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家無し宿暮らしな「新生活」-Week(?-3)

私は今札幌駅のスターバックスにて駄文を書き始めた。

正確には札幌ステラプレイスセンター1階店。商業施設のスタバなのだが、1階にあって窓の外には駅前の広場の一部が、低い位置から中途半端に見える。これが私を落ち着かなくさせているが、やはり商業施設の中にあるのならば2階以上から街を
見下ろす形がいい、あるいは路面店で通りの全貌を明らかにしたい。

しかし気分としては悪くない。今日会う予定の友人も明日合流する予定の恋人も、本編に全然関係のない元同居人も、まだ起きていない時間。穏やかな日曜日の七時台。

唯一起床して早速LINEする友人が若干一名。京都編に登場するこちらの男性だ。

https://note.com/satousuke/n/n9ef3fcb50c49?magazine_key=mf3c23793b1f0

そんな彼とのやり取りは、最新の音楽と、スタバのモバイルオーダーについて…。
最近の音楽について情報交換するのは貪欲に最新曲を追うスタイルで日々音楽を消費する者同士非常に健全ではあるが(全ての音楽を追えないことに無力感を感じるので、精神的によくない側面もあると個人的には感じており、万能薬的対処法は未だ見出せていない)、スタバの最新作ならまだしも「モバイルオーダー」について、とは(あるいはそのうち「モバイルオーダー・フラペチーノ」なる新作が登場するかもしれない。生クリームにiPhoneがブッ刺さってるといいな)・・。

スタバのモバイルオーダーというのが今回の札幌編の一つの鍵となるわけだが、時系列的に札幌に降り立った時、いや降り立つためには飛行してなくてはならない、飛行するためには陸を離れる必要がある、私が愛してやまない本州の陸を離れたのは…9月9日(土)の午後5時台のことである。

見物、昼寝、離陸

昼寝をしていた。背景にはもちろん、眠かったからというやんごとなき理由が存在する。しかし、土曜日の午後を昼寝で終わらせると自己嫌悪に陥るほどに、私は生き急いでいる。せっかく幡ヶ谷のバーの仕事のない、貴重な土曜日だというのに、なぜ惰眠を貪らなくてはならないのか。

もちろんラーメンを食べたからである。ラーメンなんて普段は食べない。ラーメンはもちろん美味しいが、ラーメンを食べる行為がもたらすダメージがあまりに大きいからだ。それはつまり、今回のように急激な眠気をもたらし、そして行列に並んで時間を無駄にする。

ラーメンは好きだがラーメンのカルチャーは好きではない。そしてラーメンはカルチャーごと愛さないと好きと言ってはいけないような雰囲気が醸成されている、それもまたラーメンカルチャーの一部であり、私がラーメンのカルチャーを好きになれない理由の一つではある。そんな感情論は些事であり、例えばワインだって全く飲まない人からしたらそんな風に感じられるだろう。カルチャーというのは基本的に部外者を撥ね付けるものだ。

しかし重要なのは、ワインをほとんど飲んだことのない人はある程度の数存在しても、ラーメンをほとんど食べたことのない人の数は極めて少ないということだ。いや、些事と言ったのだからやはりどんな側面さえも重要でないことは否定できないのだけれど。

兎にも角にも私がラーメンカルチャーを好きではないという理由に、誰しもが納得できるエピソードをここで一つ紹介しよう。全方位的に好かれる者など存在しえない今日において、誰しもが納得するということは、全方位的に嫌われる存在について語るということである。

さて、全方位的に嫌われている存在、それはオジサンである。英語圏でのOJISANに日本語で含むところのネガティブな意味はすでに含まれているのかな、どうだろう。

さて、やはり、どうしたってオジサンは醜い。OJI。こうしてファッション雑誌風の表記にしてみても、醜い。彼らが彼らの醜さを自覚していない場合、もっと醜い。未婚中年男性、と記すと関わり合える余地は全然あるにも関わらず、その読み方がオジサンなのであれば状況は一変。

