【対談・さとゆみ×シャープさん】 「書くこと」は、本当は選べたはずの可能性を殺していくこと。それでも、書き続ける理由
他人の言葉を捻じ曲げる罪悪感が今でも強く残っている
さとゆみ:
シャープさんはSHARP公式Twitterの中の人であるとともに、ご自身で文章を書くことも長くやってきていますよね。そんなシャープさんが今書くこととどう向き合っているのかなって、すごく興味があって聞いてみたかったんですよね。
シャープさん:
僕はまず、言葉を扱うことに対して人よりも少し敏感になっているかなと思います。特に言葉を削ることに関して。
さとゆみ:
というと……?
シャープさん:
もともと僕はTwitterの中の人になる前、SHARPの宣伝広告を作る仕事を長くやっていたんです。作ると言っても僕が作るわけではなくて、広告代理店からプレゼンを受け、採用された案を社内外と折衝して作り上げていく仕事です。
そこで僕が何をしていたかというと、社内のハンコ集めなわけですよ。ある宣伝広告の案があったとして、最終的に世に出るまでに20個とか30個のハンコを社内でもらわないといけないんです。ハンコ集めをしている過程で幾度もダメ出しが出て、直して直して……をくり返していました。
当時は本当に有名なコピーライターの方と仕事していて、その方から出た至極の言葉を最初に受け取るのが僕なんです。「これはすごいものができている」っと僕ですらわかるような言葉なんですけど、それがテレビで流れる頃には何の輝きもないものになってしまうんですね。
さとゆみ:
それはハンコ集めの過程でダメ出しを繰り返すからってこと?
シャープさん:
そうです。ダメ出しをくり返すなかで、最初の言葉とは似ても似つかないようなものになってしまうんです。
ダメ出しの中にはくだらないものもすごくいっぱいあって、「あの部長はあのタレントが嫌いだから」とか「会議ではいいって言っていたのに、家に帰ったら嫁が『何これ』って言ったからやっぱり嫌だ」とか。その人の事情でも僕の事情でもなく、会社の事情ですらなく、ただ一人のよくわからない人の恣意的な事情によって無自覚に言葉が殺されていくわけです。
ようするに、僕はずっと、ものすごいプロの人がものすごく身を削って出した言葉をザクザク削り取るような仕事をしていたんです。そういうことを何年も続けているうちに、それは僕にとって耐え難いものになっていきました。
さとゆみ:
つまりシャープさんの「言葉を削ることに対する敏感さ」みたいなものは、そういう原体験からきているんですか?
シャープさん:そうですね。言葉を捻じ曲げることに対する罪悪感がやっぱりでかいんですよね、今でも。
「書くこと」とは、本当は選べたはずの可能性を殺していくこと
さとゆみ:
出版イベントのときに、シャープさんは「書くことは、本当は選べたはずの可能性を殺していくことだ」とおしゃってましたよね。
シャープさん:
言葉のダメ出しをする仕事を経て、自分が書く立場になって思ったのは……書かない方が自分の可能性は担保できるということ。
さとゆみ:
わかる!!ほんっっっとそう!
シャープさん:
ですよね。書かなければ「僕は何でも書ける」って思えるし、「僕にはすばらしい考えがある」とか、「僕は良いことを言えるんだ」って確信があるんだけど、書いていくにつれてその可能性がパラリパラリと落ちていって、書き上がったときには書く前の全能感なんてひとかけらも残ってない。残っているのはガリガリの自分だけ。
それって実は自分の未来を剥ぎ取っていっている行為のような気がして。そんなことをしない方が安全で健全なんじゃないかって思ったりします。
さとゆみ:
それはシャープさんが小説を書いたこととも関係ありますか?
