見出し画像

ここに来る道…ここからの未来

暴力から逃れられなかったのではなく暴力を受けていた自らをごまかし、そこにしがみ付いていた人生だった。

しかし、お陰様で大きな病気もせず半世紀を生きて来られたことは、私にとって掛けがえのない宝物で、先ずそこには感謝しかない。

いま、ようやく数々の暴力の呪縛から逃れ、同調圧力によってコントロールされず、自然の草木と同根である私の魂を見つめ、自然環境に依存しサポートを受け、赴くままに生きる人生のスタートラインに立った。
これまでの息苦しさをここに洗い出し見ることで先の未来に進もうと思う。

『人にやさしく 自分にきびしく』

暴力を受け入れる体質になったそもそもの始まりは、小学1年生の時。父が経営していた自動車整備工場で、お客様に配っていた月めくりカレンダーのひとことを、誤って理解し感銘をうけてしまったことのような気がする。

いや、そこで感銘を受ける体制が出来上がっていた。。。ということは、もっと幼いころからそれを正当化せざるを得なかった何かがあったのかも知れない。
私は「自分にきびしく」するということは、我慢することと置き換え、美徳としてしまっていた。

小学生時代は、学校、先生、親、周りの大人たちの言うことを「良く」聞くいい子だった。
そのころ、両親が毎晩争う声に怯えていた。
身体が弱かった母が不憫に思えた。
夫婦間の関係は悪くても、父は子供たちには優しく、自営の工場経営で一家を支え一生懸命働いていた。

我儘を言ったら父母の負担になるし、争いが増すだろう。だから、両親が喜ぶように、物分かりの良い子で過ごした。

また、母方の祖父母も離婚しており、祖父の後妻であるのもう一人の祖母が居る鋳物工場を営んでいた祖父の家へ夏休みに泊まりに行き、祖父母達との楽しい沢山の思い出がある。
けれどそこでも大人たちの複雑な感情の其々の事情を私は汲みとり、我慢をしていた。

それが、私が安息を得るための手段だった。
それしか無かった。
そうすれば、皆が仲良く暮らせると信じていた。

しかしそうはならなかった。

やがて両親は離婚した。それは、皆が幸せの方向にむかう為に、その方法が最善であるならばそれで良いと解釈し受け入れた。
毎晩争う声も聞かなくて済むと、少し安心した記憶もある。

そして母と母方の祖母、弟と4人暮らしになった。母は生計を維持するために弱い身体で昼も夜もなく働いていたから。
そんな母に負担をかけまいと、私の我慢を美徳とする状況はなんら変わることは無かった。

本当に母は大変だったのだろう…せっかく離婚して小さな自由を得たのに、たった5年で亡くなった。

父は現在も元気で人生を楽しんでいる。仏となった母は、生前持っていたネガティブな感情は全て水に流し私たちのために父の健康を支えてくれているのだろうと勝手に解釈している。

母は一人っ子で、思ったことは何でもすぐ言葉に表し、いつも元気で明るく、やりたいことも我慢して溜めておくことはできない自由人だった。そんな母のサポートを今の私は受けているような気もする。

一方で、『夢みる夢子さん』

と弟に言われるほどこの社会においては現実味のない私の自由な言動が昔からあった。

これは、多くの人から理解されない私の一面と言うより、本質なのだ。
この本質を強く求めると発生する、一般常識や世間体という枠組みの中で、やってはいけないこと、言ってはいけないこと等を押し付けてくる同調圧力が暴力と化し苦しかった。

『暴力とは、身体的なものだけではなく、精神的な圧力も暴力だと思っている。』

夫と義母と私の3人ではじまった結婚生活はまさにその連続だった。
夫にとっても、隠してはいたが時々垣間見る私の社会性のなさは不快だったに違いない。
思いはすれ違い、争いが絶えない関係だった。

結婚生活は圧力が全てではなく楽しい、優しい、温かく嬉しい思い出も沢山ある。

しかし、それが明らかに暴力を受けているのに「これは暴力ではない」と思わせてしまうから厄介なのだ。

やがて、一人娘が誕生し、子育てを通して圧力はさらに拍車をかけた。
けれど、我慢が美徳の精神を養ってきた私は、いつの時も
「嫌なことばかりではない。良いこともいっぱいあるのだから、与えられた暮らしの中から幸せを見つけ、わがままは言わず我慢すれば丸く収まり安心な暮らしが続く」と