「おじさん」で検索してヒットした無料画像

つまり年齢でも社会的な地位や状態というのは実のところ条件に含まれておらず(同条件に該当するオジたちが圧倒的に多いのは事実だが、例えば男性という性別すら絶対条件ではなく・・いや危うい脱線なのでやめておこう)あくまで精神的な概念としてのオジサン。そしてその定義は各々にお任せする。華やかそうに見えるワインの世界にも、女性蔑視・年下差別を伴うコミュニケーションしか取れないオジが沢山いて本当に虫唾が…

さて。とある家系ラーメンのお店に、私は恋人と並んだ。店は食券を購入してから列に並ぶというシステムを取っている。我々が並んだ時点で十人待ち程度、我々の数名先に並んでいたOJISANはそろそろ入店できるという時になって、列から離れて店前にある食券機に歩を進め、950円分を購入し、列に戻ろうとしたところ…。

列に並ぶ前に食券買わなきゃいけないんで、それは無理っす」と二十代男性二人に説かれてしまい、これまで待っていた時間と今後の人生で無駄にする時間に思いを馳せた結果、腕をおおきく振りかぶって(その時野球少年だった三十数年前の記憶さえ蘇っていたかもしれない)食券を地面に投げ捨てた。

そして、そのまま列をぐんぐん後方へと進み、タクシーに向かって手を上げた。

悲しいと思っただろうか。しかし、悲しいと思ったとしてもあなたにできるのは2
つしかない、悲しい生き物を反面教師とするか、悲しい生き物から搾取するか。

家族を持つことのできたオジサン(希少?)と家族を持っていないオジサン、パパ活ができるオジサンとパパ活のできないオジサンの間には、大きな隔たりがあるのだろう。

彼にとってあの場でタクシーに乗り込むというのは、精一杯の経済的な意思表示だったのかも。悲哀を押しやって先へ進むしかないというわけだ。

OJISANの話にお店は関係ないので
私の口から店名を出すのは憚られる

さて、悲しさの本質に迫る前に話を戻そう。この話は私の話なのだ。悲哀に満ちたオジサンの話ではない。つまるところ、かのような悲しい生き物が多数関わってしまうのが、ラーメン・カルチャーだと、私は勝手に定義している。そして、今回目の当たりにした厳しい規律と、それを平気な顔で行使するこなれた消費者たち(それも私と同世代や下の世代含め、つまり悲しき生き物の約半分しか生きていない生意気な小僧ども..!)が存在する。

人によっては二十代男性 2名の行動は「正義」であると感じるだろうが、それはおおかたラーメン・カルチャーを盾にした正義だろう。私がそれを正当化できるとするならば、対オジだったから、その一点に尽きる。

結果論ではあるが、あのような行動を起こしてしまうオジに対してなのであれば、ルールで追い払ってしまうのは、なんというか正しいのだ。2名は後列の人たちのためにも正しい行動をしたという意見もあるかもしれない。しかし、例えば我々は列の長さを見た上で並んでいるわけで、1人分早まったところであまり意味はない、そもそも2名で入りたいわけだし。

例えば正義を振り翳されたのが性別問わず2名と同年代の人、つまり私と同年代の人であったならば同情したかもしれない。しかし相手は"食券投げ捨てオジ"である。致し方ない。世界中から忌み嫌われるべき存在、それがオジである。だが加齢=悲哀という式が成り立たないことは本当に、我々男性全員にとっての活路です。もちろん、黙って歳を取ってしまうと引き寄せられはするだろうけれど、そうなったら糾弾するなり見捨てるなりしてほしい、と互いに覚悟をもって生きていこうではないか、同世代の者たちよ。

私は、このようなラーメン・カルチャーへの向き合い方を知らない。ラーメンはやや味が濃かったが、美味かった。私は最近、横浜に移住することを周囲に仄めかしているのだが、横浜に移住するようなことがあれば、横浜の家系ラーメンを並んでまで食べてみたいと思う。その時もまた、今回のような悲しい物語が展開されることを、切に願っている。

ということで、味が濃いのになんだか悲しい味のラーメンを食べた結果、血糖値が急上昇、私は私の胃を労るために、脳の機能を停止させる必要があった。1時間の昼寝をして起きた時には…離陸の時間は迫っており、コーヒー屋に寄る時間は無くなっていた。

