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フリーランス3年目突入!これまでのキャリアと人生の振り返りと、これからについて話そうと思う。


フリーランスを目指したきっかけ

実は昔から「自分に会社員は絶対に無理」と思っていたものの、世の中の動きに流されるまま一旦就職をすることになった。

でも、会社員は合わないなと思いつつも『自分が何をしたいのかわからない』状態だし、そんな職業が自分に向いているのかもわからない状態だった。

そもそも『働く』ということに対して興味すら湧いてなくて、その時はなんで働くのかと言うことすらわかっていなかったと思う。

最初にADをやることになったのは知り合いからの紹介でなんとなくと言う理由で始めることになった。

正直全然面白いと思えなかった。

唯一良かったのは、出勤時間が自由で融通が利いていたことくらい。

ADになってからも別にやりたいことややってみたい番組があったわけではない。

ある日上司から「将来どうしたいの?ディレクター?プロデューサー?」と聞かれて何も答えられなかったのは今でも鮮明に覚えています。だってテレビの仕事になんて興味がなかったのだから。

でも、仕事は全然面白くなかったけど全部がつまらなかったわけではない。

例えば、ロケに行ってタレントさんと一緒に普段はいけないようなところに行ったり、テレビ局の裏側や番組制作で台本の中身を見た時の衝撃や、芸人さんの不自由さなどを色々垣間見た瞬間に、世界の裏側をのぞいたような気持ちになってそこはすごく面白かったです。

でも、僕自身仕事そのものがめちゃくちゃ嫌いだったし、動画の編集作業みたいな退屈な作業をすることには到底耐えられませんでした。

その中でも一番しんどかったのは、高圧的なディレクターから『寒いからなんか買ってこい』とか超絶曖昧な指示が飛んできた際に、意に沿わないものを買ってくるとぶん殴られるみたいな状況が一番しんどかったです。僕にとって、自分が望むものや欲しいものを相手に対して具体的に話して意思疎通をすると言うことは普通のことで、それができない人に対して怒りを感じていたからです。

なので、こう言う命令を素直にこなせない僕は当時めっちゃ苦労しました。だって、お前の気持ちなんてわからないんだもんって当時は本気で思っていました。

でも、なんだかんだ人は良かったし、今でも連絡を取る人はいるので人間関係はめっちゃ悪いってわけでもなかった方だと思う。

他にも「なんでこんなにキツイことに耐えられるんだろう」と思っていたのでそれを当時の友人に聞いたら「仕事だからねぇ」と言っていたことが印象的でした。
僕はいくら仕事でもただつまらないキツイことに耐えられるほど精神が強くなかったからです。面白いことでも、それが自分にとって必要なものだと判断できないことに耐えるだけと言うのはマジでしんどかったのを覚えている。

一番能力が発揮されていたのは、文献を調べたりするのに国会図書館で戦時中の資料を本気で発掘したり、インタビューをしたりする場面。また、当時みんなが『野球場が借りられないか』みたいな話になった時に知り合いの元高校球児に連絡をとってアポイントを決めてくるなど、常識に縛られない方法で問題に臨んでいたのは昔からそうだったようです。

でもそれ以外はからきしダメで、テレビ業界で生き残ろうなどと微塵も考えていなかったので半年でこの業界を去ることに。

他にも、気になって他の人に「この業界で何をしたいんですか?」と聞いてみても「テレビが好きだから」と言う理由には納得ができたものの、「俺がこの世を動かしているって言う感覚は気持ちいいぞ!」とか「天下のT◯Sで働いてること自体が素晴らしいのだ」みたいな局員さんが言うことは理解できなかったです。それをやって「目的」がどこにあるのか当時の僕の頭ですら考えていたことだったからです。

