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酔いどれ雑記 68 Mr. Longman

高校の頃に憧れ半分、恋心半分の先生がいました。親と同年代、いや、もうちょっと上だったかもしれない、中年の英語の先生。私の高校は偏差値が40前後にも関わらず、その先生の方針でかなりハイレベルなことをしていました。英語はreaderとbasicという科目に分かれていたのですが、先生はbasic担当。basicとはいいますが、なんと(?)授業はすべて英語で行われ、BBCのテキストを使用していました。当然、米語ではなく英語、ブリティッシュ・イングリッシュです。ほぼ学期毎に「プロジェクト」と称したグループでの課題が出るのですが、何時間にも渡る、英語の成り立ちについてのBBCの番組のビデオを見なくてはいけないものなんかもありました。デーン人がどうだとか、欽定訳聖書だの、ジェイムス・ジョイスはアイルランド人なのに英語で作品を書いたのは何故か......etc。偏差値40程度の高校生がやる内容とはとても思えませんでしたが、私は英語が大好きでしたので、楽しくて仕方ありませんでした。

入学して一番初めの授業からもう、私はその先生ーー元木先生に惹かれてしまいました。見た目はさえないおじさんで、服もほとんど毎日同じ。風呂にも入ってるのだかどうだか......。少しでも先生に近づきたくて、先生の言葉を1つでも聞き漏らすまいと必死になり、先生が使っているというロングマンの辞書を買い、中学の時以上に英語の勉強に熱を入れました。

私の住処から学校までは徒歩30分ちょっとありました。家のすぐ近くからバスもありましたが節約のために毎日歩きでした。そして先生も自宅から歩いて来ていましたので(先生の住処の方が学校から遠い!普通は歩くような距離ではありません)、朝に途中で会うと話しながら一緒に学校に行っていました。通りがかるバス(ほとんどうちの高校の生徒しか乗っていない)から冷やかしの声が聞こえてくることもあったのですが、私は嬉しかったです。途中、先生が立ち止まって靴の紐を結ぶと私の足も自然に止まる。先生が販売機で煙草を買う時もそう。そしてまた歩き始める。あのドキドキったらもう、なかったです。

先生は当然ですが私が先生に向ける感情に気づいていました。私から好きだとか、憧れているだとか言ったことは一切ありませんが、あれではどう見ても分かってしまうだろうなと。そしてそれは他の生徒や先生にも感づかれていましたし、私はからかわれても否定しませんでした。

ある日の授業中にちょっとした事件が起こりました。例のBBCのテキスト(FOLLOW MEという名前でした)に夫婦と思われる2人の会話文が載っていて、男性が妻を'darling'と呼んでいました。そして先生が
'In America,they say ”honey”'「アメリカでは『(ダーリンではなく)ハニー』って言う」と解説しながら私の机をこつんと叩いたものですから
「え、今『ハニー』って言ったよね!?」と周りの子たちが騒ぎ始めました。どうやらハニーという部分だけ耳に入ったみたいで、私と先生がまるでデキてるかのようにはやし立てました。違うのに......と思いながらも、なぜ先生は「ハニー」のところで私の机を叩いたんだろう?とドキドキしてしまいました。

2年の3学期のことです。クラスは別だけれど委員会が一緒だったりしてよくお喋りしてた子がすれ違いざまに
「何を聞いても驚かないでね」と言ってきました。私は
「???なんじゃそりゃ?」と思っただけで別段気にしませんでした。ですがその数日後、英語の選択授業(担当は元木先生ではない)のときにその発言の真意を知ることとなりました。席が近くの別のクラスの子が担当の先生に
「元木って、辞めてロンドンに行くって本当ですか?」って訊いたのです。先生は「あ、そうよ、3月いっぱいで」と......。

私は、え......嘘でしょ?と思い信じたくなくて固まってしまいました。授業中は言葉が出ませんでしたが、教室に帰って仲のいい子に
「元木、ロンドン行くってこと知ってた?」って訊いたら
「うん......南くん(私)には絶対言うなって言われてたんだ......」と。私は
「なんだよちきしょう!なんで、なんでなの......」と言って大泣きしました。どうやらそのことはクラスのほとんどの子が知ってたようなのです。その日の終りのホームルームになっても私は泣いていました。その様子を見た担任は
「ああ、知っちゃったのか......」となぜ私が泣いているのかピンときたのかそう呟いていました。そして帰りに呼ばれ
「元木先生、心配してらしたのよ。『あいつが知ったらもう勉強しなくなるから黙ってて』って。でも元気出しなさいな、いつまでも泣いてないで」と言われました。私はこの担任が苦手というか大嫌いでしたし、全く元気など出ませんでした。嫌いな担任からではなく、誰から言われても元気など出るわけがなかったのですが。帰りがけに「何を聞いても~」と言ってきた子に会ったので通りすがりに「この間のあれ......分かった......」と言って泣きながら立ち去りました。いつも一緒に帰ってる友達2人をおいて。

その翌日、通学路ーーバス通りで先生に会いました。そして
「話、聞きました......」と切り出しました。先生がなんて答えたか覚えていませんが、いつものようにイギリス文学や学校の話をしながら学校に行きました。そして私は「頑張ろう、いつか先生と肩を並べられるくらいに」と心に誓いました。

修了式の日、ホームルームが終わった後に職員室の先生の所へ行きました。プレゼントにメッセージカードと手紙を添えて。いつも机の上にあった茶渋が付いた湯飲みと水色のマイルドセブン、これを見るのは今日で最後だ......少し話をした後、一緒に写真を撮ってもらって、握手で別れました。もう一生手を洗いたくないと思ったのはあれが最初です。メッセージカードにはこっぱずかしいことーーずっとあなたの崇拝者です、と英語で書きました。カードの柄もよく覚えています。

先生がロンドンに行ってからは文通をし、私が大学生になってからも続きましたが、退学してしまってからは気まずさから連絡を取るのをやめてしまいました。そして私が会社員になってすぐ、先生とばったり会いました。仕事の終りにバイトの子たち10人くらいとワイワイとバカ話をしながら歩いているときに。先生と目が合いましたが何も言えませんでした。向こうも私だと明らかに気付いた様子でしたが、黙って通り過ぎました。ああ、帰って来たんだな、先生......。

その後、しばらく経って先生が結婚したと友達から聞きました。相手の方は同じく教員だそうです。友達は例の私の嫌いな担任と仲が良くて卒業後にもたまに会っていて、情報源はそこからでした。担任は初めてその話を知ったとき先生の結婚相手は私だと思ったと言っていたそうです。

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