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家にいるのに「帰りたい」と思ったこと、ありますか?

「家」という意味をもつ英語は2つある。「House」と「Home」だ。「House」は、器としての家。「Home」は"我が家"としての家だという。2020年から2021年にかけて、私たちはこれまでにないくらい「家」に目を向けた。あなたにとっての家は、「House」と「Home」どちらだろう。
そうだ。私たちは #ステイホーム をしているのだろうか? 
それとも、 #ステイハウス ?
この違いは、割と心にジリジリくる差なのではないかと私は思う。

家にいてもずっと「帰りたい」と思っていた

私は家にいるときも、よく「帰りたいなぁ」と呟いていた。それは、感情というよりは、願いに近い色合いで。そして、もぞもぞと居心地が悪い感じ。中学生くらいになる頃には、これは「帰りたい」という思いなのではないか、と自覚するようになっていた。

過去数回、どうにも耐えきれなくなって、自宅にいながら母親に「帰りたいんだよね」と漏らしたことがある。すると母は決まって、「何言っているの! もう帰っているでしょう。ここがあなたの家よ」と少し声を荒げて言った。もっともだ。
母からして見れば、家にいながら家でないような感覚を持っている娘に対して、悲しみのようなものを感じていたのかもしれない。いつも飄々としている母にしては珍しく、厳しい口調で、全力で、否定していたのを覚えている。

「そうか、『帰りたい』という言葉は母を傷つける言葉なのかもしれない」
そのことに気づいてからは、言葉を飲み込むようになった。そもそも自分自身も一体どこに帰りたいのかが、わからない。

もしかしたら、スピリチュアル的な話なのだろうか?
前世の記憶がそんな気持ちにさせている?とか、
天国的な場所に戻りたいと思っている?とか。
考えたところで、答えを運んできてくれる人(神様? 天使? だれ?)はいない。私に残された道は、この思いをなかったことにすることだけだった。

家への認識の希薄性

「House」と「Home」の違いを考えていく中で、私は多くの人が持っている「我が家」という概念が希薄なのではないかと思い至った。
たしかに、どこに住んでもいいし、どんな家でも多分いい。

大学時代に初めて一人暮らしをした時は、「大学とコンビニに近いところ」という2つの条件しかなかった。そんなざっくり感は、社会人になって家を選ぶ時になっても大して変わりはしなかった。
あ、高所恐怖症なので高層階は避けたいな。でも、そのくらい。

なんなら、ずっと「ホテル暮らしって便利でいいなぁ」「家って必要なのかなぁ」と思ってきた。たぶん、今でも、「あなた、明日からココに住んでね」と言われたら住むんだろうな、と思う。
こうした思いを告げると、一定の割合でギョッとされるのだけれど、それはたぶん「House」と「Home」の認識の違いなのだと思う。私にとって家は、器としての「House」だ。「Home」(我が家)の意識が強い人は、びっくりしちゃうよね、きっと。

家への執着がないと、他者の家の座敷わらしになれる

自分の家に執着していないと、何が起こるか?
それは、「自分の家も他人の家も概ね一緒」という気持ちになるのだ。なんて図々しいんだっ!という罵声が飛んできそうだが、ジャイアン的な「のび太のもの(家)も俺のもの(家)」的なことではなくて、座敷わらしな感じね。

…そっといますんで、
家族の中で楽しんでいますんで、
(勝手に)馴染んでいますんで…。
Homeのお裾分けをもらいながら、ポヨポヨと幸せになって。ほんと、これまで、私は色々な人の家にスッとお世話になり続けてきた。

大学時代、鬼のような邪魔者をしていた時期がある。付き合い立ての彼氏と半同棲を始めた友人の家に私も転がり込んで、川の字になって一緒に寝ていたのだ。感謝と謝罪。今でも、その友人に頭が上がらないのは言うまでもない。

私はどこに帰りたいのか?

ずっと私はどこに帰りたいのか?と問い続けてきた。しかし、この思いを直視すると、悲しみが込み上げて、どうしょうもない気持ちになる。だから、大人になってからは、極力見ないようにしてきた。

それでも、直視しなければいけない時期があった。

会社員時代の後半、私は半ば鬱のような状態になった。
その時私は、業務委託者からの納品物をチェックし、問題がある場合には指摘したり辞退させるコミュニケーションを取ったりする部門にいた。その前段階で、クオリティを上げるための研修を設計するといった役割もあったのだが、当時の私は、どうしてもマイナスの側面にしか目がいかなくなってしまっていた。

モヤのかかった頭でいると、落し物は増えるし、仕事もちぐはぐになった。これまでできていたことがどんどんできなくなっていくことで、自分をさらに責めるようになる。

その時、「帰りたい」という頭の声は無視できないほどに大きくなった。「逃げ出したいということなのだろうか?」、責めながら自分と対峙した。
母と話している時にも、ずっと抑えていた「帰りたい」という言葉が口をついた。母は少し苛立ちながらも、追い詰められている娘を見て、「一体、どこに帰りたいっていうの?」と尋ねた。
私は相変わらず、その問いに明確に答えることができなかった。でもね、「帰りたい」と声に出していっただけでも、少し気持ちは楽になった。

#ステイホームではなく#ステイハウスの人、大丈夫?

恐ろしく誰得?のnoteを書いてしまったような気がする。でも、もしかしたら、私と同じような感覚を持った人がいるのではないか、と思ったのだ。

1回目の緊急事態宣言の後、#ステイホーム で「家族との会話が増えた」「子どもとの時間が増えてよかった」などのコメントを見る頻度が増えた。
もちろん、日常を制限されることに対する大変さや苦労もあったと思うのだが、家にいることも悪くないな、とあたたかな気持ちになった人が少なくなかった。
でもこの感覚は、#ステイホームだった方が得たものなんじゃないかなと思っている。

では、#ステイハウスだった人はどうだろう? 
家という器に閉じ込められただけだったら、なかなかしんどくはないだろうか? 
ねぇ、#ステイハウスをしている人、大丈夫? ホームにいる人たちと価値観が合わなくても、自分を責めなくていいと思う。帰りたかったら、どこに帰りたいのかわからなくても、「帰りたい」って言ってみたらどうかな? 少なくとも、私はその気持ち、わかる。

【おつまみに】

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