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プロの書き手になる人、ならない人、なれない人。

朝日新聞のwebメディア「かがみよかがみ」に寄せられたエッセイの審査をさせていただいている。10代・20代の女性限定で募集されたエッセイだ。

これまでヘアコンテストやフォトコンテストの審査員は何度もさせていただいてきたけれど、文章の審査をさせていただくのははじめてだ。この数日で、髪にまつわるエッセイを、数十本読ませてもらった。

で、彼女たちの文章を読んで、どうだったかというと、
よかった。すっごくよかった。
読みながら何度も泣きそうになってた。

で、当然だけど、返す刀で、どどーーーーーんってなっていた。

少なめに見積もって、応募されてきたエッセイの3分の1は、私の文章より上手かった。ちょうど私は昨日、別件で髪にまつわるエッセイを1本、あるメディアに納品したのだけれど、私のその文章がこの応募作品に紛れ込んでいたら、一次審査も通らないだろう。

なんで、みんなこんなに上手いの? 
いや、上手いだけじゃなくてなんというか、書かなくちゃ死んじゃうみたいな、マグマみたいなものがふつふつとしている。そういう文章には力がある。

スーパーナチュラルに
世の中にはこんなに上手な人たちがいっぱいいるのに、私の原稿が原稿料をもらっていいのだろうか、と思った。
もし読者の投げ銭で原稿料の多寡が決まるとしたら、私の文章はまったく稼げないな、これ。冗談じゃなく、自虐でもなく、そう思った。

というわけで、数日、どよどよしてた。
でも、な。と、思う。

私は文章は決して上手くないけれど、気づけばライターとして20年仕事を続けることができている。
じゃあ、仕事として書くことって、いったい何だろう
そんな疑問を持った。

ここからは、ただの思考実験です。

今回のエッセイを投稿してくれた彼女たちの中には、プロの書き手を目指している人もいると聞いた。今すぐにでもなれそうな人もいるし、この先プロになる人もいるだろう。でもたぶん、これは予感だけれど、中にはどんなに本人がそれを目指しても、プロになれない人も、ならない人もいると思う。

これ、マウンティングするつもりは全然ないので、不快に思う人がいたらごめなさいだけれど、
多分、文章が上手い上手くないは、究極、プロの書き手になるために必要な能力の一番目ではない、と思うからです。

というのも、
文章を書いて原稿料をもらうプロになるために必要な条件はおそらくたったひとつで
それは、
文章を書いて原稿料をもらう人になる、と決めることだと思う。

言葉遊びをしているわけじゃなくて、これって「決め」の問題だと思うんです。
作家や小説家はまた別の才能が必要だと思うのだけれど、ライターという職業であれば、特殊な才能はいらない。
ただ、どんな状態でも常に「書き続け」なくてはいけないし、「書き終わら」なくてはいけない。

多分、ここが、プロの書き手かどうかの境目だと思う。

これまでたくさんの書き手の卵さんたち(とくにライターの卵さんたち)に会ってきたけれど、書き始めることはできても、書き続けられない人が、辞めていった。依頼をいただく仕事だから、書きたいものだけを書くわけではない。対象をどう好きになるか。どう面白がるか。どう愛するのか。それができないと書き続けられない。
中にはものすっごい上手な文章を書く人もいたけれど、でも、書き続けることができないと辞めていった。

作家性を持つ書き手(たとえば作家や著者、エッセイストなど)も同様ではないだろうか。書き始めることはできても、書き終われない人は、やはり書くのを辞めていった気がする
完璧な原稿なんて、絶対に書けない。どこかで手離さなきゃいけない。「文字数は足りているし今の自分にはこれが限界だけれど、完璧とは到底言えない」文章をやむなく納品しなくてはならない時もある(主に締め切り問題)。「いい原稿が書けたから読んでください」っていう仕事は(よほどの大御所じゃない限り)ないのだ。
しかもどんなに完成度が低い原稿を納品して舌噛み切って死にたくなっている時でも(昨日の私です)、それを(編集者さん以外に)口に出すことはプロとしてご法度だ。

つまり、ダサくてもひどくてもとにかく書き続けて現状におけるベストで書き終えて納品して晒されてdisられても言い訳せず反省し反省はするが折れず凹んでも戻ってくる。そして懲りずに次の原稿を納品する。いつかはもっと上手に書けるはずと信じて書く。書くを続ける。

