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『ボヘミアンラプソディ』が投げかけた豪速球

久しぶりの映画館。足を運べなかった理由は、仕事に追われていたから、他にやらなければいけないことがあったから。映画を観たり、雑誌を眺めたり、本屋に足を運んだり…。そうした「余白のある時間」が過ごせなくなっていたのでした。

日々充実しているということだし、自営業という性質上、多忙なのはとてつもなくありがたいことなんだけれど。しかし、自分の「持っているもの」だけで仕事をしているのはマズイなと感じる出来事があって。余白が必要なのではないか?とふと思い、出かけました。

というのも、書籍の制作に「センス」がものすごく必要なんだ…!ということに気づかされる「事件(私の中だけで)」があったんです。当たり前といえば当たり前なのだけれど。私はわかっているようで、わかっていなかったみたい。

尊敬する編集者のひとりは、「仕事で」と言ってよく映画館やら美術館へ足を運んでいました。
その時は、
「いや、あんた、行きたいだけだろ!」
と心の中で突っ込んでいたんですが、まんざら嘘ではなかったのかもしれないなぁと、最近、「センスの重要性」を感じて、思い返したのでした。

センスは磨かなければ、腐っていくーーー
もちろん持って生まれたものの差はあるだろうけれど、努力も必要そう。編集者という立場で働くこともある以上、センスに対して敏感である必要があるのだと、今更ながら感じたのでした。(余談だけれど、たぶんライターとしても、センスは必要だろうなと思っています。)

「意識的に余白の時間を持て」。
ほんのりした2019年の目標ができたかも…と思いつつ、『ボヘミアンラプソディ』を観に映画館へ向かいました。

* * *

正直に告白をすると…、私はQueenどころか、洋楽にすら興味のない人間です。だから、「話題になっているので」というプチダサめの理由でひとりで映画館に向かったのでした。

前知識もないですし、期待値はそんな高かったわけではないんだけれど、観てしまったらnoteに書かずにはいられなかった。 というのが、今の状況。

凄音の大迫力。圧倒的なオリジナリティ。

そして、ストーリーにも魅了されました。
フレディ・マーキュリーがバンドから離れて、ソロ活動に目がくらみ、結果毎日ドラッグとナイトパーティに溺れていく。エイズにもこの時に罹患したのだろうかという気配で描かれる。
周囲から見れば、彼は好き勝手に生きているし、富も名声も手に入れている。ちやほやしてくれる人もいる。
…しかし、明らかに埋まらない心の穴がある。

もっとも心に残ったのは(というか、号泣したのは)、
そんな心の穴に飲み込まれそうになった彼のもとに、ゲイになる前の恋人であり、その後も生涯の友人であり続けたメアリー・オースティンが訪れたシーン。

彼に、
「あなたは愛されている。バンドのメンバーにも、私にも、愛されている。それ以外に、なにが望みなの? それで十分じゃないの」
と言います。そして、彼は気づく。自分は既に大事なものを持っていたのだ、ということを。

* * *

私は、これまで「心に開いた穴」について何度かnoteで取り上げてきました。

そして、穴の存在を否定するのも違うし、埋めようと躍起になるのも違うのかもしれないな、と思うようになりました。「穴とともに生きていく」、私のnoteを読んだ友人のそんな言葉を聞いて、私も開き直って生きていこうと思ったりもしました。

しかし、
やっぱり穴を受け止めきれない…という思いもあるのです。それは、黒い穴に飲み込まれそうになることがあるからです。

飲み込まれそうになると、
フレディ・マーキュリーと同じように、今持つすべてを投げ出して新しく自分の穴を埋められるピースを探そうとしてしまうのです。自分はありのままの存在で愛されているということに、気づけなくなってしまう。

そうなんです。恐ろしいことに、私にもそういうことがある。
「今の自分が置かれている幸せな状況」に気づけない。これは自分の首を占める非常に悪い癖だと、最近気づきました。

『ボヘミアンラプソディ』は、私に「愛されていることに気づきなさい」という豪速球を投げてきた。ストレートだ。まいったなぁ。これは「観ろ」と見えない誰かにいわれたのかもしれない、とすら今思ってしまっています。

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。