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ぼくの中にある帝国主義をどう解くかーガザ戦闘100日で考えたこと

 10月7日に、ハマスの武装集団がイスラエル領内に進撃し、人々を殺傷したり人質として拉致したことを端に発し、イスラエル軍によるガザ地区への侵攻が始まってから、100日が経過してしまった。
 たしかにハマスの武装集団が行ったこと、そして今も行っていることは、人道上も国際法上も、許されない犯罪である。
 しかし、その報復、あるいは自衛として始まったイスラエル軍の攻撃により、200万人の人々が、家を破壊され、殺戮に怯えて逃げまどい、寒さと飢えに苦しみ続けている。そして今も、状況はどんどん悪化している。ヨルダン川西岸区域でも、イスラエル軍による攻撃がエスカレートしている。これもまた、明らかな人権侵害であり、戦争犯罪であり、その規模は報復や自衛という範囲をはるかに逸脱したものだということは、誰もがみとめることだろう。

 ぼくはこの100日間、スマホやPCの画面越しにではあるが、悲惨な状況を見続けてきた。現地からの悲痛な声を聞きながら、いまだにこの争いを止めることのできない自分の微力さを痛感してきた。
 加えて、学べば学ぶほど、この争いの背景に、いかに深刻な国家的な暴力があったかを知り、そのことに関心を寄せることのできなかった自分の過去にも、落胆をせざるを得ない。

 しかし「自覚者が責任者」との言葉がある。微力ではあるが無力ではない。この間、自分なりに大急ぎで学び直しをした中で、この事態をどう捉え直すようになったのか。そして、どう行動していこうとするか。この100日を経た現時点での考えを、ここに記しておこうと思う。

 今の思いをすべて書きだそうとしたので、長い文章になってしまったし、冗長でまとまりを欠いた文章にもなってしまっている。
 なので、読みやすいものではないとは思うが、この問題に少しでも関心を持ってくださる方、心を痛めている方にとって、何らかの参考になれば幸いである。

 なお文末に、資料集もつけておいたので参考にしていただければと思う。


●なぜ「人権」を掲げる西側諸国がイスラエルを非難できないのか

 ハマスの武装集団による攻撃への「報復」「自衛」そして「ハマス壊滅」の名のもとに行われているイスラエル軍による侵攻は、民間人、特に子どもたちに向けた攻撃や、食料や水の供給ルートの遮断、病院の破壊などを含んでおり、明らかな人権侵害でもあり国際法違反である。

 当然、「人権」の擁護を掲げてきた西欧諸国は、ハマスによる奇襲と同様、あるいはウクライナへのロシアの侵攻同様、イスラエルの攻撃に対して、非難をするものだと思った。しかし、西欧諸国は一様に、イスラエルを支持し、軍事支援すら行った。ぼくは大きな衝撃を受けた。なぜ?

 歴史を紐解けば、イスラエルは、1948年の建国と第一次中東戦争(アラブの人々は「ナクバ」と呼ぶ)以来、戦争で領土を広げてきた。1967年にヨルダン川西岸地区とガザを占領して以来、パレスチナ自治区では暴力的な入植を行い続けており、人々は不当に家屋や土地を奪われてきた。そのことは人権侵害として国連でも非難されているが、イスラエルはその行いを止めてこなかった。
 加えて2007年には、ガザ地区から入植地を引き上げ、その代わりに巨大な壁をつくってガザ地区の封鎖を行った。ガザの人々は外に出ることは叶わず、食料も十分に得られず、水や電気も満足に得られない状況に置かれた。状況の打破を訴えて、ガザ市民が平和的なデモを行った際にもイスラエル軍は発砲や殺傷を行った。
 これら、イスラエルが国家として行ってきたことは、明らかな人権侵害である。にもかかわらず、西側諸国はそのことを問題として取り上げ続けてこなかった(日本の政府やマスコミも含めて)。いわば、見て見ぬふりをしてきた。
 それはいったい、なぜなのか。

●「帝国主義」と「外部化」

 いろいろと調べた結果、行き着いた結論、それは、西側諸国には「帝国主義」国家としての性格が、未だに残っているのではないか、ということだ。そしてその本質とは「外部化」ではないかと。

