奴隷の幸福
「奴隷の幸福」という言葉があります。
選択肢がなく、半ば強要されて「しなければならない」ものを提示されていた方が”ラク”だ、という人間の性質を表した言葉だとされています。
人間は、自由を求め続け、自分の思う通りに生きたいという欲求で生きていると思いがちです。しかし、実のところそれだけではない。
「誰かに決めてほしい」
「自分ですべての決断は負いたくない」
「みんながやっていることをやりたい」
そんな「自由」とは相反する気持ちを同時に持ち続けているのが、人間なのだと思うのです。
先日、コミュニティのあり方について話しているときに、『WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE. ~現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ~』(佐渡島庸平さん著)で登場した、この「奴隷の幸福」という言葉をふと思い出したのでした。
時々、会社員で会社の文句をずっと言い続けている方がいます。「自分のしたい仕事ができない」「上司が横柄だ」「あんな会社に未来はない」……そんな言葉を聞くと、「さっさと辞めればいいのに」と私は思ってしまします。とはいえ、そんな簡単なものではないんでしょう。生計を支えているのかもしれませんし、生きていくためには今の給料が必要なのかもしれません。
しかし、もしも自分で何かしらのアクションをしたならば、部署を変更してもらう、仕事内容を変えてもらう、くらいの変動はできるかもしれません。
しかし、多くの場合、会社の文句をずっと言い続ける彼らは動かない。
なぜか?
「行動力がない」という理由もあるでしょうが、それだけではないでしょう。それは、彼らが「奴隷の幸福」の中にいるからではないかと思うのです。選択肢がないことに不満を述べながら、その一方で快楽を感じている。そのいびつ性が人間にはあるような気がしてなりません。
これからの時代、生き方は一層多様化します。企業や組織で働く人の方が少ない時代になるかもしれませんし、ベーシックインカム時代が到来したら”働くこと”事態が任意となります。
そんな時代において、奴隷であることはなんの意味もなしません。いやむしろ、「奴隷になりたい」という衝動は、強権的なリーダーを求めるようになったり、強い縛りや排他性を美徳にする組織の求心力を増大したり、マイナスの事態を引き起こすパワーにもなりうると思うのです。
「奴隷であること」に対して幸福を感じる度合いは、人によって異なるはずです。
しかし、「私はゼッタイ大丈夫。奴隷になんてならない」などと思っていたとしても、知らぬ間に「奴隷の幸福」にハマってしまうこともあると思います。「主体的に選び取った」と考えていた場所が、実は奴隷制を強いるような場所だったというケースは大いにありうるのではないでしょうか。
私がいうまでもなく、これからは一層自由の度合いが強まった社会となります。職場、学校、家族が主だったコミュニティであった時代から、多様なコミュニティが群雄割拠する時代となるでしょう。だからこそ、私たちは自身の中に潜む奴隷性に敏感でなければいけないと思うのです。
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