当時から僕は「目的」を持って働きたいと心から切望していたのかもしれません。でも、この天下のテレビ局内でもその答えを明確に示せる人はなかなかいませんでした。

唯一同期で大人気YouTuberになったADの子は起業家として活躍したいという明確なビジョンがあって取り組んでましたが、若造の提案が大手キー局で通るわけもなく偉い人から「空気を読んでください」と言われて辞めたと言うのは印象に残っています。

おもろい人ってこう言う人だよなと当時から思っていました。
好き勝手生きてる人ほど面白いもんです、その分大変でもあるけど。

公務員になるまで

ADを辞めた後、次は何をしようかと悩んでいました。
何気に一番苦労したかもしれません。

それまで「やりたいこと」なんて考えてなかったし、僕にとって『労働』ということ自体に何一つ良い印象を持っていなかったからです。

それに、たとえ大きな対価が発生したからと言ってそれが死ぬほどキツイものだったら僕は本当に嫌だと感じていたからです。
どこまでも自分の心に嘘のつけないやつだなと思います。

でも、働かないと食っていけないし最低限の生活すらままならない。
なのに、特にやりたいことがないという状況でものすごく悩みました。

しかも、そこで培ったことを活かして働くとなるとまたADになるという地獄みたいなサイクルに巻き込まれるという想像がついたので、今と全く違う業界で働かなければならないという考えだったはずです。

でも、これといったスキルがあるわけでもなくすでに24歳になっていたので焦りもあって、でも仕事選びの方法なんて誰も教えてくれないので困っていたのは鮮明に覚えています。

そこで大学時代の友達に相談してそれぞれの職場環境について聞いてみて、僕みたいな人間が就職できるのかという部分を結構相談に乗ってもらった。

でも、当時は営業みたいな乱暴な仕事はすごく嫌だと思っていたし、かといって誇れるような技術を持っているわけではない。
リサーチ能力や、あまりにも型破りな問題解決の方法は普通の会社では嫌がられるのもわかってたのでどんどん追い込まれていきました。

そうこう考えてるうちにどうでも良くなって、スキルがなくても勉強さえできれば将来安泰という噂の公務員への受験が決まったのです。

これが人生最大の過ちだと気づくすべもないまま。

そうこうして、公務員試験の勉強がスタートします。

2018年の5月のことです。
1年間本気で勉強してみて、何気にこれまでちゃんと勉強したことがなかったので公務員試験の勉強自体は楽しんで取り組めていました。
なんなら人生で一番楽しかったかもしれません。

学校の勉強が本気でクソおもん無いと思ってこれまで勉強してこなかったのですが、公務員予備校の先生はとにかく教えるのが上手くするすると飲み込めた記憶があります。
勉強しすぎてノールックで満点取るくらいのレベルになっていました。

順位も全国17位くらいで難関大学出身の人を抑えて文系無職がトップに躍り出るみたいな事態になっていました。

原因は「夢中だったから」に他なりません。

他の人が出世したり頑張っている中、当時ADの頃から見てきた同期に役職がついて焦るということもあって「やるしかない」という焦燥感もあって、ぶっちぎりで合格するくらいじゃないとやばいと当時は思っていたからです。

早起きも嫌いだったのに、当時はそうした状況もあって7時から予備校の自習室に行って、参考書のページ数やひっかけのパターンも過去10年分全部研究し尽くしてひっかけのパターンとか予想問題まで作って臨んでいた始末です。これでも1位になれないのかと思っていたけど、それでも専門科目はほとんど満点だったので科目ごとには全国で1位をとっているような感じでした。