四十歳くらいの友人に会おうと思っていたのだ。年齢以外にオジになり得る要素がなく、歳を取ったからといってオジになる必要がないと証明している身近な存在。見た目は三十前後にしか見えず、良識やら下世代への理解やらも持ち合わせ、暮らしぶりも流麗な彼は、本来のリアルなパパ活(子育てと言いなさい)に勤しんでおり、彼が今後悲哀なるオジに成り果てる可能性は極めて低い。悪趣味的な言い方をすれば生物的な勝利なのだろう。

コーヒーを飲めないがしかし、離陸には余裕で間に合うと思っていたが、予想以上に成田空港までの電車の本数は少なかった。乗換案内では示唆されなかった、2分以内での馬喰横山→東日本橋の乗り換えに失敗していたら、離陸に間に合っていなかったかもしれない。

というのも空港ではターミナルを間違えかけたし、機内持ち込みの荷物も7kg未満ギリギリだったしと、色々と遅れる要素はあった。浜町に4年住んでいてよかったのかもしれない

さて、空港から航空機内での時間について語ることは特にない。Kindleで読書をして音楽を聴いた、ダウンロードしている音楽しか聴けないことによって、1ヶ月前にはリピートしていたTravis Scottの新作を再聴、それによって新千歳空港に着いて機内モードを解除した瞬間に前作ASTROWORLDを聴き始め、その素晴らしさを改めて再認識した。アルバムとしての完成度でいうと今作は前作を越えられていない気がする、しかしトラヴィス・スコットには勝てないという感じを示すには十分に実験的で十分に尽くされたアルバムだった。

やはりスマホというのは、機内モードでいじれる範囲が最強ですね。

これまでの人生で空港にはいろいろな感情を付与できていたはずだったが、なんとも思わなくなってしまったな。移動するということは本当に素晴らしいことで、移動しないと成し遂げられないことは本当に多くあるはずだが、しかし別にもうなんとも思わない。

留学時の興奮なんて勿論霧消しているし、今後海外に行っても価値観が大きく転覆することはなさそう。随分と穏やかそうだが、経てきたドラマチックより依然死んでいない事実に価値を置いてよいのかどうかまだ悩む程度には冒険心も残っているような、いやどうだろうか。まぁインド行って分かりやすく人生変わる可能性はまだ残されているというわけだ(他の国より優先して行くことはないけど多分)。

写真をほとんど撮らなかったので無料画像を使わせていただく

新千歳空港から札幌駅まで電車で移動、札幌駅からすすきの辺りまで歩いた。

この時点で私が考えていたことは主に下記の2つ。

  1. 私はこの街にできるだけ素早く馴染む必要がある
    ┗歓楽街すすきのまでの距離感を自分の足で測りたい
    ┗コンビニを利用して普段購入するようなものを買おう

  2. 荷物を置きたい、あるいは宿を取りたい

なぜか1日目の宿を取らずにいたが、なぜ取らなかったのかを考える意味はまるでないと判断しつつも自身の楽観的な性格をちゃんと呪ってしまうほどには、しっかりと疲れていた。7kgを背負って歩いているのだから当然だ。

そして暑い。汗をかきたくない。確かに東京より気温は低いが、求めていた基準はクリアしてくれていない。私は15度の世界を望んでいた。9月中旬の基準としてそこまで高くないはずなのだが、そんなこともできないのなら何が北海道だよ。

怒りがこれ以上思わぬ方向に飛び火するのを防ぎたい一心で、私は見慣れた光に向かって歩を進め、セブン・イレブンに入店した。

そして以下の行動をとった。

  1. ChargeSpotでモバイルチャージャーをレンタル

  2. 気になっていたパスタを購入→電子レンジで温めてもらう

楽勝だ。これでだいぶ街に馴染むことができた。やはり旅先で馴染むには普段している通りの、平凡な行動をとるに限る。

そしてむしろ、歩きながらパスタを食べる。

歩きながらパスタを食べるなんてけしからん!と思ってくれて構わない。だが、私は歩きながらパスタを食べないのであれば、歩きスマホを平気でします。いずれにしても歩行中の私にモラルを問わないでほしい。飛行機やら新幹線やらで移動している時よりも自分で移動している感覚に伴って気が大きくなっているのかもしれない。こういう人間は車を運転すべきではないかもしれないな。ちゃんとペーパーである。