 以前、歴史学者の藤原辰史さんのお話の中で、自由や平等といった西欧的な価値観(それはナチスにもあったもの)は、あくまで西欧国家の中でのみ成立するものであり、その背景には他民族への植民地支配と差別があった、というようなことを伺った記憶がある。

 つまり西欧の「自由」「豊かさ」「平等さ」の裏側に、アフリカやアジアの植民地での搾取があったということ。「民主的」な社会とは、植民地での強制労働あるいは低賃金労働、または資源の搾取といった負担の「外部化」によって成立していたようなのだ。

 ちなみに「外部化」は、環境問題を語る際にも使われてきた言葉だ。経済活動によって起こる人の健康や自然環境への影響も「外部化」することで、資本が太り、人々の健康や自然環境が破壊されてきた、という構図で語られる。これは「資本主義経済」による「人間の生命や自然環境」への支配という関係で捉え直すこともできよう。

●帝国主義国家による「外部化」としてイスラエル建国を捉え直す

 また、今回の学び直しで知ったことがある。それはナチスドイツによるホロコーストで知られるユダヤの人々への差別や迫害は、ドイツだけに限られたものではなく、もともとヨーロッパ各国にはあったものだということ。当時のロシア領内(現在のポーランドやウクライナなど)では「ポグロム」と呼ばれるユダヤの人々への差別や迫害(大量の殺戮も含む)もあった。

 つまり、ドイツを筆頭に、ヨーロッパの人々は、ユダヤの人々への重い罪を背負っている。

 ユダヤ民族の国家の建設を望む人々(シオニズム運動)に対し、ヨーロッパの人々(特に責任が大きいのは三枚舌外交を行ったイギリス)はパレスチナを分け与えることを約束し、1948年には国連決議でイスラエルが建国されることとなる。
 しかしイギリスが委任統治から撤退し建国された直後から第一次中東戦争が始まった。このときに住まいを追われたのが、パレスチナにいた人々、特にアラブ系の人々だ(彼らはこのときのことを「ナクバ」と呼び、今回のガザ侵攻はこの記憶を呼びこすものとして語られている)。一方で、イスラエルの人々も、常に、アラブの人々に土地を取り返される(国家を滅ぼされる)不安の中にある、という状況でもあるとも聞く。

 仮にこのとき、ヨーロッパの人々が、ユダヤの人々の居場所をヨーロッパの中におくことができたなら(共存する、あるいは国家を作るなら、ヨーロッパ内につくる)、今に続くこの対立状況は起きていないのではないか、と思う。しかし当時、その選択肢はとられなかった。つまり、依然としてヨーロッパの人々はユダヤの人々を「外部」に起き続けたのではないかと思う。
 しかも、パレスチナという「外部」の地で、「アラブ人」という「外部」の人々の犠牲によって、自分たちの贖罪をしようとした。

 ヨーロッパ諸国は、直接にパレスチナの人々を攻撃したわけではないが、イスラエル建国の支援を通じてパレスチナから人々を迫害したという意味では、今、パレスチナで起きていることと、大きな構図は変わっていないと言えるのではないか。
 そういう意味では、住まいを追われたパレスチナの人々も、ヨーロッパから追い出され自力での建国を求められたイスラエルの人々も、西欧諸国の帝国主義による迫害を受けた人々だと言えるのではないかと思う。

 以上のような経緯があるから、ヨーロッパの国々はイスラエルの「人権侵害」を知っていても、イスラエルを強く非難できないでいるようだ。
 自分たちの罪をイスラエルとパレスチナの人々という「外部」に問題を押し付けたつけが、こうした足かせとなっているのではないかと思う。

 ほんとうに「人権」の擁護を求めるのであれば、イスラエルの現在の蛮行にはしっかりとNoを突きつけ、アラブ諸国との和平実現のために、責任を果たすことが、これまで帝国として中東やアフリカなどを支配してきたヨーロッパ諸国の人々に求められることではないかと思う。

 なお、アメリカがなぜここまでイスラエルを支持するのかについては、いくつかの憶測はあるが、まだ十分、納得のいく理解ができていないので、これについては現時点では言及を控える。