そして受験当日も余裕しゃーしゃーで合格して、何食わぬ顔して入庁が決まった当時のことを忘れはしません。

入庁するまでが幸せの絶頂だったと思う。

公務員時代

地獄の幕開けです。

時は、大コロナ時代。・・・・安定、年功序列、常識・・・この世の全てが崩壊した。平成が死に際に放った一言は、人々を海(意味深)へ駆り立てた。

冗談はさておき、世界中の人たちがゴーイングメリー号に乗って強制的に混沌という海に放り出された2019年、僕は公務員になった。

そしてこのコロナというやつはこれまでの役所の常識すらひっくり返してしまったのです。

コロナは自然災害で、前例のない事態に前例踏襲の役所は全庁的に大パニック。しかし行政は法律に則って運用されるもの。

前例のない事態でコロナのようなものを想定した法律など当然なく現場は大パニック。
なんとかそれっぽい法律を適用して乗り越えようとしていくものの、該当しなければ全て根本から意思決定そのものがひっくり返される。
それが僕の公務員生活の幕開けでした。

当然教えてくれる人などいるわけでもなく、それは仕方のないことだと思っていたので当時は本当に頑張っていたと思います。

ただ、上司や環境には本当に恵まれていませんでした。

一番歳の近い人で30代後半、あとは定年間近の死にかけのおっさんやお局ばかりで息苦しいことこの上ないという環境。

そんなこんなでコロナのドタバタが落ち着いて通常業務に戻ってきたその頃、業務内容についてまだまだ分からないことだらけで勝手を掴もうとして色んな人にアドバイスを求めようとしていた頃のこと、ある異変に気がつくようになります。

それは「丁寧に聞いても誰も方向性すら示すことをしない」ということが衝撃的だったのです。
もちろんですが、最初から何でもかんでも答えを求めていたわけでもなく、「この場合に意思決定ってこのフローでいいんだよね?」みたいなことを確認しにいく時でさえ「考えたのぉ〜?」とお局に聞かれる始末。

もうブチギレです。本気で全員死んだ方がいいのにって絶望しまくってました。考えてるねん、その上で確認しとんねん、せめて意図くらい話してくれと思ったものの、そんな思いも虚しく全スルーされるという始末。

正直この時が一番きつかったです。

一回会議のタイミングで「最低限教育の環境を整備したほうがいいのではないでしょうか?」と提案してみたこともあるのですが、上司から鼻で笑われたことをきっかけに僕は業務に対してではなく「こいつらと居たら僕の人間性まで腐敗してしまう」と思って転職を決意していくことになります。

他にも結構びっくりしたのは、他の部署の上司の人と話してた時に「俺こんなに頑張ってるのに新卒の人とほとんど給料変わらないんだぜ、やばくない?」と言われた時でした。

その人はパワハラでちょっと有名な人でしたが、ぼくが入庁したタイミングより前に一旦処されて丸くなったと聞いていた人でした。

その人は仕事はできるし、予算もちゃんととってきて職員に分配するということをやってましたけど、公務員の給料を増やす方法は残業かたまのボーナスみたいに発生する選挙の手伝いに行く時くらいです。

こうしたことを見ていくうちに、気分屋で筋の通らない上司と自分が絶対に正しくてこの世の全てを知っているんだという態度の上司と仕事をしていくうちに僕は本格的に心が病んでしまいました。

勤務して1年半くらい経った頃、僕は本格的に夜眠れなくなり心療内科で『適応障害』と診断され睡眠薬と向精神薬を処方されるようになります。

頑張ってみたものの症状は悪化する一方でしたが、唯一心理カウンセラーと話す中で『今自分がいるべきなのはこの環境ではない』ということがだんだんと見えてくるようになります。

心理カウンセラーと話す中で自分が納得できないことや許せないこと、不安に感じていることなどは結構素直に話すようにしていました。

僕は自分のできないことやダメなところも正確に認識していたので、才能をしっかり生かして働かなければ不幸になってしまうと自覚が芽生えるようになっていきます。

この頃です、Webに出会ったのは。

今考えたらこの時Webに出会ってなければ本当に色んな意味で人生を詰んでいたかもしれません。

勉強しようと思ったきっかけはエンジニアの友達がいたのと、スキルさえつけておけばそれなりに不自由のない生き方ができるようになるという点、場所や嫌な環境や人間関係から逃れられるという気持ちもあって藁にもすがる思いで勉強を始めたのです。