それに抗うこともせず、隠しつつ争いを出来る限り避け、二極のバランスを保とうと足掻いていたが、とうとう本性を隠しきれず家族と離れる破目になった。

夫婦生活はお互い我慢が円満の秘訣とおっしゃ方もいるけれど、はたしてそうだそろうか…と疑問に思う。それについてはまた後に書く機会があったら綴ってみようと思う。

ともあれ、私の欺瞞に満ちた生き方が、私自身が幼いころに父母の争いに毎晩怯えていた苦しい経験を、大切な一人娘にも与えてしまったことを本当に申し訳なく思っている。

『圧力という暴力は入れ子になって存在する』

家族と離れ一人になった私は自由を手に入れた・・・と思った。

私は当時まだ15歳だった娘を連れて出ることが出来なかった。けれど、元の家の鍵も持っており車で10分程のすぐに自由に娘に会いに行ける距離の賃貸を借り、パートで勤めていた企業に、いつかは独立を考えていることを理解してもらった上で正社員として雇用してもらった。
また別の組織にも縁があり、休みは返上して新しいことに取り組む暮らしをしていた。

会社も、学ばせてもらった組織も、私を教育する時間とエネルギーを費やしてくれた。とても勉強になった。
私にとってどちらへ行くことも
娘と愛犬と暮らせなくなった寂しさを紛らわしす
心の支えだった。

「お金がなければ幸せになれない。自分のやりたいことより稼げるスキルを身に着けるのが先。」

と、お世話になっていた経営財務管理アプリケーションの開発プロジェクトを進める組織では教えられた。

本当に、この社会を悠々と生き抜くためにはその通りだと思い。好きなことではなかったけれど、親切に色々なことを教えてくれていた組織が進めるこのプロジェクトを動かす一端になることが恩返しになるという気持ちがあり。。。
ハラスメントも受けているにもかかわらず、お金のためなら、と自分を抑えてそこに身を投じた。
ここにも我慢が美徳の精神が蔓延っていた。

しかし、組織に属している限り、その恩恵と引き換えに個人の自由は存在しないことに気づく出来事があった。
やりたいことをやらせてもらえない圧力がかかったのだ。

一つのことに気づくと、出来ないこと、言えないこと、言葉にもならない圧力がこれまでにも多くそこに存在していたのに、そこに我慢していれば何とかなると思い、自らしがみ付いていた自己欺瞞だらけの情けない自分がはっきりと見えた。

さらに大学受験を餌に、その組織のプロジェクトに巻き込んでいた娘にも問題が生じていた。
組織での指導のお陰で希望の大学には受かったけれど、今度はその組織を選ぶか大学を選ぶかの選択を迫られ、学歴至上主義の父親と、このお金に支配された世の中を悠々と生きるために好きでもないことをやり自己欺瞞に陥っている自分との狭間に、娘ももがき苦しみ、心身に異変が生じた。
時々、パニックに陥る障害が起きるようになってしまった。

これは私が蒔いた種だ。
娘がここから立ち直るため自己欺瞞に生きることなく暮らせる場所を作ろうと思う。

この世界は結局、暴力のない自由を求めた先にも狂った経済の上に成り立つ社会に在る圧力という暴力は入れ子のように、逃れても逃れても存在している。

ぐるっと360度。本来の『私』になった。 私の本質

ある本との出会いをきっかけに、自分が本当に望む世界を作ることにこの身を投じなければ魂が癒されることなく一生を終えてしまうことに気づいた。



子供を授かってから、それまで考えもしなかった先々の未来に目が向くようになった私は、地球環境のサイクルを壊さない暮らしを見据え様々な選択をした。

しかしそれを選ぼうとすると、この社会ではそれは不都合らしい。
必ず何らかの圧力がかかり、否定され、家族、友人の間であっても小さな小競り合いが起き、排除され、とても生きづらくなるのです。

「そんなことしてもお金にならないよ」と否定されたりもしました。
どうして、人の経済活動より、自然を大切にすることが優先されてはいけないのでしょうか。

否定的な人たちは、自然が無くてもお金があれば生き抜くことが出来るとでも思っているのでしょうか。

いいえ、生きられません。

私たちはお金から生まれたのではなく、自然から生まれたのですから。

多くの人は盲目のまま世のため、人のため、金のために日々、自分の心を蔑ろにし限りある貴重な時間とエネルギー、地球の資源を費やしている。

本当の自分が発する魂の意見は表に出さず、社会の中の一員としての意見を正義と掲げ社会のために働く。
もう、この自己欺瞞に満ちたサイクルに私は便乗するわけにはいかない。
水と大地は私たちの父母であり、草木や動物たち、虫たち、石ころ、さらには藁一本、糸くずまで全て我と同根の兄弟、姉妹。

豊かな自然と互いに依存し支えあい、今、経済至上主義の社会からの暴力、圧力を受けて、自分はなぜ生まれて来て、どう生きたいのか考える隙も与えられず傷ついている人々が、本当の心の自由を取り戻せる未来を残せる暮らしを選択する。