●日本のぼくらの「支配者」と「被支配者」としての両面性

 さて、翻って日本を見つめてみる。
 「帝国主義」的な構図で日本の人々が歩んできた道をたどると、「支配者」と「被非支配者」の両面的な状況が立ち現れる。

 支配者としてのそれは、明治時代に西欧諸国を追って富国強兵をした近代国家の日本としての姿がある。「大和民族」の優位性を語り、アイヌの人々、琉球の人々、そして台湾、朝鮮、中国、東南アジアなどの人々を差別し、暴力をふるい(殺戮もし)搾取し支配してきた、まさに「大日本帝国」であった。
 さらに、戦後は武力で他国に攻め入ることはなくなったものの、経済復興し、他の西側諸国と肩を並べる「先進国」として、アジア諸国に対して経済的な優位性を保ってきて、労働の搾取や自然破壊などの「外部化」を行ってきた歴史もある。その点では、軍事的ではないにせよ、経済的に帝国主義的な振る舞いをしてきたと言えるのではないかと思う。

 逆に被非支配者としてのそれは、アメリカによる空襲や原爆投下といった民間人虐殺の経験がある。いまだにアメリカでは原爆投下が第二次世界大戦の集結のために必要だったと認識している人が多く、その非人道性を理解している人もまだまだ一握りだと言われている。なぜなら、当時、日本での惨状はほとんど伝えられず、その投下の意義ばかりが吹聴されて、人々の記憶に残っているからだ。
 いま、日本のマスコミではパレスチナの惨状がリアルに伝わらず、イスラエル軍の発表だけがさも正当であるかのように報じられているが、おそらく当時の日本がいまのパレスチナで、当時のアメリカがいまのイスラエルと西側諸国(日本も含む)なのだろう。

 加えて、日本は、アメリカの軍備の中に位置づけられている。基地立地地域、特に沖縄の人々の暮らしや自治が脅かされているという状況も非支配的といえる(加えて、沖縄の状況について言えば、辺野古でいま起きていることにも象徴されるように、本土のわたしたちによる沖縄への「外部化」という国内での「構造的暴力」もあるといえるだろう)。

●「それ」ではなく「あなた」としての関係

 さて、こうした複雑な状況の中で、わたしたちはどういう選択をすることができるか、について、考えたい。

 情報発信、署名、デモ、請願…さまざまな行動のどれもが大切だと思う。
 ただ、何をするにせよ、まずはこれが大切ではないか、と思い至ったことがある。

 それは、一人ひとりの人と「それ(It)」ではなく「あなた(You)」として人との関係を育む、ということ。もう少し言葉を変えれば「交換可能な、ある集団の一人」ではなく「交換不可能な、唯一の存在」として、人との縁を育む、ということだ。(最近見聞きしたものでは、社会学者の宮台真司さん、歴史学者の藤原辰史さん、人類学者の松村圭一郎さんの言葉に類似の主張を見出した)
 つまり、何人、という数字に記号化しないということ、「○○人」などの属性で人を分けない、ということ。あるいは、属性を自分のアイデンティティの最重要要素にしないこと。属性はあくまでその人や自分自身の特徴の一つではあるが、大切なのはその人がかけがえのないその人である、という固有性だ。

 個人の固有性に着目すれば、ぼくらは、国籍とか、人種とか、思想とか、信教とか、血筋とかによる分類から、自由になれる。集団として括ることからも、括られることから自由になれる。

 例えは適切ではないかもしれないが、ぼくらがゴキブリを殺せるのは、ゴキブリ一匹一匹に固有性を認めていないし、ゴキブリは不衛生で忌むべきものと認識しているからだ。「何匹のゴキブリ」として扱うから、心の痛みなく、殺せる。
 でも、固有の名前があるペットを殺すのは、良心が痛むだろう。なぜならその存在は、自分と固有の関係を結んだ、いわば自分自身の一部になるからだ。