さらに、もう自分には『会社員は絶対に無理』とも思っていました。当時仕事を変えるとなった際、正直世の中で安定と思われている公務員が続けられないとわかった時点で『自分はみんなができることができない』ということで本気で悩んだのです。

自分は社会にとってお荷物なのか、誰の役にも立てないまま死んでいくのかと考えたら今でも結構しんどくなります。

当時は何が幸せなのかも分からなくて、よくアドラーの『嫌われる勇気』とか色んな哲学書を読みあさっていました。

僕にとって重要なのは『安定』ではなく、『精神的なしがらみから自由でいる』ことだったのです。

そんなこんなで、独立できる仕事や自分でコントロールできる仕事について考えて調べていくうちに『フリーランス』という生き方が見つかって僕は直感的に『これしかない』と思うようになっていました。

フリーランスって『何をしてもいい』ってことやん!!!と思ったからです。

ここで僕はフットワーク軽く常識の通用しないWebという業界に興味を抱くようになっていくのです。
ものすごいスピードで変化するからこそ、自分も常に一定の場所に存在しない人間だと思ったからこそフリーランスとしてのキャリアのスタートとしてWebはぼくにとって大変魅力的に映ったのです。

そこで2022年の1月からデイトラという教材を使ってWeb制作の勉強をスタートさせます。一刻も早く公務員を辞めたいと思っていたぼくは、1日のありとあらゆる時間をWebの勉強に注ぎ込むようになりました。

人間、現状を打破しようとする力はすごいもので、ぼくは同年の3月までにWordPressのフルカスタマイズまでほぼマスターしてしまいました。あとは案件が来るのを待つだけという状態まで持って行ったのです。

途中からZeroPlusというスクールでも現役のエンジニアからWeb制作を学び、現場で使われている技術を最前線で学ぶことになります。
ここでできた繋がりが今も生きていて、案件を振ったりする際にも今でもお世話になっています。

そうこうして過ごすうちに、最初の案件が来たのが同年5月頃。このタイミングで稼働したくてボーナスとかも待たずに速攻で役所を辞めました。

もうこの職場に未練もなかったし、早くこの環境からいなくなってしまいたいという思いの方が圧倒的に強かったのです。

そう、このようにたった一件の案件が決まったことをきっかけにぼくは勢いで仕事を辞めてWeb業界にこんにちはしてきたのです。

Webフリーランス1年目

フリーランスになって最初に思ったのは、『なんだ、組織にいなくても生きていけるやん』という感情です。
当時夏でしたが、チャリに乗って商店街の営業に出かけた時にどこまでも広がる青空を見て抱いた感想がそれでした。

でも、ここで『困ったこと』がでてきます。

コーディングはできるけど、そもそもWebサイトがどうやって作られるのかを知らなかったのです。

さらに、Web制作会社に営業をしようにも、冷静に考えて技術だけあって実績のない人間を欲しいかと言われると「そんなやつ俺ならいらねぇ」と思ったので、どうやって仕事をとってきて納品すればいいのかという点において全くの未知だったのです。

その時に初めて知ったのが「ディレクション」という言葉です。本屋や現役のディレクターをなんとか見つけてきて、死に物狂いで勉強して実践の場でアウトプットして事故りながらも学んだことで段々身についてきたというのが正直なところです。

一番怖かったのは、サーバーの移管がうまくいかなかったことです。

申請がうまくできてなくてサイトが映らなくなった時は訴訟とか損害賠償とかがめちゃくちゃ過ぎりました。

でも、クライアント様も本気で対応してどんな時でもすぐに対応していった誠実さを見てくださって許してもらえるという大変ありがたい経験もしました。

事故を起こさないに越したことはないですが、失敗からしか学べないのも事実なのでやらないよりやっていくのが大事というのはこうした現場の経験があったからだと今でも思っています。

そして、ディレクションについて学ぶ中で他にも色んな疑問が出てくるようになります。

  • Webサイトってそもそも何で存在してんの?