でも人や電柱にぶつかるのは、決まって音楽を聴き空を仰ぎながら歩いている時なんだよな。なんだかんだロマンを大事にしていると思われます。

フォークつけてもらえなかったのも日常感があるし、喫煙禁止/ポイ捨てのステッカーが「パスタの食べ歩きなんて全然悪いことじゃない」と背中を押してくれてるのも◎

それではここで、パスタについて記してもらおうと思う。

「魚介の旨み トマトスパゲティ 海の幸のラグー」とは、魚介の味わいが楽しめる、トマトソースを使ったパスタ料理で、海の幸(魚介類)を使ったラグーソースがトッピングされています。
例え話を使って説明すると、ある日、遊びに行った海で魚をたくさん釣りました。帰り道に、家でおいしいトマトソースのパスタを作りたいと思いました。そこで、釣った魚を使って海の幸をトマトソースのパスタに合わせることにしました。
海の幸のラグーソースは、釣った魚とトマトや野菜を煮込んで作る特製のソースです。このソースを、茹でたスパゲティにかけて完成です。
この料理は、小学生でも分かりやすく言えば「魚の美味しさが詰まったトマトソースのパスタで、トッピングには海で釣った魚のソースがたっぷりかかっていますよ」と言えます。ご飯が美味しいことはもちろん、釣りを楽しんだ後の海の幸も一緒に楽しめる料理です。

お腹も満ちたしAIの未来は明るいということで。とりあえず荷物を置くのなら快活CLUBで全然いいと思ったのだが、全店舗満室である。仕方がないから馴染みのないローカルなネットカフェに入店し、荷物を置くことには成功したが、重大なことに気づいてしまう。部屋と喫煙可能なテーブルとの距離が近い

街に繰り出してみて気づく、すでにタバコの臭いは服に染み付きつつある。
なるほど、最悪な気分になることもできそうだ。さらなる発汗を防ぐために重い荷物から解放され、タバコの臭いにやられる、分かりやすいにも程がある一難去ってまた一難が、旅情を掻き立ててくれますね。

否、難ありは幸あり。これは落差を生むのにうってつけの機会。ここから何か気分が甚だしく高揚する出来事に巡り会えればいい、それだけのこと。

翌月、東京は富ヶ谷のとあるマンションの一室で行われた当バーのポップアップにも元同居人と足を運んだ。

そうして私はワインを飲んだ。Google Mapsで「ナチュラルワイン」と検索したら出てきた。小文字だけの店があれば、それである。

東京でも言えることだが、バーの形式でイタリアワインを飲めるのは珍しいことだ。それも上質なワインを良い状態で。もちろん東京の場合にはフランスワインであればかなりの確率で飲めるという前提があり、札幌にはまずワインバー自体が少なそうではある。

それから私は街を徘徊して、ネットカフェで過ごす時間を最小化した。シャワーを浴びてから再び街を徘徊して、眠気が訪れるのを待った。眠気が訪れたところで、コンタクトレンズを外して目を閉じた。

どこでも寝れるというのはいいものである。自らの寝床を持たないというのは、戦意を駆り立ててくれる。場所を問わず眠り起きれなければ、戦えない。

さて、ここでようやく雀たちが鳴き、冒頭のスタバでの時間に繋がる。

私にはモバイルオーダー・ネームチェンジという趣味がある。

スタバのモバイルオーダーにて、次々に異なる仮名を使用するのだ。ニックネームを設定すれば、そのニックネームで注文した商品を受け取ることができる。

注文のたびに新しい自分になれる、アイデンティティの危機を感じている人にうってつけの遊戯だ。

勿論遊戯であるからして厳格なルールに支えられている。当然だが店員にニックネームを視認させたり呼ばせたりする形で 1. セクハラ 2. 誹謗中傷 を行わないことだ。「自分で自分の名前を決めていいなんて素晴らしき人生!」となると、将来のオジ候補は「オチンポデカオ」に即決してしまうだろう。ちなみに濁点もカウントして10字以内なので上記は9字でOK。ギリギリの文字数を攻めるのが楽しいのは分かるが、ワード的にちゃんと弾かれるので安心してほしい。出直してこい。

