見出し画像

感情は単色ではない。

「楽しい」「きれい」「嬉しい」…
「悲しい」「苦しい」「腹立たしい」…
そんなふうに書こうとして手を止める。最近の私によくある傾向だ。noteを毎日更新しづらくなったのも、ここに少し起因する。SNSであろうと、ブログであろうと、仕事の原稿であろうと、単色的な感情表現の言葉を使いにくくなった。

人が抱く感情は、「赤」「黒」「青」などの単色ではない。
そんなことに気づくと、一時を切り出す文章であっても単色的な感情表現をすることに躊躇が生まれた。

例えば、満開の桜並木を歩いていたとする。
その時に抱く感情は、「きれいだなぁ」「幸せだなぁ」だけだろうか?
私は「きれいだな」とも思うが、同時に「寂寥感」や「心の隅にある小さな後悔」「孤独」「傲慢さ」なども感じる。時には、マイナス領域の感情のバロメーターが振り切ってしまい、幸せの象徴のような花見の場でひとり心が沈み切らぬように戦っていることもある。

いま、書いていて気づいたのだが一言で言い表せない感情がこみ上げるから、日本人の多くが桜を見上げるのだろうか。

感情は、単色ではない。
私はこれまでずっと単調ではない自分の感情の管理に苦労してきた。

感情はトンボ玉のようなものだ、と私は思っている。どこに目をやるかで、色味がまったく違う。そしてコロコロと色が入れ替わる。それは複雑で、まだ色としての言葉を持っていない「色」さえあるかもしれない。

最近の私は、その感情を捉えて、なんとか縁取りを与えたいと思っている。
単色で自身の気持ちを表現した気になりたくはない。
だから、ぽつんぽつんと立ち止まり、自分の心を正視して、どんな色合いなのかを確認し、恐る恐る書いていく。このそろりそろりとした表現は、どこかの誰かに届いているだろうか。

少し話がそれるかもしれないが、多様な経験を積むことは、人間的な幅を広げ、価値があるといわれている。読書や映画鑑賞、舞台を観ることも、教養を深めるものとして価値付けられている。

たしかにその通りだ。
が、私にとっては、人間的な幅を広げるためや教養を深めるためだけの価値ではない。
あらゆる経験も、あらゆる文化的活動も、私にとっては感情のストックを増やすためのものであると思うのだ。新しい経験からは新しい感情が生まれる。そして、新しいものを見ても新たな感情が生まれていく。

その感情のストックができていくことこそが、自分にとっての生きる価値なんじゃないか? 私はそんなふうに感じている。(つまり、外の世界に興味があるように見えて、実のところ、自分の心への深い深い関心が私を突き動かしているらしい。)
だから…、人からみたらしんどい経験でも、「しなくてもいい」ような体験でも、「こんなシチュエーションで、私はこう心が動くんだ」と感情のストックができるという意味で価値がある。
そんなことに気づいたら、またひとつ感情の色のストックが増えたみたいだ。

<ツマミにこちらもどうぞ>


いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。