  • ブランディングって何?

  • マーケティングってそもそもどういうこと?

  • 広告ってなんで必要なの?

  • SEOってなに?

  • SNSがあるのになんでWebサイトが必要なの?

  • そもそも今Webサイトなんか見られなくない?

  • というか根本的な問題解決するとしたらWebだけじゃ絶対に無理だよね?

  • そもそもビジネスとして破綻しているとしたらいくらマーケティングしても売り上げ伸びなくない?

  • デザインてなんで見た目だけじゃダメなん?

  • 保守運用ってなんで必要なんやろ?

  • Webって別に万能ではないよね?

  • なんでWebサイトってこんなに高額なん?

  • そもそもWeb業界の人以外Webのリテラシーめっちゃ低いのにどうやってその重要性伝えるん?

こうした『問い』がみるみる出てきて、それに対して自分で答えを見つけていくことをしない限り生き残ることはできないのだと、気が付いてからはとにかく必死でした。

この辺については聞けば確かに教えてくれる人はいましたが、ぼくは『自分が納得しないと意味がない』と思う性格なので、人に説明できるようになるまで必死で勉強して営業の現場にとにかく出るということを繰り返してきました。

そうこうするうちに今度はWSSクラスに出会うことになります。動画コンテンツで作られたWebについてのディレクションはもちろんのこと、当時やっていた営業がまさにエンド営業だったので、そのことについて詳しく知ることができたのはぼくにとって大きな出会いとなりました。

1日でも早く売り上げを立てなきゃいけないというプレッシャーがある中、マジでほぼ一睡もせずに動画の内容をNotionに起こしてその場で全部記憶してロープレして頭の中でも声に出すこともやって録音もして一気に自分の血肉にして、それをすぐにアウトプットして手応えを確認するという作業を行なっていきました。

その結果、テレアポして最初に決まったのが大手の専門学校さんのLPの制作案件だったのです。

そこの専門学校の方とは今でもお世話になっていて、数ヶ月に1度は今でもお会いして状況とかを報告し合うような関係を築いています。

テレアポも人生で初めてだし、一回すんごいブチギレされたこともあるし、ガチャギリもあったけど、そんなことで落ち込んでいる余裕は当時のぼくにはなかったのです。なんとかして生活の基盤を作らないと死んでしまうという状況の中で必死にもがいていました。

こんな感じで、『とにかくやれることは全て』やるという生活を送っていたのが、フリーランス1年目の働き方です。

他にも、自分が卒業したスクール交流会には絶対に顔を出すようにしたり、ビジネス交流会にも参加してみて必ず『覚えていてもらう』ということを意識していました。

一回覚えて貰えば、次会った時に色んなことがスムーズに進みます。関係値があるだけでいいと思っているのは、今の仕事がそうしたところからの紹介で成り立っているからです。これは結果論ですが、とにかく人に合うということをしていたおかげで今もお仕事があるわけです。

さらに、当時はTwitterでとにかく『格上』にラフな感じで絡みにいくということをよくやっていました。今はビジネスアカウントがはしゃいでて結構騒がしいですが、そんな使い方をよくしてたもんです。

Webフリーランス2年目

さて、こんな風にドタバタしている間に気がついたらあっという間に1年が経っていました。

しかしながら、ぼくはまだ自分が社会的にWeb事業者・ディレクターとしてどのくらいの実力があるのかちゃんと分かっていなくて、その点に不安を感じていました。

そこで、どうにかして制作会社の人やゴリゴリのディレクターさんに会えないかと思案していた頃、当時X上でたまにコミュニケーションを取っていたタケさんというディレクターさんがジンギスカンやってるという投稿をしていて「これはチャンス!」と思って考えもせずにリプライを送ったのを記憶しています。

