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「読書」の世界を子どもたちに

 

突然だが、私は読書が好きだ。

 一番好きなジャンルは?と問われると難しいが、本なら大抵のものは好きだ。純文学も大衆小説もどちらも好きだし、現代文学も古典文学も大好きだ。強いて言えばミステリーとエッセイはよく読む。とにかく「本を読む」ということ自体が好きなのである。

 様々な意見・見解があると思うが、私は「読書」という営みは著者の価値観や独創性を紐解き、自らの人間性を育てる肥料になるものであると考えている。「たくさんの本を読むことは、たくさんの世界を渡り歩くことと同じだ。」と例える人もいるくらい、本にはたくさんの魅力が詰まっている。


 先日投稿した『「個性/無個性」に悩む人たちへ』でも触れたが、私は自分の個性や価値観というものは、内在的自己によって生み出されるものではなく、寧ろ色々な世界や事象、他人の価値観や考え方に触れることで自己を磨き上げていく過程で生まれるものだと考えている。それはまさに「塵も積もれば山となる」ということわざに表されるものだ。

 私の場合は読書という行為も、その「自己を磨き上げていく過程」に含まれていた。「孤独だったから読書をすることだけが楽しかった」なんてつまらない野暮なことは言わないが、読書が自分の人生にエッセンスを与えてくれたことは一度や二度ではない。


 だからここでひとつ、今まで感じてきた「読書の魅力」について語りたいと思う。大学で初等教育を専攻する私は、来週より教育実習に赴かなくてはならない。その時に子どもたちに読書の魅力を伝えられるように、そして人に読書の世界を広められるようにこのエッセイを書いていく。もちろん読書に苦手意識を感じている方にも向けてのエッセイになるだろうから、少し読んでみてほしい。エゴな独り言になるが、ご容赦願いたい。


【読書との出会い】

 出会いは小学5年生の頃だ。当時の私は壊滅的に何も続けることができない子どもだった。体を強くするために親に通わせてもらった体操教室は2か月で辞めるし、合気道なんて10級(一番簡単な級)を取って直ぐにやめた。流行っていたポケモンは、どんなに好きなポケモンでもレベル100になるまで育てることをしなかった。まさに典型的な「子ども」だったのである。

 ある日、唯一真面目に通っていた学習塾に新しい先生が来た。B先生(仮名)である。先生は自己紹介の際、私たち生徒に読書を勧めてくれた。この時の言葉とB先生の楽し気な表情が、私の読書への好奇心を掻き立てるものだったのである。


「現実とは違う世界に行ってみないか」


 そう言って彼は1冊の本のタイトルをホワイトボードに書きだした。「ぼくらの七日間戦争」というタイトルで、当時幼心に「戦争って7日間で終わるのか?」とナンセンスな疑問を持った記憶がある。

 後で知ったことだが、この本は1985年に出版されてから超ロングセラー小説になっており、近年では文庫化や漫画化もされている。今年の冬にはこの作品を踏襲した映画作品の上映も予定されており、時代を超えて愛され続けている作品だ。

 「現実とは違う世界」と紹介されたこの本を、私は無性に読みたくなった。次の日、学校の図書室に駆け込んでこの本を見つけたとき、新しい世界との邂逅に胸が強く高鳴っていた。

 そこからの時間は瞬く間に過ぎた。いつもはドッヂボールをしている昼休みまで利用して、むしゃぶりつくように読み耽った。それほどまでに魅力的な世界が、本の中に広がっていたのである。


 ほんの一部であるが、魅力を紹介させていただこう。

 まず、主人公の菊池英治をはじめとする個性豊かな「1年2組」の登場人物たち。「解放区」と名付けられた廃工場で彼らが紡いだ言葉はありありと等身大の彼らを表していた。当時、私と英治たちの年が近かったのも、魅力を感じた1つの要因かもしれない。

 また、彼らが大人を懲らしめる瞬間は堪らなく愉快であった。「大人の物差しで俺たち子どもを測るんじゃない!」という、子どもの頃に誰しもが抱く感情1つを武器に、大人という理不尽に立ち向かっていく。その姿は現実の私たちが失ってしまった熱量で強く熱せられた鋼のようである。

 そして彼らは物語の中で、様々な理不尽に対して真っ向から愚直に悩み、議論し、行動していた。鋼を玉鋼に製錬するように、彼らの心は仲間たちとの関係性の中で研磨され、個々の個性を光らせていく。


