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気の合う人たちに囲まれた生活は嘘っぱちなのか。


久しぶりにnoteを更新します。

さて、早速ですが『気の合う人たちに囲まれた生活は嘘っぱち』なのでしょうか。どう考えますか?



僕は日本各地を旅するように生活する日々を通じて、『偶然の旅』と『繋がりの旅』を両方体験しました。



『偶然の旅』は、自転車で日本各地を巡ることをしていた頃。偶然声をかけてくださった方やその地域に滞在するなかで、知らない世界が拡がっていく体験でした。

文化も日常も世代も異なる人たちとの出会いを繰り返す日々の中で、様々な価値観に触れ、様々な発見をしました。


『繋がりの旅』は、その後の『移動式ゲストハウスHouse Caravan』の活動や『旅人インレジデンス(シェアハウス住み開き)』『微住』などをしていた頃。

偶然といえなくもないけど、根本にあるコンセプトや想いのようなものを面白がる人たちとの出会いが中心で、同じような価値観、同じような趣味趣向、『共通言語』のようなもので繋がっている感覚を多く感じる体験でした。



僕は後者の『繋がりの旅』に心地よさを見出し、同じような趣味趣向、好奇心を持つ人たちと出会う日々に面白さを感じていましたが、いつからか『一般社会』『世間』のようなものと遠ざかっていくような感覚を覚え、これでいいのかな?と疑問を感じ始めました。

同じような人たちで盛り上がり、同じような人たちで日常を送る。一歩公共の場に出れば、僕たちの共通言語を理解できない人も少なくないし、内輪で盛り上がっている感じに、なんとなしの違和感を覚えました。

(とはいえ、排他的なわけでもなかったと思うし、『巻き込んでいく』ようなことも少なくなかったと振り返ります)


旅するような5年間の生活を終え、結局僕は地元に帰りサラリーマンとして再スタートを切ります。



生活環境のチョイスが悪いのかもしれませんが、こちら側の生活に戻ると、今までの『共通言語』は全然伝わらないし、あからさまに少数派になった感覚がありました。

面白がってくれる人もいるわけですが、はまっていないような感覚を覚えたり、退屈や違和感を感じてしまったり、なんだかムズムズするわけです。

居心地は『同じような人たちで構成された日常』のほうが圧倒的によく、自分らしく在れたような気がしています。

まだ新しい生活を始めて1年も経たないわけで、徐々に馴染んでいくのかもしれませんが、『ここにアンカーを降ろす』覚悟がまだ出来ていません。

一旦やれるだけのことをやろう…ということも考えるわけですが、周囲の反発や嫌悪を受け止めながら、それでも頑なに自分らしくあり続けることを望むのか…というと、ある程度妥協や同調をしながら、寄り添っていく方が生きやすいのでは?などと思うのです。

なんというか、今の生活に『こだわるだけの熱量が持てていない』のです。執着が少ないので、手放すこともわりと容易なのです。



気の合わない人たちとぶつかり合ったり、生きづらさや違和感を感じながら生きるくらいなら、そういう人たちとは少し距離を置いて、気の合う人たちと暮らす日々でいいのではないか…と思考が一周するわけですが、そこに甘えがあるような気もして、もっと強い自分であるべきだ…なんて思ったりもしています。

(全く同じことなんてありえないから、気の合う人たち同士でぶつかることも当然あるのだけど、根本的な想いやビジョンが近しいから乗り越えられることもあるのかなぁと。妥協せず執着できる熱量があることって素晴らしいと思うのです。)

『気の合う人たちに囲まれた生活』に世間と遠ざかっているような感覚を覚えたわけですが、世間と近づいたところで『世間と遠い価値観を持っている僕』は変わらないわけで、結局どっちの方が自分らしく生きれるのだろうか?などと考えています。


置かれた場所で咲くのか。
咲かす場所を選択するのか。


この日常の先に、果たしてどんな未来があるのでしょうか。そんな日々です。



日本微住計画BLOG


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