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冷蔵庫

 十八年間使った冷蔵庫が壊れてしまった。

 一年ほど前から調子が悪く、そろそろ買い替えなくてはと思ってはいたのだが、何となくその気になれなくて、先延ばしにしていた。
 でも昨日の夕方、クリームシチューに入れようと牛乳を取り出したらそのパックが常温と変わらず、中身をコップに注いで飲んでみてもぬるいことを確認して、もう限界だと思った。
 こういうことには腰が重い夫も、風呂上がりに食べようとしたアイスキャンディーが溶けているのを見て、
「こりゃあもうだめだな。」
と、納得した。
 それで今日、近所の家電量販店に、夫と二女と一緒に冷蔵庫を買いに来たのだった。
 買ってすぐに持って帰れるものではないので、とにかく早く購入手続きをしたかった。
 一緒に住んでいる家族は、夫と長女、長男、二女の四人である。三人の子どもたちは社会人になったものの、皆実家暮らしをしている。
 今日は、長女は学生時代の友人とランチに出かけ、長男は自室に籠ってインターネットゲームに興じている。
 冷蔵庫を買いに家電量販店に行くと言うと、二女だけが、
「わたし、USBメモリを買いたいな。」
と言って従いてきたのである。

 壊れた冷蔵庫は、家族にとって二台目の冷蔵庫だった。
 一台目は、結婚するときに、いわゆる嫁入り道具のひとつとして両親が買ってくれたものだった。 
 まだ、この結婚生活がどのように発展していくのか見当もつかず、一般的に新婚家庭で必要な大きさだとすすめられたものを買った。
 やがて長女が生まれ、長男が生まれ、二女が生まれ、あっという間に冷蔵庫には常に食材がぱんぱんに入れられているようになった。
 それでも、その一台目の冷蔵庫を、十二年使った。
 それを二台目に買い替えたのは、やはり壊れてしまったからだった。
 子どもたちがしょっちゅう乱暴に開け閉めしていたせいか、機能よりも扉の接続部が真っ先に壊れてしまったのだ。
 三人の食べ盛りの子どもたちがいるのだからと、当時の最大容量と宣伝されていた冷蔵庫を買った。
 それも、十八年間休まず働いて、とうとう壊れてしまったのだなあ、と、しみじみと思う。
 家電量販店の冷蔵庫売り場で、ずらりと並ぶたくさんの冷蔵庫を眺めながら、さて、どうしたものかと思う。
 この先、夫と二人だけの生活になるのなら、もう大容量でなくてもいいだろう。
 長女は三十歳、長男は二十七歳、二女は二十四歳である。いつ結婚して家を出て行ってもおかしくはない。
 実際、子どもの年齢が似たようなまわりの家族では、子どもたちが結婚して家を出て行き、夫婦二人でのんびり暮らしているところが大半である。
 「どの冷蔵庫を買うの?」
 自分に要りようのUSBメモリの購入を済ませて、冷蔵庫売り場にやって来た二女が夫にたずねている。
 「そうだなあ。」
 夫は端のものからひとつひとつ扉を開けては中を見回している。
 「冷凍庫が大きいほうがいいな。アイスクリームをたくさん買い置きできるよ。」
 アイスクリーム好きの二女が言う。まだまだ家を出る気はなさそうである。いや、長女にしろ長男にしろ、家を出て行く気配はない。
 売り場の中ほどにある、黒い冷蔵庫の前に来る。黒は今年の流行色らしい。そして、その黒い冷蔵庫はとても大きい。
 扉を開けてみる。閉めてみる。野菜室の引き出しを開けてみる。閉めてみる。冷凍庫の引き出しを開けてみる。閉めてみる。
 そして、正面から黒い扉を眺めた。
 その黒い扉はガラス製とのことで、まるで鏡のようである。そこに、結婚三十一年目の自分の顔が映っていた。
  五人家族の暮らしのなかで、今も家事に追われる毎日は変わらず忙しく、ゆっくり鏡台の前に座ることなどほとんどない。
 黒い冷蔵庫の扉に映った自分の顔をまじまじと眺めながら、われながら老けたなあと思った。