シャープさん:
そうかもしれないですね。「あぁそうか、できないんだ」って思った。
さとゆみ:
私が文章を書いているときに思うのは、就職活動と似てるなって。
就活する前って何にでもなれる可能性があるじゃないですか。でも内定が決まってしまえば、そのうちのどこかに行くことになりますよね。だから内定をもらう度に残念な気持ちがして。選択肢がそれしかなくなっていくから。文章を書いているときも、そんな思いがあるんですよね。
私は書き始める時に書き終わりを決めずに始めるタイプなのですが、ひとつ接続詞を選ぶたびにゴールへの選択肢が狭まっていく。それがすごく楽しいし、残念でもある。
シャープさん:
そうですよね。だって選ばなかったものにはもう会えなくなるわけですから。お別れですよね。長いお別れ。
さとゆみ:
そう、長いお別れ。大抵の場合、もう二度とそれについて書かないから。だから切ない仕事だなと思う。
それでも、書いていく。
シャープさん:
自分が書くようになってから、“書けない自分”に晒されることが増えてきて……。
書くことって、ほんま修羅の道ですよね。
さとゆみ:
本当にね。書くことって、“諦めていく作業”でもあるなと思っているんですよね。書く前にはあらゆる可能性があった。でも、書き終わって「やっぱりこれしか残らなかった」って。
でも、“諦める”って言葉は“明らかにする”が語源だって言われているように、たしかに書いたからこそ明らかになっていくこともある。だから、「書かないよりは書いてよかったな」って感じることが多いし、「それでも書いていく」とも思っているんだけど。
シャープさん:
自分を剥ぎ取るように書いていった先に出来上がったものを見たら、「あ、俺はこういうことが言いたかったんか」って、ようやくそこで出会うときがあるじゃないですか。そういうことが、ごく稀に起こるので、それがおそらく創作の喜びかなと思うんですよね。書くことをやめられない理由でもあります。
さとゆみ:
シャープさんが「修羅の道」をあえて行こうとしているのは、自分が創作することに対してモチベーションがあるのか、それとも世間に対してもっと責任をもって発言したいことがあるのか、どっちがウエイトを大きいんですか?
シャープさん:
うーん……。自分のことがしたくなってきているんだと思います、単純に。僕は今、半分会社をやめたような状態でSNSの人として活動しているので、僕の半身は会社の中にあって半身は会社の外にあるんですよ。
だから、表現という意味で広げていくとしたら、もう外側にしかないんですよね。外側に欲望していく、つまり“個人の方に寄せていく”のは、当たり前といえば当たり前かなと思う。「今ごろになって……」って気持ちもありますが(笑)
さとゆみ:
その「今ごろになって」って気持ちはすごくよくわかる気がするな。私は20年書いてきて、自分の言葉で書こうと思ったのは18年目からなんですよね。
それまでは書籍ライターとして書いていたから、人の言葉を預かって、その人が思っていることをわかりやすく翻訳するという仕事だったんですよね。自分で書いてみようと思い立っていざやってみたら、「やべ〜おもしろいし、やべ〜修羅の道だ」って思った(笑)
自分が書いた文章の先が、ちょっとあったかくなればいい。そのためには…
さとゆみ:
私は、自分が書いた文章の先がちょっとあったかくなればいいなと思いながら書いています。少なくとも自分の意思としては、人を分断する方向には持っていきたくないんです。
シャープさん:
それにはやっぱり物語の力をもう少し借りる必要があるんじゃないですか?エッセイやコラムでは辿り着けないって思う。小説とか書いてみたらどうですか?
さとゆみ:
小説? それはどうしてですか?
シャープさん:
エッセイやコラムは、どんなに優れたものでも「書いてあることを読む」「書いてあることをそのまま受け取る」、その関係だと思っていて。それが良さではあるけれど、逆に言えば書いてあるものしか読めない人には、それ“しか”伝わらないですよね。
でも小説は、書いてあることを読むだけじゃなくて、そこから滲む余白を楽しんだり広がりを想像したりできる。だから、長い年月残るものを書きたいなら物語を書くしかないと思いますね。
さとゆみ:
なるほど。たしかにそうかもしれないですね。……余談ですが、シャープさん自身が今まで影響を受けた本ってどんなものがありますか?
シャープさん:
僕は武田百合子が好きなんですよ。『富士日記』がめちゃくちゃ好きで。
さとゆみ:
え〜私も好き!びっくり!どういうところが好きですか?
