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「働く」は、人生におけるただの動詞の1つ

私にとってはたらくとは?というお題のnote企画、今日の23:59が締め切りなのだけど、今現在23:31。思い立ったようにMacを開いて書き始めたものの、果たして間に合うのか。

そんなヒリヒリした執筆に取り組んでいる僕ですが、こう見えて、実は美術館が好きだ。(最終的にちゃんとお題に戻ってこれるのかも、みなさんヒリヒリ心配しながら読み進められてください)

正確に言えば、定期的に美術館など文化的水準の高い空間に身を委ねなければ、なんというか、心身のバランスが狂う感覚。

美術館は、「意味」や「目的」といった概念から遠く離れた次元に刻み込まれた、それでいてとんでもなく高い熱量や、引くほどの達観や、感心するほどピュアな欲望が、自然と僕の中には入ってくる場所。

「意味」や「目的」に偏重癖のある僕にとって、無為の愛おしさや素晴らしさに立ち返らせてくれる時間はかなり大切なものなんだな、と最近特に思う。

仕事の合間や、仕事帰りに立ち寄っては、「ああ、そうだった。意味なんてどうでもいいやんか」といった幸福感を受け取ってバランスをとる。有り体に言えば、論理一辺倒な僕が、感性のほうに振り切ってバランスをとる、左脳だけではなく右脳を使う。

まあ、そんな話だ。

新卒の頃から定期的に美術館や博物館に足を運ぶことが、僕にとって大切なルーチンになっている。


ところが、ここ9ヶ月くらいだろうか。全然美術館に足を運んでいない。

理由は特にないんだけれど、純粋に優先度を下げていたのだろう。気づけばめっきり無為を感じる時間がなくなっている。

仕事が忙しく、新しい挑戦をしまくっていた。というのはもちろんある。忙しいを理由に行かなくなっていた、というのなら別に大した話ではない。

意味や目的を重視する僕にとって、昼休みや帰宅際の寸暇を惜しんでslackを返したり案を練ったりすることのほうが、大事に思えていたのだ。

ただ、今振り返ってみると、驚くことに、

この9ヶ月くらい。僕史上でも、最も失敗の多い時期だったんじゃないかと思う。時間を切り詰めて、美術館に行く時間をタスク管理の時間にあてて過ごすほどに、時間と労力を何倍も投資した結果、なんとびっくり、パフォーマンスが下がっているようなのだ。

もちろん新しい挑戦をしてる以上、失敗はあたりまえだし、その原因は複雑にいろんなことが絡み合っているとは思いながら、

間違いなく、直感的に今感じているのは、色々仕事がうまくいっていないひとつの象徴的な理由に「美術館に行っていない」は大きく影響しているように思えてならない。

意味偏重、目的偏重になった僕は、きっと何か、とても本質的なことを見失っていたのではないかと思う。


「働く」ことについて話すとき、僕らはどうしても、働く目的だとか、働く意味だとか、そのもの自体よりも、そのものを表す概念にばかり固執しがちだ。

ただ、今こうして感じるのは、「働く」ことも実は無為自然でよくって、「働く」とか「食べる」とか「旅する」とかは同列で、人生における動詞のひとつにすぎないんじゃないか、ということだ。伝わるかなこれ?(笑)

僕自身、仕事を仕事と思っていない節があって、「さあ、採用の媒体戦略を考えようか、それともネトフリでイカゲーム見ようか」くらいのテンションで仕事をしてるので、「働く」ことをさほど特別な行為と捉えていない。ホント部活動感覚で、野球部に入ったからには野球を全力でやるし、野球やりたくないならやめればいいじゃん、って思ってしまうほうだ。

でもこれって、恵まれた人間が考えがちなマッチョ思想で、こういう考え方がしんどい人もいるんだよな、と思ったりもしていたけれど、

「働く」ことも実は無為自然でよくって、「働く」とか「食べる」とか「旅する」とかは同列で、人生における動詞のひとつにすぎない。と、そう考えると、別にそれも対して気にする必要がない気がしている。

私にとって働くとはなにか?

それはもう無為なこと。食べるとか旅するとか、そこにいちいちなぜなぜを問わないように、ただの人生における動詞の1つなんじゃないかな。

そう考えるのもステキだな、と思った。



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