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永遠につづくないものねだり。

うまいかどうかとは、別のベクトルで読後感に何を遺すかという違いが文章にはある。それは、書き手が持つパーソナルな何かによるところが大きくて、テイストの鞍替えをするのは非常に難しいと思う。
それこそ、人生における考え方を大転換するようなできごとが起こらないと…変わらないのかもしれない。

私の文章の根底には、おそらく、アンバラスさや飢餓感があるのではないかと思う。あとは、社会やものごとに対する強烈な違和感。読後感は、おそらく自分の中に潜水していくような感覚。息苦しいけれど、好奇心がうずく。
そんな感じ。

もしかしたら、私のすべてが満たされて、置かれた環境に文句ひとつなくなったら、なにも紡ぎ出せなくなるのではないか…?という恐怖も実はある。

おそらく人生において、すべての環境に100%満足することなんてないし、自ら葛藤を生み出しちゃう性格だから、取り越し苦労以外のなにものでもないような気もするけれど。
書けなくなったならば、「もう書かなくていい」と人生の課題をひとつクリアしたということなのかもしれないなとも思う。

こんな私の一方で、幸福感や愛情が文章の根底にある人もいる。こうした人たちは、日常に寄り添うような文章が書ける。バックミュージックとして流しておきたいような、心地よい旋律。

そんな文章を読むと、「あぁ…」と思う。
「私には書けない」、と。ライターの仕事であれば、見本のテイストに合わせることができる。しかし、それは自分の内面を炙り出したものではない。質の良い製品をつくる感覚だから、自分が自分と向き合って書くのとはちょっと違う。

ここ最近、どうして自分には幸せな文章が書けないんだろうと悩み、少し落ち込んだ。ルンルン♪する文章を習得できないかと、日頃読まないジャンルの本を読んだりもした。(最後までしっくりこないまま、終了。)

こんなモヤモヤを友人に話してみた。そして、こう言われた。
「いま、あなたの文章が好きな人がいるんだから、それでいいじゃないの。もしも、あなたの文章のテイストが変わったら、その人たちはあなたの文章を好きにならないかもしれないよ?」

たしかに…。
「note 楽しみにしてるんですよ!」
「佐藤さんの文章、好きです!」
そんなふうに言ってくださる方がいる。本当に嬉しいし、ありがたいことだ。

きっと…。
私の文章への想いは、ないものねだりなんだろうな。このないものねだりいつまで続くのだろうか。(永遠…?えー…。まぁ、仕方ないか。)

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いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。