 思えば結婚するときに買った一台目の冷蔵庫は、白物家電の呼び名の通り、白い扉だった。
 新婚の夫婦の食卓、そして幼いこどもたちの成長を支えてきた、無我夢中で子育てをしていたころの同志だった。
 二台目の冷蔵庫の色はグレーだった。
 そのころは、パステルカラーやビビッドカラーなどさまざまな色の冷蔵庫があったように思う。それらの中で、無難で落ち着いた色がいいと思って、グレーを選んだのだった。
 そして、それからすぐ、夫の不倫が発覚し、夫婦関係はずたずたになった。
 子どもたちの前では何とか平静を装ってふんばっていても、精神の不安定さは子どもたちにも伝わっていただろう。あの頃は自分も子どもたちも、笑顔がぎこちなかった。
 その後夫の不倫はどう決着したのか、夫婦のいさかいはしばらく続いたが、やがてうやむやにされてしまった。
 たとえすべてを壊してしまってでも白黒はっきりさせたいと思う一方で、子どもたちのことを思うと、家族をばらばらにしてしまう覚悟ができなかった。感情は抑え込んだまま、夫との関係は表面上は凪いだまま、今日まできてしまった気がする。

 二台目の冷蔵庫は、自分で自分の心をなだめながら、ただただ子どもたちには温かい食事を摂らせなければと思い詰めていたころの同志だった。

 多感な時期にそんな夫婦関係を見せたせいで、三人の子どもたちは、結婚には夢や理想を持てないのかもしれない。
 長女にしろ長男にしろ二女にしろ、絶対に結婚したくないというわけではなさそうだが、結婚したいというわけでもないらしい。それぞれ友人の結婚式に招ばれても淡々としている。
 結婚というものに対して、身近に幸せな見本を示せなかった自分と夫のせいだろう。
 黒い扉に手をあてて思った。
 子どもたちは三人とも結婚しないかもしれない。三人とも転勤の予定のない仕事をしているので、この先実家を出ていくことはないかもしれない。
 それでもいい。
 この先もずっと三人の子どもたちが実家暮らしを続けるなら、やはり大容量の冷蔵庫がいいだろう。
 自分と夫もいずれ年老いて、いつか他界して、三人で暮らす日々が来るかもしれない。
 それでもいい。幸いきょうだいの仲はいい。実家をシェアハウスのようにして、三人で暮らしていけばいい。
 あるいは、子どもたちのうちの誰かは結婚するかもしれない。もしかしたら、三人とも結婚するかもしれない。
 それならそれはまた喜ばしいことだ。
 そしてやがて孫が生まれ、その孫を連れて遊びに来るかもしれない。それなら、やはり大きい冷蔵庫がいい。孫のために手作りのおやつをいっぱい用意して待っていよう。

 小一時間も黒い冷蔵庫の前に立って、そんなことを考えた。そして、小さく息をついて、それから、
 「やっぱり、大きい冷蔵庫がいいわよね。」
 そう言って、夫と二女のほうを見た。
 「これにしましょうよ。家の冷蔵庫置き場に置けるし、今の冷蔵庫より、容量は少し大きいわ。」
 その黒い冷蔵庫を示した。
 夫は何も言わなかった。
 二女が、
「賛成。大きいほうが何かと便利よ。アイスクリームだってケーキだってたくさん入れられるもの。」
と言った。そしてさっそく、携帯電話のラインで姉と兄に知らせていた。
 この先、どんなふうに三人の子どもたちそれぞれの生活が変化していったとしても、この黒い冷蔵庫が中心にあって、食を支え生を支えてくれるだろうと思えた。

 黒い大きな冷蔵庫は、家の台所に馴染むだろうと思った。

                               (了)




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