また、設定ルール上カタカナと英数字表記しか使えないことも述べておきたい。つまり限定的な表記での伝わりやすさを意識する必要がある。この制限があるからこそ、私はこの活動を楽しんでいる。制限あっての表現、というやつだ。できる限り示唆に富むことも、もっと心掛けていきたいと思う。

私は札幌での第1回目のモバイルオーダーということで、かなり気負っていた。東京からヤバい奴が来た感を最大化しなくてはならない。そんな気負いがあった。

その結果、空回りしたとは思う。

本当に反省している。一発で何のことか伝わらないものに、価値などないのだ。そして伝わったところで面白くもなんともないものは、存在すべきではないのだ。

言い訳をすると「ミナトクニテ」と呼んでもらえるか「ミナトクナイト」と呼んでもらえるか実験をしたかった気もするが、港区に東京の全てを賭けたのは事実であり、それは本当に恥ずべき行為であった。私は東京に見放されたくないから、こうして正直に記す。

しかし、次の戦略を立てれたのは大きい。本編の最後にて、私の本気を目に焼き付けてほしい。

流石にお腹も空いてきたし集中力も切れてきた。しかし落ち合う予定の友人からの連絡がないのであれば、致し方ない。読書をして待つことにする。読書に没頭して別世界に浸って我に帰った時、そこが旅先であるこの感覚も、なかなかに中毒性がありますね。

よく考えたら景色の写真ほとんど撮ってないので、再びフリー素材でご愛嬌。

その後無事に気の置けない友人と合流して、楽しいひと時と過ごした。どこで会っても時間を忘れて共に過ごせる相手というのは貴重である。そのような友人の数が少なくなってきたことではなく存在する今にフォーカスを当てて。今後そんな友人が減らぬも増えるも自分と運次第なのだから、運を引き寄せるのが難しいなら、せめて自分磨きを。

そして夜が来て、私は一人勘繰り散歩を敢行する。

逍遥、食欲、沈溺

靴紐が解けたと思ったら影が伸びただけだった。

足首の靴下で蒸れた箇所が痒い。ムヒを塗ってきたので痒さがじんわり増幅されて、痒いというよりも在る、という感じになる。

そう、全ての在るが強調されるこの感覚だ。久しぶり。

ファブリーズを染み込ませた靴底と靴下と足裏の接している面、それぞれの在るも強い。

靴底と靴下の接する面と、靴下と足裏の接する面の区別がつかない、しかし裸足で靴を履いている感覚に陥っているわけではない。

不快な湿りであるはずのものが、快/不快を突き放して、在る。歩いているが、進んでいる気はあまりしない。存在感だけが温かく増していく。比例して不快感まで増えないのが、都合よい。都合のよい現実がこの世にはあるのだと、安堵できる。

隣を通過した自転車のミラーが伸長されて眼前に迫る。幻覚を見たいわけではないのだが。あまりに形を変えすぎではないか。幻覚を見たいわけではない。現実にもっと頑張ってほしいだけ。現実が頑張ってくれるから面白いはず。

トラヴィス・スコットのSTOP TRYING TO BE GODを聴く。Kid Cudiのハミングと表題を唱える声、James Blakeの歌声はこの世で一番美しいのかもしれないと思う。そしてワンダーさんのハーモニカ。

人は平穏な気持ちになると、Stevie Wonderのことワンダーさんって呼ぶんだな。

隣を歩くカップルの女が男に寄る。そのスピードが随分と速い。北の方をみて、見慣れた景色だと思う。あまりの凡庸さに目を逸らしたくなる。高くない建物だけが果てしなく続く、光量の乏しい田舎の景色。

光の方をみる。ずっと目の中に入れておきたい景色はこっちだと思う。北の方は視界に入ってこなくていい。目が乾いてる。瞬きが増える。瞬きする度に視界がしっかり切れる。普段であれば認識することのない途切れ。目の前の一瞬と次の一瞬が本当に地続きのものか、自信がなくなる。