 私が覗き込んだ世界の中で、彼らはまさしく生きていた。喜び、泣き、笑う彼らの表情・空気感・眼差しを私は間違いなく「見た」と断言できる。


【読書から得たもの】

 先刻、私は何も続けることができない子どもだったと述べたが、読書だけは別になった。暇があれば図書室や地域の図書館に入り浸り、本の虫となった。そこから得たものは、普段の生活から窺い知ることのできない、深い深い存在だった。

 太宰治の「人間失格」に純文学の難しさを教わったし、ダンテ・アリギエーリによる「神曲」に叙情詩の何たるかを教えてもらった。ヴォルフガング・ホールバインの「ノーチラス号の冒険 シリーズ」に描かれている数々の冒険に心踊らせたかと思えば、コルネーリア・フンケの「竜の騎士」の王道ファンタジー的展開に心を震わせたこともある。

 ここに挙げたのは数冊であるが、目を瞑れば今まで読んできた本たちが思い出される。そして驚くことに、表紙を見たりタイトルを思い出したりすると、当時感じていた気持ちをありありと思い出すことができる。そのくらい、本当に読書に熱中していたのである。読書は「心の動きの豊かさ」を与えてくれていた。

 そしてどの本も、私に様々な知見や考え方、時には価値観を与えてくれた。宮部みゆきの「ブレイブストーリー」からは自分の運命を自分で決める勇気を学んだし、渡航の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」からは、言葉では言い表せない信頼関係の形について、その在り方の美しさ・醜さを学んだ。星野源の「それでも生活はつづく」というエッセイから、生きることの難しさと、堅苦しく生きることのバカバカしさを教えてもらった。

 本のジャンルなど関係ない。そこに本がある限り、どこまでも読者の世界は広がっていくのだ。

 また、漢字や日本語表現の修得に読書は非常に効果的である。読めない漢字があれば大人に尋ねてみたり、部首で漢和辞典を引いてみたり。今思えば「解読」に近い読書の手法だったのかもしれないが、そうやってゆっくりと葉巻を燻らせるように本を読むのも、私なりの楽しみ方の1つであった。その経験は今このように文章を作成する際に役立っている。


【読書の意味】

 長々と私の読書経験について書いてきたが、既にここまでこのエッセイを読んでいることも「読書」に通ずる行いであることを読者の皆様にはお伝えしたい。

 「読書」とは、書かれている他人の言葉を飲み込んで反芻し、結果を自分なりに心の中に落とし込むことでようやくその意味を成す行いだ。そのような性質を持つからこそ、初めに述べたように「自らの人間性を育てる肥料になる」のである。

 このエッセイに書き記した私の言葉を、全く正確に理解することは私以外にはできない。もしかしたら、このエッセイを何日か後に読み返す私でさえ、今の私の言葉を正確に理解することはできないかもしれない。

 それでも人間は言葉を紡ぐ。その営みはある種自らの存在をこの世界に残したいという、エゴイスティックな祈りのようなものだと言える。

 分厚い本でも、薄っぺらいエッセイでも言葉の力は変わらない。大切なのはそこから自分は何を感じ何を得たか。そしてそれを自らの肥料へとへんかんすることができるかということにある。

 読書に縁がなかった方に、少しでもこのエッセイが届きますように。


【noteに投稿されているおすすめの作品】

  ここからはnoteに投稿されている中でも、私が文章を読むことに苦手意識を感じている人向けに紹介したい作品を3つ紹介したい。図書館に行ったり、本屋で購入しなくても素晴らしい作品はたくさんあるのだ。

 もちろん彼・彼女らの作品は、読書家の諸氏にも是非読んでいただきたい作品である。書籍化されている作品と比べるのはナンセンスかもしれないが、全く遜色ない素晴らしい作品になっているので、ふらっと彼らの日常に立ち寄ってみてほしい。

 もしこれらの作品が自分とは合わないと感じた方は、noteでタグ検索をしてみると良い。きっと自分の興味を惹く作品が、身を潜めていることだろう。


 ・『営業マンとドーベルマン』/渦様

 

 ・『インサイド・アウト』/H2様


 ・『一緒にいるけどいない時間』/りこぴん様

 

最後までお読みいただきありがとうございました。




 

 

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