『ひょうたん市場、吉田ケンゴさんたちとの出会い』

画像2
アパートで飾られていた(笑)
ケンゴマンのロケットストーブ

気づきは始まるといろいろなことが変わり始め、一つ手放すと違う何かを手に入れる隙間が出来るらしい。
これは、本当。
やってみるとわかる。

お金を稼ぐためのスキルを磨くことを手放した頃、SNSで吉田ケンゴさんという人が作る「ロケットストーブ」という超~カッコいいものの存在を知った。
ロケットストーブで検索したら、こんなにカッコいいロケットストーブは他に無かった。
本当にロケットみたいな形をしていて、落ちている木の枝さえあれば鍋をかけて煮炊きが出来るもの。
私はすぐそれを手に入れた。アパート暮らしで使えないのに…。でも、精巧なデザイン、作り・・・工程を想像したらずっと眺めていられる代物だ。
ケンゴさんは宮崎県でひょうたん市場という国の生活インフラを利用せず、既存のものを全て手放し、ないものから生み出す。
あるものからは絶対に創造できない文化水準の高い暮らしをしており、壊れてしまうかも知れない先の先の未来を想像し、そうなる前にここに新しい経済の場を生み出すためのキャンプを張っている方。
彼が作る土壁の家、市場を開催する建物。その造形美は人並み外れている。
ひょうたん市場作りに使う藁縄を綯うことも手伝うことにして、出来上がった藁縄を積んで、私は2020年7月の末、何かに突き動かされるように宮崎までコロナ禍の中、低リスクなマイカーで単独で向かう方法を選んで群馬から彼らに会いに行った。

往復2600kmの4泊5日の旅だった。

彼らは暖かく迎え入れてくれて色々な話をした。
この時私は何に遠慮することもなく心の言葉を発していた。
ずっと前から心に抱いていて、誰とも分かり合えず、人との壁を作る原因だった思い。それがケンゴさんには通じた。共有できた。とても嬉しかった。
思いはいつか現実へ導いてくれることを実感した。こうしてひょうたん市場に繋がれたことは、何より心の支えで、ここから始まる新しい繋がりがどんなものなのか楽しみで、未来がワクワクする。

いつか、娘ともこのワクワクを共有でき、私が心に作ってしまった傷を癒すことが出来たら嬉しい。私も土壁の家が好きだし、自分で作りたいと思う。また、この時感じたひょうたん市場のことも、後ほど記憶が新しいうちに綴ろう。

『これからの未来』

こうして私は、今までしがみ付いてきたものを手放し、その代わりロケットストーブと藁の束を手に入れた。
2020年10月1日に雇用を外れ、本当の自分の人生を歩み始めた。
預金もなく、収入も今のところはあてはない。でも、私には藁がある。ここから生み出すのだ。。。。。生み出せるのか。ちょっと不安だ。いや、楽しみだ☆彡

皆さんの声援を力に生きていきます。
どうぞ( `・∀・´)ノご声援ヨロシクお願いします。

また、皆さんの命も地球にとっては大切な仲間です。皆さんが自分を騙して生きていると地球も苦しいのです。心のままに生きてください。。。

私もみなさんに声援を送ります。
たおやかに、逞しく、共に生きましょう!

画像1

読んでくださってありがとう。
芋虫ようかんをどうぞ♬
器はアボガドの皮を乾燥させたものです。

レシピ/晒しこしあん150g、水400ml、きび砂糖140g、小麦粉65g、片栗粉13g、焼き芋1本。
マイレシピ


✴︎2022年2月23日追記✴︎


この記事は2020年アパートに暮らしていた頃の記事です。
こうして、この後2020年12月にアパートを引き払い九州のひょうたん市場へ来ました。
その様子はマガジン「さあ!ひょうたん市場へ行くよ!」に書きました。


翌年の6月、ケンゴマンたちのホームがある
熊本県阿蘇市の森の中に一緒に移動することにし
現在は阿蘇の森に居候しています。
その様子はマガジン「阿蘇の森にて」に書いてます。

これから先のことはわかりませんが

私に残された時間

地球の環境と共に生きること
誰かの人生を生きるのではなく
本当の自分で生きることを
諦めずに進もうと思います。

✴︎応援投げ銭募集中✴︎
振込み先

ゆうちょ銀行 10420-06178351 フクダ スミコ
(沢村颯月は私の生きる心情を込めて考えたWebネームで、本名は福田寿美子です)

ゆうちょ以外の銀行から 048 普通預金 0617835

少額の応援も、このnoteのサポートより募ります。ありがたいです。





2020年12月〜この搾取とハラスメント、地球環境の破壊を容認する人の経済活動に薪をくべることをやめ、人々が自立して支え合う新しい経済や繋がりを創り出す目的で活動している宮崎県のひょうたん市場作りに参加予定。テントで寝袋のキャンプ暮らしになります。サポートで応援資金を募ってます!