見出し画像

雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<133>

都会のノイズ

せっかくロンドンまで来たのに、有名な観光スポットには足を運ばなかった。バッキンガム宮殿もビッグベンも見ずに美術鑑賞と街歩きだけで一日が終わる。一体なにをしにロンドンまで行ったのかと呆れられるかもしれないが、私にはこういう旅が合っているのだと思う。ああ、出発前に勲さんに絵葉書送るね、と言ったっけ。けれどいいや、書くことなんて思い浮かばないから。

2年前の今頃はクラブ遊び仲間のリサとロサンゼルス旅行をしていた。あの時も観光地には行かず、連日ショッピングとジャンクフードのテイクアウトばかり。チープな服や化粧品、それにタコスやピザ。ブランド品には興味がないからショッピングモールやドラッグストア、スーパーで買い物をしたけれど楽しかった。観光地より私は普通の人が普通に暮らしている場所の方が断然惹かれるし興味がある。

街の中心まで出てみた。ピカデリーサーカス、オックスフォードストリート。観光客と街の人だらけのこの場所、都会のノイズが心地よい。私はよそ者だけれど、そんなことを気にする人なんていやしない。雑踏に紛れその一部になる感覚がたまらない。都会生まれ都会育ちの私にはこうした場所にいると生きているという実感がわいてくる。私はいずれまたどこかへ旅をするだろうけれども、小さな町や村より都会の方が断然居心地がいいと感じるに違いない。私は大自然よりもひとの情念が感じられるものが好きだ。そしてそのような、ひとが生きた、存在していた証である遺跡や美術作品にもたまらなく心惹かれるが、今、ひとが生きている街がもっと好きだ。

今日もレストランやパブには入らず、露店や商店で買ったものを部屋や公園で食べている。そしてロンドンらしい土産をなに一つ買っていないどころか、写真すらロクに撮っていないことに気づく。写真に収めたい風景がないわけじゃない。この旅行は失敗だったのか?アパートと店との往復の毎日に飽き飽きしてなんとなく飛び出してみたものの、心から楽しんでるとはいえず、かといって帰りたいわけでもない。思わずカメラを取り出して部屋の写真を撮った。3つのベッドの他はなんの飾り気もない小さい机と電話とテレビ、冷蔵庫、電気ポット、それに電話帳と聖書があるだけの簡素な部屋。

電話帳をめくりながら、早いところパソコンを手に入れたいと思った。旅行の計画を立てるのに便利だし、欲しい情報にすぐアクセスできる。それにブログというものをやってみたい。日々考えていることを綴ったり、いずれ沢山旅をすることが出来たら旅行記なんかも投稿して。帰国したらすぐに電気屋に行こう。

あてのない散策とスーパーやドラッグストアでの買い物と、いくつかの美術館や博物館を訪れただけで私の初のヨーロッパ旅行は終わってしまった。明日は帰国だーーこれでよかったのだろうか。分からないが、今度来ることがあったらそれは好きなバンドのギグを観に行くときかな……そう考えていたら急に伝説のライブハウス、100 Clubを見たくなって部屋を飛び出した。今日は誰のギグが行われるんだろう、もしかして私の好きなバンドが出るかも知れない。何度か歩いたオックスフォードストリート。見つけるのは容易だった。いや、これまで素通りしていたに違いない。どうして私は100 Clubのことを忘れていたのだろう。中高生の頃はあんなにロックに、パンクに夢中だったのに。色んなことがありすぎて忘れちまっていた……。

私は決めた。これからは旅に出よう。音楽に夢中になる前の私は外国旅行に憧れていたじゃないか。まだそこそこ純粋さが残っていた子供時代……いつかベルリンやパリやソ連、ロシアにも行ったらタイムマシンに乗って君の夢は叶うよって言って慰めてやるんだ。でもあの子のことだからきっと信じないだろうし、こんな形で旅をすることになるよと知らせるのも残酷だ。夜の商売なんかしてそのお金で、ってさ。ああ、私はあんなに憧れていたロンドンに今いるのに、泣きたくて遣り切れない。けれどこれからは後先のこと考えずに旅をするんだ。後先のことを考えて必死になったって無駄だったじゃないか。だったら好きなことをする。今のことしか考えない。そんな生き方しか自分には出来ないんだから……。

いつの間にか到着の日と同じように泥のように眠ってしまって目覚め、窓の外を見るとまだ暗い。まだ4時か……髪の毛がギシギシする硬水のシャワーを浴び身支度をしてから、7日間そうしてきたようにホテルの近くの商店でサンドウィッチとお菓子を買って来て部屋で食べたけれど、もう、あのインド系と思しき親父の愛想のない顔を見ることはないのだろうなと思うと妙に切なくなった。

チェックアウトを済ませるとロビーで往きと同じく送迎車を待った。まだ外は暗い。今日も曇天なのだろうか。滞在中、一度も出会うことがなかったけれど私と同年代と思われる日本人女性2人組がこのホテルに泊まっていたようだ。彼女たちは4日の滞在だったそうだが、充実した時間を過ごしていたらしい。もっといたい、帰りたくないとしきりに口にしている。私だって帰りたくはない。本当のことを言えばもっと色々なところに行きたかった。パブで好きじゃないビールを飲んで居合わせた人と他愛ないお喋りをしたり、知らないバンドのライブを観たりもしたかった。

空港の免税店で香水とフォートナム&メイソンの紅茶とビスケットのセットを買った。香水は自分に、フォートナム&メイソンはスーパーを退職する春山さんに。

ああ、帰りたくない。もっと色々な場所に足を運べばよかった……。解けた紐を結ぶ。ブーツには少し傷がついているーーこのブーツはロンドンの街を覚えているのだ。私がこの街を歩いたたった一人の証人なのだ。帰路は松花堂弁当を選べるだろうか。