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能力主義批判を仕事の合間に読むとグチャグチャな気持ちになれて最高

「疲労社会」を読みました。韓国の哲学者が書いた、能力社会を厳しく糾弾するような手厳しい一冊。若林恵さんのQuarzのコラムで引用されてたのを読んで知ってすぐに買いました。象徴的な箇所が引用されてて雰囲気を感じられると思うので、突拍子もないですが、僕も引用します。

規律社会の否定性が生み出したのは(禁止や命令に従わない者としての)狂人や犯罪者であった。それに対して能力社会が生み出すのは(然々することができない者としての)うつ病患者と無能な人間ある。
規律社会から能力社会への移行に伴う物の見方の変化(パラダイム・チェンジ)は、ある次元では連続性も示している。社会的無意識に一貫して内在しているのは、紛れもなく、生産性を最大化するための努力である。だが、生産性が一定の水準に達すると、規律社会と禁止の否定図式は限界に突き当たる。そして生産性をさらに向上させるため、規律という物の見方は、能力という物の見方と「できる」という肯定図式に取って代えられる
(中略)規律に従順な主体よりも能力の主体の方が迅速で生産的なのである。とはいえ、「できる」という能為は「すべき」という当為を取り消すわけではない。能力の主体は、依然として規律化された主体である。この主体は規律という段階を修了したのである。規律の技術によって、つまり「すべき」という当為の命法によって達成された生産性の水準は、「できる」という能為によってさらに押し上げられる。(中略)
うつ病が発祥するのは、能力の主体がもはや何もできないときである。うつ病とは、第一に、何かを為すことに疲れた状態である。うつ病の個人は、何もできないと訴える。だが、こうして訴えることができるのは、できないことはなにもないと信じている社会だからこそである。もはやなにもできないということができる、こうした事態が行き着く先は、破壊的な自己批判や自虐である。能力の主体は、自分自身と戦っている。そしてこの内面化された戦いの負傷兵が、うつ病患者である。うつ病とは、肯定性の過剰に苛まれた社会の病理である。それは、自分自身と戦う人類を反映している。

最近は「メリトクラシー」に関する本にハマっていて、メリトクラシーという言葉こそ出てきませんが、要するに本著はメリトクラシー批判であると言っていいかと。直近で関連して読んだのは以下2冊です。

「すべき」から「できる」にシフトしたことで苦しくなった

超絶ざっくり一言凝縮で言えば、要するにこういうことになります。

「あなたにできないことは何もない!」
「あなたは自由だ!なんでもできるんだ!」

という「肯定性の過剰」によって、現代を生きる人々は疲労している、と。

決してこれは昔はよかった的な懐古主義に浸る話でもなく、その前の時代では、いわゆる免疫学的な、「外部からの侵入者を否定する」ことで成り立っていて、そこにはそれはそれで一種の「しんどさ」もあったんだろうという話なのだけれど、

もう今の時代では、規律によって縛られている社会ではなく、なんでも自分で選択することが”できる”社会であるものだから、「免疫がウイルスに反応して排除する原理」が働くみたいなことは起きづらい。つまり「こんな規律があるからキツイんだ!」と愚痴を垂れる余白すらない。

「あなたはなんでもできる」という論調は、「あなたがやらないのはあなたのせいだ」という自己責任論につながり、これが根ざしてるのがつまるところ「能力主義社会」という話になってくる。この社会を「メリトクラシー」と呼ぶわけです。

能力がある人間はそのぶんの対価を得られて当然?

そんなふうに思ってる人も多いんじゃないかなと思いますが、能力主義に従う社会がここまで成り立ったのはわりかし人類史的には最近のことで、

しっかり議論していくとグダグダな理論なんです、これ。

能力ってどこまで自分の成果?
能力って社会に対して相対的なものじゃない?
とかとか、煎じていくといろんな濁りが出てきます。

そのあたりを刺激的に書いてくれてるのがサンデルさんの新著。

これは本気で面白いので読んでほしい。「これからの正義の話をしよう」と読んで興奮した経験のある世代なら、絶対ハマると思います。

メリトクラシーな社会って美しくない

最近こればかり言ってますが、メリトクラシーな社会って、つまるところ利己的な社会なんです。オール運ゲーな世界においてたまたま有利だっただけの人々(努力してきたあなたもその一人)が、「これは俺が受けて当然の報酬だ」と言って能力主義社会に甘んじてるのがダサみの極みです。

誤解なきよう添えおくと、僕は小中高と剣道少年でしたので、勝ち負けの世界は結構好きです。「みんなで手をつないで一緒にかけっこゴール」みたいな世界は気持ち悪いです。社会主義は嫌いです。勝ち負けを決めるトーナメントは大好きだし、勝負事に身を置く人間は全員「勝つことがすべて」という厳しい覚悟のもと戦いやがれ。と思うほどには武士道ど真ん中です。

でも、そんな僕が思うわけです。能力主義社会はダサいと。このへんで何か感じてくれる方がいれば嬉しいです。

僕はメリトクラシーに傾倒しゆく社会が「ダサい」と思ってまして、ここをどうにかしてゆくのも僕が人生で掲げたいミッションの1つにランクインしております。

メリトクラシーの本を仕事の合間に読むと心と頭が混乱して面白い

話を戻しますが「疲労社会」において著者は「無為の時間」の大切さを語ります。バタイユの蕩尽を思い出しますがバタイユと違うのは、それが思想ではなく哲学であることです。「無為の時間」を軽視する「肯定性の過剰」な社会がひどく危険であることを、著者は神話、論文、小説などからさまざまに引用して述べています。

つまり「無為の時間いいよね」ではなく「無為の時間がないのやばくね?」という感じ。

僕の最近のブームは、この能力主義批判な本たちを、お昼休みに読むこと。仕事が立て込んで多忙を極めるなか、無理やり時間を作って昼休みに読書にふけり「忙しい疲労社会ってまずくね?」という主張を真っ向から浴びると、仕事に打ち込む自分と、そんな自分がメリトクラシーにまみれてるようでおかしい気がしてくる自分とが二律背反気味に存在しはじめて、一種のカオスな心持ちになれます。このぐちゃぐちゃになる心境が面白いのです(笑)

自分が全力で打ち込んでいる仕事に対して、「それって疲労社会じゃね?」と横槍を入れられる感覚。そしてその横槍を全身全霊で受け止めて、「たしかに!」と唸ってる自分。間違いなく、心も頭も混乱します。

ただこの横槍による心理錯綜は、物事の本質を見る上で大変重要なものだと感じていて、かなりおすすめです。やってみたらわかります。これは結構大事。偏らないから。

ぜひ昼休みに社会学や哲学の本を手にとって見てください。「あれ、僕はなんのためにこんなことやっているんだ?」と自問しながら「ウダウダ言わず粛々とやれよ」と自分を追い立てる自分。この状態が最高だと思います。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!