こういうことが、文章が上手い下手より、大事なのかもしれないな。と思う。

ひょっとして、仕事として続けることができるのは、「好きだから」「得意だから」ではなく、「諦めがつかないから」なのかもしれないと、思う。
諦めると言う言葉は「明らかにする」が語源だと聞いたことがある。明らかにできてしまったものは、諦めることができる。だけど、いつまでたっても明らかにならないものは、諦めることができない。

明らかにならないものを追い続けるのは結構しんどい。でも辞められない。

私は、書くことに関してのみ、とても諦めが悪い。
もういい歳だし、できれば格好良くスマートに生きていきたいと思う。だけど、書くことに関しては、諦めが悪くてダサくてカッコ悪いことを自分に許している。
だから20年もライターを続けられているのかもしれない。
よく若いライターさんたちから、「自分が書いたものに厳しいレビューがついたら凹みませんか?」と聞かれるけれど、レビューごときで凹んで諦められるくらいなら、多分もっと早くに辞められているんだと思う。

そう考えると、諦めが悪いということは、それだけでひとつの才能なのかもしれない。だいたいにおいて、才能というのは、弱点(どうしてもできないこと)のほうに由来することが多いなと感じる。

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ところで、あるひとつの物事が続けられるかどうかって、その人の性格というよりは、「その人とその分野の掛け合わせ」で決まるんじゃないかという気がする。

かように、文章に関しては諦めの悪い私だけれど、逆にどんなに上手くても得意でも、続けられなかったものもある。

昔、私がソフトテニスをしていたとき。その年のインターハイ優勝校の練習に参加したことがある。きっつい練習だった。練習についていくだけで体を壊しそうになったし、軽く吐いた。
当時中学生の全国ランキング1位だった私は、その学校の先生に越境入学してこないかと誘っていただいたのだけれど、全然そんな気持ちになれなかった。
「こんなに練習しなくちゃいけないくらいなら、私、別に勝てなくていいや」と思った。そして、その学校の練習に参加したことで、アスリートとしてのテニスを辞めることに、ふんぎりがついた。
高校生になってからは、初心者ばかりのテニス部で「試合の直前だけちょっと練習する」というスタイルで、のんびり取り組んだ。当然だけれど、インターハイでも国体でも、二度とその学校の選手に勝てなかった。

一方、それまで私とペアを組んでいた子は、まさに越境入学をしてその後もテニスを続け、のちにナショナルチームのキャプテンになり、世界選手権で何連覇もした。
たかだか一度、山を登っただけで「明らかになった」と思った私と、もう一度インターハイの、国体の、全日本選手権の、世界選手権の、山を登ろうとした彼女と、ここで道が分かれた。

で、ここからが今回気づいたことなのだけれど。

当時私は、「(プロの)アスリートにはならない」と自分で決めたと思っていたけれど、いま振り返ると、私は「アスリートにはなれない」人間だったのだと思う。アスリートを続けるのに一番大事な素質が、私にはなかった。言葉にするなら、それこそが多分、諦めの悪さ、なのだろう。

私がアスリートに「なれなかった」のと同じようにきっと、どんなに文章が上手くても好きでも得意でも、書き手にならない人も、なれない人もいるだろう、と思う。

プロの書き手になる人、ならない人、なれない人。
上手い下手だけじゃない素質が、たぶんそこにはある。

というわけで私は、ここ数日、各方面からいろんなタイプのパンチをくらってめちゃくちゃに落ちているし凹んでもいるし逃げも隠れもしたいのだけれども、でもやっぱり、書いている。

まずは、このエッセイの講評を書かなきゃならない。
こんな上手い人たちに向かって、何を書けばいんだろうと思いながら、憂鬱な気分になりながら、でも、書いた。
で、書いていたら、めっちゃ長くなってしまってこれは講評には使えないなと思ったのでボツにした文章を、ここに残しておきます。

今年も書いて生き残れるといいなあ。とか、思いながら。


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ライター・コラムニスト 佐藤友美(さとゆみ)。主な連載はこちら→http://linktr.ee/satoyumi 著書に『女の運命は髪で変わる』(19刷)『道を継ぐ』(3刷)『女は、髪と、生きていく』(3刷)など。ホームページ→http://satoyumi.com