で、迎えた当日。ぼくはどうやらTwitterのアカウントから情報商材やってると思われたらしいです笑

でも話してみてどうやらちゃんとやってるということを分かってもらえたみたいで、なんだかんだ今でもコミュニケーションをとらせていただくような感じです。

そこから色んな人に話を聞いて、他人との比較を上手に活用することで『今の自分の立ち位置』を正確に知ることができたのは大きかったです。
自分のディレクションに自信が持てるようになってきたのはこの辺りからです。

そして、結構デカめの案件に飛ばれたのもこの時です。

当初契約書も巻いていて、入金はされてなかったのですが案件自体は進めている状況でした。入金されてないというのが不味かった。

それに相手は思った以上に自分の事業にやる気や思い入れがあったわけでもなかったようで、最終的には謎のおじさんが登場してきて案件を切ってくるという意味不明な状況で案件は終わりを迎えました。

これはぼくに取って結構大きな出来事で、自分の生き方や価値観にも影響をかなり与えています。

当時は本気で殺してやろうか悩んだし、実家を突き止めて取引先にも連絡してその人たちの信頼を片っ端から潰してやろうかと思っていました。

当時Xでかなり荒れてたのですが、人間不信になりそうになったし当時のぼくはとにかく『お金を稼いでやろう』と思っていたのもあって本気で色んな人を騙してでもお金を巻き上げるのが正解なのかもなと思うようにすらなっていました。

このように人間不信と絶望のどん底に落ちていたところ、何人かの人がぼくのことを心配して声をかけてくれました。

その時深夜にも関わらず色々話をきてくださったり、自分が裏切ったわけではないことの方がいいということが段々と見えてくるようになりました。

その時、ぼくは過去に自分も人を裏切ってしまった経験があって「同じような気持ちだったのかも」と思って勇気を出して傷つけた人たちに対してしっかり連絡して正面から謝るという行動をとることを決心します。

この時に何より感じたのは、自分が大事だと思っていた富や名声のようなものは人生を充実させるようなものではなく、困ったり悩んだ時、辛いと思った時に、それでも一緒にいてくれる人が誰なのかということが大事なのだと思うようになりました。

ここから大きくぼくのビジネスだけではなく『生き方』に関する価値観が大きく変わっていくことになります。

それまでのぼくは『売上』がない奴に人権はないし、作れない人間はビジネスの土俵に立つ資格はないと思っていたし、動けない人間には価値がないと本気で思っていました。自分ができていたからです。

でも、先の案件に飛ばれる経験やマネジメントで大きく失敗した経験を経てから『人を動かすということはどういうことなのか』について真剣に考えていくことになります。

これを考え始めてからクロージングが強くなったのもあります。

そして、冷静になって考えた時に「なぜ自分がスキルとお金に固執していたのか」を振り返ってみました。

その理由は至ってシンプルで、『自分に自信が持てないから』でした。

そして、自信がないから不安になってお金やスキルを身につけていくことで「俺は社会から必要とされている」という安い自信にしがみつくことになっていたのです。

そんな状況で生きてきたから、その姿勢によって傷つけてしまった人が多くいることも段々と見えてくるようになってきたのです。

そして、自分がどれだけ『みんな違う人間なんだ』という当たり前の事実に気が付いてなかったのか思い知らされるようになるのです。

ここで、ビジネスの厳しさとはまた違う現実の厳しさを目の当たりにすることになります。

そこでぼくはまた新しい壁にぶち当たるようになります。

それは、『自分だけが何かをできるようになっても意味がない』ということです。

自分以外の人間が本当の意味で『幸福』を追求するために自分にできることはなんなのか?ということについて真剣に悩むようになったのです。

そのために、ぼくは自分が社会に対して『どのような価値を提供できるのだろうか?』について考え始めることになります。

自分がどういう人間なのか、これまでどのようなことに真剣に向き合ってきたのか、どんな才能があって今の自分がいるのか、何が許せなくて、どんなことが幸福であるために重要なのか。