 同様のことが、人との関係においても、同じことが生じるはずだ。

 いま、アラブ系の報道(アルジャジーラ)とイスラエルの大衆紙の報道(たとえばイェディオト・アハロノト)を見ていると、その差は歴然としている。
 イスラエルの大衆紙の報道では、イスラエル軍の戦果や、殺されたり人質になったイスラエル人一人ひとりのエピソードは語られる(アメリカでも、捕虜になった子の状況は大きく取り上げられたようだ)。しかしガザで、あるいはヨルダン川西岸地区で殺された人、逮捕された人一人ひとりのことは語られない。「ハマス」「テロリスト」とレッテルを貼られ「○人」という数字で語られる。
 だから、被害にあった人たちには連帯の気持ちが湧く一方で、パレスチナの人々は自分たちの「外部」あるいは「危険分子」として切り捨てることになってしまう。イスラエルの人々の多くはパレスチナの人々を殺すことを容認できてしまうのだろう。
 加えて、アラブの人々は野蛮で危険だ、という情報に常にさらされているから、その傾向は更に強まる(これは日本でも同様。これまでに刷り込まれてきた「アラブ」や「イスラム」に関する印象も、マスコミに作られた面が十二分にあると感じ直している)。

 こうした状況は、イスラエルとパレスチナを阻む壁がつくられてから、加速したとも言われている。
 集団を分断すると、人と人とが対立する、というのは社会心理学でも得られている知見だ。
 もし仮に、イスラエルの人々が、パレスチナの人々との個人的なつながりを持てていたら、あるいは、命を落とし、傷つき、苦しむ一人ひとりの人格と生命を、イスラエルの人々と同じ価値あるものとして認識できる状況にあれば、イスラエルの人々も、ここまで好戦的に傾くことはないのではないだろうか。

 実はこのイスラエルの態度やマスコミの状況が、かつての日本とそっくりであったことも知った。1930年に台湾で起きた「霧社(むしゃ)事件」についての経緯だ。
 日本の永年の支配に耐えかねた現地住民の人々が突然蜂起し、植民地支配をしていた日本人たちを惨殺した。それに対して日本軍は彼らを徹底的に弾圧し、殺戮し、生き残った人もごく狭い集落に強制移住させたという歴史。
 このときのマスメディアの報道もいまのイスラエルや西欧と同様で、殺された日本人については同情して書き立てるのに、殺された人々は「蛮人」として、何人、という、数字の存在として人格を消されていた。
(詳しくは、駒込武さんの講演や雑誌「世界」2024年1月号への寄稿に詳しい)

 今日もNHKの報道を見たが、ガザでの被害は部分的には報じられてはいるものの、基本はイスラエルが発表した「9000人のハマスの戦闘員を殺害」が"戦果"というものをそのままに報道するものだった。
 これでは、その「ハマスの戦闘員」一人ひとりの歴史はかき消される。彼ら一人ひとりにも、家族や友人がいるし、過去の抑圧や苦しみや憎しみがあるし、ハマスの戦闘員にならざるを得なかった経緯があるはずだ。しかし彼らは、ただ最初から、危険な人々としか、捉えられていない。

●「不安」を超えて、「あなた」と「わたし」の関係を紡ぐこと

 集団と集団の対立、および分断は、ぼくらが暮らす日本の社会の中であちこちにある。思想、性別、経済力、権力、学歴などで、ぼくらは分断されつつある。SNSも、その分断を加速しているようにも感じる(特にTwitter(X)ではよく見かける。)

 気をつけなければならないのは、そうした集団対集団の構図には、わたしたちも簡単に飲み込まれやすいということだ。特に匿名での発信の場合は、それが起きやすいことを前述が森達也さんの著作でも指摘されている。
 どちらかのサイドに立って、集団の一員として振る舞ってしまったときに、わたしたちは、罠にはまりやすい。平和を求めるはずが、その熱意のあまり、熱心に求めない人との対立が生まれてしまったりする。

 ぼくが望むのは、ただ、争いがない状態だ。パレスチナにいる人も、イスラエルにいる人も、暴力や抑圧から自由になって、平穏に暮らせる日が来ること。立場や意見や見解の違う人とも、すこしずつ、共通認識を重ねていけること。

 それはどうすれば可能なのだろうか…

 そのキーワードは「不安」ではないかと思う。

 ヒントは森達也さんの著作にあった。彼は「人は群れる」動物であり、同調圧力がかかることは、ある種仕方がないという。しかし「不安」を煽られると、人々は、対立や暴力の源泉になっていく、と。
 関東大震災のあとの朝鮮の人々の虐殺も、もとはといえば「不安」から始まっていたし、いつの時代も戦争は「自衛」や「防衛」として始まってきた、という(ナチスの侵攻もそうだったと)。
 「いつの時代も戦争は、防衛を名目に始まる。」の言葉ではじまる「自由と平和のための京大有志の会」の声明も、今あらためて噛み締めている。