シャープさん:
僕は日記文学がそもそも好きなんですよね。淡々としているけど、たまにブチ切れるみたいな(笑)
さとゆみ:
あはははは。
シャープさん:
僕、音楽もミニマルなものが好きで、くり返しが続いていていつのまにかズレていってるとか、そういうものが好きなんです。読み物も、同じトーンがくり返されているものを読むのが快楽として好きで。だから日記が好きなのかも。平熱の感じで、でもちょっとまがまがしいものがそこにあったりするあの感じが、高校生くらいから好きでしたね。
さとゆみ:
ああいうものを読むと、生活に気付きがあるかどうかって、常に受け手側の問題なんだなって思うんですよね。同じことを受信しても、あそこまで解像度高く受けとれないなって。
“中の人”として言葉を伝えること・世間と相対することをどう捉えている?
さとゆみ:
シャープさんの言うところの“言葉を刈り取る仕事”を経てTwitterの中の人になってからは、言葉を伝えることに対してどう向き合っているんですか?
シャープさん:
中の人を始めたときは、とにかく出所がフレッシュな状態で言葉を外に出すにはどうしたらいいかを考えました。そしてそれの最適解が、「ただただひとりでやる」だったんですよね。
中の人の仕事は会社から「やれ」って言われて始まったんですが、そのかわり交換条件として、「ハンコを集めた上で発言するんであればやりませんよ」と言いました。
さとゆみ:
自分が発信する側になると、「その言い方はいかがなものか」みたいなことを言われることもたくさんあると思うんですけど、自分の言葉に対するいろんな人の反応についてどう感じています?
シャープさん:
身内の反応はなんとも思わないです。世間の反応は、気にならないって言ったら嘘になりますね。かと言って、すべてを気にしているわけじゃなくて、10のうち5くらいしか気になりません。
どうしてかというと、僕は職業としてやっているから。半分は自分の言葉として発信しているけど、半分は会社の人間としてやっているので。そのあたりは、自分の身ひとつで言葉を発信するタレントさんなんかとは事情が違うと思います。
さとゆみ:
この間、『書く仕事がしたい』出版イベントの打ち上げでお話しした時、「今は言葉に対して一番センシティブな人たちを基準にして書くようにしている」っておっしゃっていましたよね。それ、どのような意味なのか、今一度伺ってもいいでしょうか。
シャープさん:
僕のような広告とかマーケティングと呼ばれる仕事をしていると、人を属性で見てしまいがちで、「A 型・B 型」「20代・30代」のようにザクっと分けて、自分の都合の良い人をピックアップしてその人たちをターゲットと呼んで、まるでその人たちが“世間”かのように捉えてしまう。
でもほんとは自分が想像している以上に何倍も何十倍もの人がいますよね。だから、もっと“広さ”みたいなものを意識しなければいけないと思っているんですよね、僕のような仕事では。
さとゆみ:
広さってどういうことですか?
シャープさん:
例えば、僕の発信した言葉がTwitter の日本語ユーザー全員に届いたとしても、実際の世界にはその何倍もの人がいますよね。そこにはもっともっと言葉にセンシティブな人もいるかもしれない。
Twitterという壁に囲まれた世界の向こうにもっとたくさんの人がいることを、どこまでリアリティを持って肌身として実感しながら書けるか。それは僕の課題でもあるし、ある程度まとまった人に向けて言葉を発する人の責任でもあると思います。
さとゆみ:
そういうことを考えるようになったきっかけはあるんですか?
シャープさん:
SHARPって、経営が傾いて買収されそうになったときや、マスクを生産し始めたときなど、世間から巨大な注目を集めてきたことが何回かあるんです。そういうときって、もうTwitterだけの世界じゃなくなるんですよね。本当にそのときは“世間”って感じなんです。リプライの数もそうやし、言葉の辛辣さもそうやし。
僕は今SNSの人ですけど、それより広い場所が壁の向こうにはあって、そこの人たちと向き合わざるを得なかった。その経験はけっこう大きいですね。
さとゆみ:
シャープさんは、「この国の良識ある大人として振る舞いたい」ともおしゃっていましたよね。
シャープさん:
会社にいるとね、“会社の論理”みたいなものが“人間としての論理”を上回ることがあると思うんですよ。
比較的大きな組織で働いている場合、「会社の論理にいかに貢献できるか」が、その人の評価になりがちですよね。
だけど僕は、会社を半分やめるような形で“中の人”として世間と向き合うようになったので、会社の論理と世間の論理に引き裂かれることがけっこうあったんです。そのときに、“世間のまともさ”に勇気をもって肩入れできるか。
さとゆみ:
それが「良識ある大人として振る舞えるか」みたいなことですか?
