我慢をすると我慢を強いる人になる。我慢から楽しさへの転換を。

コロナ禍でパチンコに行ってしまう人やサーフィンに向かう人、沖縄への渡航を考えている人などが日々報道されている。もともと家で過ごすことが多い私は生活が大きく変わった感覚はそこまでないのだが、一方で家にいることへの我慢に「限界だ!」と叫ぶ人も少なくない。
これまで以上にどんどん「我慢」度が高まれば、
「あの家は昨日も行っていたのに今日もスーパーに行っている」
「あの一家は公園で遊んでいる!」
など、他者への目がどんどん厳しくなる可能性がある。

◆「我慢」という言葉が気になっている

私はこの混乱下においてことあるごとに言われている、「我慢」という言葉が引っかかっている。吉藤オリィさんの『サイボーグ時代』の取材をしていた際、”我慢は我慢を呼ぶ”という話になった。(かなりかいつまんで言うとね。詳しくはこちらをご参照ください。↓)

「俺たちの若い頃はこんなこと当たり前だったんだよ(だから我慢しろ)」
「会社なんて理不尽なものだよ(だから我慢しろ)」

我慢をしている人がしたいことは、人に我慢を強いること。そして、我慢をしない人を批難することだ。

難しい表現だけれども、現在は正当な自粛の声が大多数であると思うし、そう願っている。(何が正当で何が我慢の反動なのかの精査はとても難しいけれど。)でも、自分が「我慢をした」という思いはいつの間にか怨念に変わり、「だからお前も我慢しろ」にすりかわることを私たちは覚えておかないといけないように思う。これから一層おこもり期間が長引けば、我慢の反動は大きくなる。  

我慢から排出される正義は、「自分も我慢しているのだから」に裏打ちされてしまう。そうすると本質はどんどん見えなくなる。 ちなみにその「正義」についても思うところがあって、noteを書いた。

◆我慢の反対側とは?

では、「我慢しろ」の反対側には何があるのだろう?
それは、「楽しもう」だと思う。SNSで多くの人がどんなふうに楽しんでいるかを発信しているし、芸能人の自宅での過ごし方などもよく取り上げられている。
自粛期間がはじまったばかりの頃、私はテレビでのそんな特集を見ては「何を呑気な……」と感じていた。(あまりに他愛もないことだと、今でもちょっと思うんだが。)「楽しみ方」を教えなくたって、みんなそれぞれ考えればいいでしょうと見ていたのだ。

でも、今は少し考え方が変わっている。

自宅での時間を楽しめない人は思いの外多い。それは、これまで日本人が一生懸命外で学び、外で働いてきたからでもある。
一言で言うと、みんな忙しくてひとりでじっくりと室内の時間を過ごす時間を持ててこなかった。(本当に偉いよ、ここまでよく頑張ったよ。)
だから、自宅での過ごし方のサンプル数を増やすことは案外重要であったりもするのではと思うようになった。どうやったら楽しめるかをみんなで知恵を出して考えよう。「家で我慢をしよう」ではなく、「家で楽しむんだ」と思えたらいいよね。

でも、「家での生活を充実させるぞ」とあんまり肩に力を入れすぎると疲れちゃうから、ゆるやかに、1日1つくらい楽しみを散りばめていけたらいいんじゃないかな、と思っている。

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