いつの間にか隣に立っているメガネをかけた男。交差点なのに、距離があまりにも近い。私が勘繰りすぎているのか、本当に男が近すぎるのか定かじゃない。勘繰ることよりも可能性を否定できないことが怖いが、その恐怖は勘繰らなければ生じ得ないはずなのよ。

クレープを売っているトラック。モバイルチャージャーを借りないと。蟹。蟹が動いている。ベンチに座って一休み。ベース音が足裏から体を掴み取って地面に固定するが、抗って立ち上がる、コンビニに行くべく。

その前に蟹をカメラに収めよう。

https://youtube.com/shorts/g6e4h5u7NkE


店前で待ってるタクシーの運ちゃんに、観光客と思われただろう。でも彼は蟹が動いていることに気付いていないかもしれない。だとしたら彼は観光客はなんでも写真に収めるなと思うだけでなく、写真に収めている対象をしっかり見つめてみるべきなのではないか。

西に向かう。北にちらりと目をやると、駅はまだまだ近い。全然進んでいない。こんなものだ。現実があまりに拡張されると、今という瞬間の実力はこんなものだ。

耳に流れ込んでくる曲の歌詞を辿る口の形が、今追い越した外国人を侮蔑する言葉の形になっていないことを願った。温度計の光が見える。もつ鍋の店がある。もつ鍋が食べたい。でも本当はもつ鍋でなくてもよくて、なんだって食べたい、が、厳密にはもつ鍋よりも食べたいものがある。

そうだタイ料理に行くんだった。そう決めたのはいつのことか忘れたけれど、日常感を捨てない旅なのであれば、俺はタイ料理を食うべきだ。なぜならタイ料理が好きだから。

計らずしも昨夜訪れた繁華街の方を勝手に目指してる。歩きスマホをしていたので、前の集団が割れる。申し訳ないと1人頷く。頷くことで申し訳ないことを伝えられると思った、その機序は不明。昨日は歩きパスタ、今日は歩きスマホ、歩きタバコこそしていないが…。

案外方向が合っている。戻ったりはしなくてよさそうだ。南下しすぎてると思ってMapsを開くと、やはりまだ全然進んでない。長すぎる今、この繰り返し

コンビニに入る。Charge Spotの取り扱いがあるかも調べず。あった。カチッといい音が鳴ってモバイルチャージャーが飛び出てくる。こんなにいい音がするものだったか。

温度計を見る。温度計は26度を示している。肩に汗が溜まってきて、ふんわりしたショルダーガードをつけたような感覚になる。大抵のものが包み込んでくれる、この感覚もまた懐かしい。

タイ料理屋の後に訪れようと思っていたワインバーのことを調べる。インスタグラムを見ると、イベントにつき通常営業はしていないらしい。はて。オータムフェストとは違うイベントなのか。ナチュラルワインを飲み歩くイベント?なんのことだろう。昨夜訪れた別のワインバーで店主はそんなイベントのことを教えてくれていただろうか。いやこんなことで勘繰ったり敵視したりすべきではない。

基本的に人は善意も悪意もそこまで向けないはずなのだから。

オータムフェストで飲んだ道産ワイン

イベントについて混乱した頭を夜風で冷やす。上唇が下唇に吸い付く。口が酷く乾いている。初めてセイコーマートを見る。そうか北海道に来ているんだ。タイ料理はあと1ブロック。

そういえば一人でタイに行った時も目的なく彷徨った。あの時からこのスタイルだったんだな。勿体無くて結構スタイル。観光なんてしないし名物なんて食べない。できる限り日常から近いところを丁寧に歩く感じ。それだけでいいし、それ以外のことをするのは怖い。例えば像に乗るのが怖い。虐待とかそういう観点ではなく、観光客になることがたまらなく怖い。でも街を歩き続けている限り、自分は大丈夫だと思える、この感覚。

タイ料理屋は空いていた。ビールを注文する。隣席の女性二人はNoteの有料記事とアフィリエイトの話をしてる。着席して数秒で隣席の会話を把握できた俺っちのことをキキミミジョウズ様って呼んでほしい、ギリギリ10文字なんだから頼むよ。