シャープさん:
そうですね。何年か前に、大阪の地震で電車が止まったことがあったんです。
電車って、復旧時間が正確に見えるまではいつ運転が再開するのかなかなか教えてくれないじゃないですか。乗っている人は、会社に行ったらええんか家に帰ったらええんか判断できませんよね。
そのとき、ある車掌さんが車内アナウンスで「僕の経験上、この揺れでこの止まり方では午前中に復旧することありません」って言ったんですって。乗っている人はそれを聞くことによって「じゃあもう家に帰ろう」って判断ができますよね。
だからその行為にTwitterでは称賛の声が集まったんです。でも僕の経験上、その車掌さんは会社でめっちゃくちゃ怒られたはずなんですよ。
だけど、その車掌さんは自分の使命として「そうすべきだ」と思ってそうしたと思うんですね。僕はそれに共感するし、そういうことをしないと、マーケティングとか広告もできないんちゃうかと思っているんですよね。
良識があるかどうかは世間が決めることですが、“会社のまともさ”と“世間のまともさ”だったら、“世間のまともさ”に飛び込まないとあかんと思っています。
さとゆみ:
そういう覚悟を強く持つようになってから、シャープさんが書くものも変わってきたんですか?
シャープさん:
うーん……「ちょっとしんどいな」と思っている人を応援する立場になろうとしているのかなと思いますね。
漫画を書こうとしている人かもしれないし、怖い上司に意見を言うたろと思っている人かもしれないし、とにかく勇気を問われているような人に、「それはやったほうがいいんちゃうか?」って言外で伝えられればいいなと思っています。
さとゆみ:
「僕はこうしているよ」とご自身の姿をもってして、その人たちの背中を推したいってことですか?
シャープさん:
そうですね。
さとゆみ:
シャープさんは今後どうなっていくんでしょうね。今後、やってみたいことって何かあります?
シャープさん:
うーん、例えば「君、今から好きな企業のTwitterアカウントをどれでも選んでやっていいよ」って言われたら、僕はコンビニを選ぶと思うんですよ。
さとゆみ:
へ〜〜〜!どうして?
シャープさん:
もっと“世間”やからかな。コンビニ自体が世間やし、置いてあるものも世間やし。僕はもっと世間と同化するというか、生活みたいな文章・存在でありたいって思っているんですよね。
さとゆみ:
それは意外だった!コンビニが意外だったんじゃなくて、もう中の人とか嫌だって言うのかなって思ってた。
シャープさん:
僕は、広告が広告を必要としない世の中になったらいいなと思っていて。だから、より生活と直結している製品やったり、そういう場所やったり、そういう企業のアカウントだったらやってみたいですね。
最後に。『書く仕事がしたい』のエピローグの話
さとゆみ:
では最後に、あらためて『書く仕事がしたい』の話を聞きたいんですが、出版記念イベントのとき、シャープさんはエピローグに感動したと言ってくださいましたよね。そして表紙の「この本は文書術の本ではない」というコピーは詭弁であると(笑)
シャープさん:
詐称ですね(笑)詐欺詐欺(笑)
表紙では「文章を書く以外のことをお伝えします」って言っているけど、エピローグに書いてあることは“文章を書くこと”の本質以外何ものでもないですよね。
書くことで失われていくもの。それでも書くことでしか得られないもの。あれは、凄まじい文章でした。
さとゆみ:
私も、あれがエピローグになると思って書き始めてはいなかったんですよね。
「文章術じゃないライターの仕事の話を書こう」と思って書き始め、途中で方向転換もしつつ、最後あそこに行き着いたんです。
シャープさん:
エピローグに書いてある内容は、書いたことがある人しか理解しがたいのかもしれないですけど。
逆に言えば、エピローグに書いてあることがすんなりと実感できる人は、もう書けているのかもしれないですね。
さとゆみ:
たしかにそうかもしれないですね。
今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました。
(構成・執筆:藤沢めぐり)
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