なぜこんなことを考えたのかというと、まず自分のことを正確に知らないことには他者に対して影響を与えることなどできないと感じたからです。

自分がされて嬉しいこと、嫌なこと、どんな風にみられたくて、なぜそのように感じたのか、そうしたことに初めて本気で向き合ったのです。

このように時間を割いて自分の人生と本気で向き合ううちに、こうして今書いている間にも「俺ってマジで現状に満足しないんだな」とか気が付いてしまったりしています。

自己理解のために使用したのは、八木仁平さんの書籍である『世界一わかりやすい「やりたいこと」の見つけ方』に沿って時間をかけて掘り下げを進めていきました。

この途方もない作業のおかげで、ようやく自分のことが少しずつ見えてきて迷いなく色んなことが書けるようになってきました。

これまで本当にしんどかったけど、生きててよかったと本心から思えるようになってきています。

これからについて

自己理解を通じて、ぼくがこれまでの人生を通してどんな価値を届けられるのかについて考えた時に、ぼくにできることは『徹底的に考えること』『納得するまで理論を突き詰め切る』こと、『正解を自分で作れることが重要だという価値観を作るお手伝いをする』など、自分の考える力や分析する力、他の人より遥かに広い視野と知識でその人の人生がもっと充実するという結論に至りました。

今は、それを『どんな形で実現していくのか』ということです。

ぼくは建設的ではないことは苦手だし、かといって本当に能力の足りない人は社会で競争社会で結果を残すことは難しい。

それでも、それぞれの人間が自分のことをきちんと理解して生き方を選ぶことはできるはずです。

そうしたことを考えていくうちに、自己理解のサポートをしたりキャリア相談に乗ることが段々と増えてきています。

ぼくはどうやら『壁打ち相手』『相談相手』として最適な立ち位置にいるようなので、ひとまずキャリアの相談をはじめとする人生全体の相談に乗って建設的な課題解決を提供できるようになると考えています。

現に、今何人かキャリアや今後の人生について相談に乗ってきていますが、そもそもこれからどこに向かうべきなのかについて悩んでいる人であれば誰でも力になれるはずです。

今後そうしたサービスを展開しようと思っているので、フリーランス3年目はその準備や実績を作るために動くことになりそうです。

最後に

ここまで自分の人生とキャリアについて本音で全部書いてきました。
ぼくは誰よりも本気で人生について思い悩み、考えてくることができたのでその経験を活かしてこれから社会にもっと価値を提供したいと思っています。

自分の生きる道を自分で決める自由を人間は本来持っているものの、それに自分で気がつくことは大変困難です。

だからこそ、第三者の視点からであり、かつ多様な経験を持つ自分だからこそ偏見や年齢、性別、人種、出生に関わらずフラットに人の相談に乗ることができるのです。

これを読んでいる方の中にも、自分は本当は何がしたいのか、どんな人間なのかわからなくて困っている人も多いと思います。

そして、自分の性格の中で他人から言われて「ダメなところを直さなきゃ」とか「だから自分はダメなんだ」と思う人、はたまた「コイツ、なんでこんなに無能なんだよ」とか「やれっていってるのになんでできねぇんだよこいつ」と思う人もいると思います。

あなたはどっち側の人でしょう?

どちらがいいとか悪いとかではなく、『長所』はわかりやすいですが『短所』は長所が『本来出てはいけない場面で場面で出てしまっているだけ』なので、その短所が出る場面と長所として生きる場面を正確に知って、才能が生かされるベクトルを理解すればいいのです。

このように、今の日本にはまだまだ視野が狭く思い込みや偏見が蔓延っているので、その現状を少しでも変えられるような何かをしたいと思っています。

ここまで読んでくださった皆様ありがとうございました。

よかったら感想も聞かせて欲しいです。

また、壁打ちしたい人がいたら気軽に連絡して欲しいです。

いつでもお力になります。

本日はこれで!

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