メニューを開く。どれも美味そうだ。酸味も辛味も旨味も全てが強そうで、マンチーメニューすぎやしないか

ビールが卓上に運ばれる。やっとサッポロクラシック。苦くてうまい。苦さの度合いも当然の如く強まっているが、それを心地よく感じている。

ふと思う、今日のフェストでもサッポロビールの出店が見当たらなかったが、もしや地元民はサッポロビールがそこまで好きではないのか?外国人の店には当たり前のようにサッポロビールが押し付けられていて、実は札幌の人はアサヒとかプレモル派なのか?勘繰っても仕方のないことを勘繰る。厳密にいうと自分のことではないし勘繰っているとうよりただの仮説思考、なんだ良い習慣じゃんか。

隣の人たち。Youtubeの話に移ってる。「でも顔出さないにしても、私自分の声嫌いだからさ」。ラジオから流れる音楽と一緒に隣の席の会話は鮮明に聞こえている、ラジオから流れる音を下敷きにして際立っている感じさえ。

明朗。全てが明朗。ビールの胃での存在感がすごい。どいつもこいつも、今夜は存在感が強い。なんだか眼裏にテレビ塔の光までチカチカする気がしてきた。道中そんなに見上げたつもりはないんだけど。

そういえば大塚愛が「ハタチになった」とか言っていたな。Twitter(X)で見たのは確かだが、昨日だったか今日のことだったか。なぜこのタイミングで思い出したのかは分からない。隣の会話は軽々に続く。

「チキン撮るの忘れてたね」
「あはははは」
「美味しそーとか言ってすぐ食べちゃったよね」
「どんぶり勘定だから私」

ふむ、どんぶり勘定だから私、か。
文脈はまるで掴めず正しい使い方なのかはさておき、使い勝手のよさそうな言い回しである。

今度使ってみよう。
「肉と魚、どっちかしか食べられないとしたらどっち?」
「やっぱり冬は蟹鍋かなー、どんぶり勘定だから私」

「いつまでも君のことを大切にするよ」
「そーゆうキザな台詞まじで無理、どんぶり勘定だから私」

「御社を志望した理由は、どんぶり勘定だから私」

一番好きな食べ物な子
美味かったけど殻から一つ一つを箸で掬って口に運ぶ作業が永遠に感じられる、マンチー飯とし適しているようないないような、アサリ。

アサリもヤムウンセンも美味かったけど、トムヤムラーメンの海老の味があまりにも強くて、海老が苦手な人の気持ちが少しだけわかったのも良かったな。優しくなれた気がして、優しさを履き違えていることにも気づいて、その全てが心地よい奇妙な感覚。

旨味やら今この時やらが強調される感覚も、少しずつ薄まってきたような、変わっていないような。

しかし、腹を満たしたことで少しだけ感覚は変わったと思う。腹を満たすって本当に良いことだと一人頷く。食べられている限り大抵大丈夫だ、マンチーじゃない時も感謝しないとな。

それから私はタイ料理屋の入ったビルの誰もいない静かなトイレで手を洗ってから、創業40年のビアバー麦酒亭を目指した。

ということでブリブリな駄文を失礼しました。やはり、旅は街歩きですね。

クリーンな後半はComing Soon(書くかわからないけど。麦酒亭での一期一会〜翌日恋人との合流〜ワインはしご的な時間について、多分書かない。この文章を書き終えたのは東京駅のスタバ、札幌で時間を過ごした恋人とはすでに別れている。あぁでもそうか、スタバのモバイルオーダーについては書かなきゃいけないんだった)

翌日本気を出したスタバモバイルオーダーは下記のとおり。

でも呼ばれたのかどうか、思い出せないんだよな。嬉しかった記憶があるから、呼ばれたのかもしれない。呼ばれるかどうかを確かめたくてこんなことしてるはずなのに、それを思い出せないってどうなんだろうな。でも本質を見誤っている気はあんまりしないんだよな。つまり呼ばれるかどうかよりも、奇妙な形で人と接することこそが、ね。

関西出身の恋人のドリンクは「カンサイジン」様で受け取らせた。そちらは会話が弾んだようで、そういうことだよと思った。そういうことだよ。


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