肖像を描いた。風変わりな男の風変わりなタッチと色彩の肖像をカミーユは気に入って友達に見せるとみんなは笑ってバカにしたのでカミーユは悲しくなった。大人たちもみんな
「お絵かきなんてお遊びはやめて、まともな職に就くこったな!」と男に厳しく当たる始末。
「よくお聞き、カミーユ。人ってやつはな、他とは違うものに笑ったりするもんなんだ。けど父さんはいつか、彼の絵をみんなが好きになる日がやってくると思っているんだよ」
(ああ、僕がお金持ちなら彼の絵を全部買うんだけどなぁ)
ある日、男は村を去った。カミーユの家に輝くひまわりの絵を残して。
ーーカミーユのお父さんが言っていたことは本当だった。今じゃヴィンセントの絵は億万長者にしか買えないけれど、世界中の人々がヴィンセントのたった一枚の絵を観に来るために美術館に集まって来る。そう、まるで太陽のように輝く黄色いひまわりを観るためにね。

私は泣いた。こんなに泣いたのはミレニアムの大晦日の夜以来だ。店でひとり、テレビの向こうのどこかの国で花火が上がっているのを見て泣いたっけ。ああ、黄色い太陽が見たいーーけれどどんなに恋焦がれても今日もロンドンは曇天だから眺めるひまわりがない。