 振り返ればぼくらも「イスラムは危険」「北朝鮮は危険」といった認識を強められきたように思う。そうやって危険を煽られると、彼らを敵視し排除したい気持ち、国家や軍事力にすがりたい気持ちや、国民として団結したい気持ちが生じてしまう。だから「自衛」や「防衛」を強化したくなる。

 それらが軍備を増強させ、結果として、日々の暮らしや経済を細らせていくことになる。貧しさはさらに不安を募らせ…さらに…どうも、ぼくらの国も、そういう道を歩みかけているように思えて仕方ない。

 「不安」が募れば、他国間だけでなく、同じく国に暮らす者同士の中でも対立や争いが起きてしまう。今、この国で起きている対立のその背景にも、それぞれの人が抱えている不安や不満があるように思う。

 だから、異なる意見や思想を持つ人を、蔑んだり、攻撃したりすることではなく、自分と相手、それぞれの攻撃性の源泉となっている不安や不満を見つめ、その解消に務めることではないかと思う。

 攻撃が不安や不満によって起こるのであれば、不安や不満を解消すれば、攻撃は自ずと消えるからだ。

 そのためにも、「あなた」と「わたし」一人ひとりを人格ある固有の存在として、その人が今何を思い、何を求めているのかを理解することが必要だし、自分自身のそれを理解したり、開示したりすることも必要だ。

 そのことが、身近な人との間でも必要だと思うし、紛争の当事者の人々に対してもそうだと思う。

 マスコミを通じた情報だけでなく、パレスチナの人々、イスラエルの人々、日本でも声を上げている人、一人ひとりの声にも耳を傾けること。
 いまはSNSで多くの方やジャーナリストが発信をしている。twitter(X)で「ガザ」や「パレスチナ」と「#ceasefireNow」などで検索するだけで国内外の色んな人につながれる。、「Culture Against Apartheid アパルトヘイトに抗する『文化』」と題した、個人の動きの連帯も始まっている。→InstagramTwitter(X)
 また、イスラエルの中にも、和平を求めている人々もいる(たとえば元イスラエル兵が立ち上げたNGO Breaking the Silence(沈黙を破る) など)。しかし彼らは国内では圧倒的な少数派のようだ。そうした人々とつながることもその一つ。
 SNSであれば、英語さえ使えれば海外の人にも言葉を届けることだってできる。

 政府や軍隊といった顔の見えないものに頼りきるのではなく、「あなた」と「わたし」の固有の関係を、無数の一人ひとりがつむぐこと。そして、つながった一人ひとりの不安や不満を、満たし合っていくこと。その総和が、国内でも世界でも、社会の「平和力」になるのではないかと思う。

 ぼくらは微力ではあっても無力ではない。知力のある人は知力を、財力のある人は財力を、体力のある人は体力を使えばいい。ユーモアのある人はユーモアを。攻撃ではなく、安心のために。それが、着実な平和への道のように思う。国籍や、民族の差異を超えて。

 異なる言語の人の想いも理解できるように言語力を高めるのもいい、非暴力的なコミュニケーションのスキルを身につけることもいい。究極的には、衣食住に必要なニーズを満たしあえる生活技能なども大切だろう。

 そんなわけでぼくはまた明日から、一人ひとりと固有の「あなた」と「わたし」の関係を紡いでいこうと思う。満たし合っていこうと思う。

 その実践を重ねることで、僕は誰も「外部化」しなくなるだろう。自分の中ら、差別意識が消えるだろう。誰かを支配しようとしなくなるだろう。そうすることできっと、自分の中で知らずに内面化していた帝国主義は解け去り、力づよく平和を育む一人になっていけるだろう。

※今回の記事を書くにあたって参照した資料

前回の記事「マスメディアでは(あまり)報じられない、ガザ・パレスチナで起きていることを知るための情報源リスト(2023.12.31現在)」以降、今回の記事を書くにあたって参照した資料(書籍・雑誌・映像)を順不同で掲載する。

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